祝いの途中
いすず さら
小さな祝福
第一章 祝われなかった誕生日
二十七歳の誕生日の朝、佐倉直人は目覚まし時計よりも先に目を覚ました。
理由は特になかった。ただ、薄いカーテン越しに差し込む冬の光が、いつもより少しだけ白く感じられただけだ。
スマートフォンを手に取る。通知はない。
日付を確認するために、ロック画面の数字を見た。
――一月十六日。
自分の誕生日だ、と思う。
その事実は、嬉しさよりも先に、少しの居心地の悪さを連れてきた。
子どもの頃は違った。
ケーキがあり、ロウソクがあり、家族がいた。
「おめでとう」と言われるたびに、胸の奥が温かくなって、自分がこの世界にちゃんと居ていい存在なのだと信じられた。
けれど、大人になるにつれて、誕生日はただの日付になった。
祝われないことに慣れた、というより――祝われないことを、どこかで望んでしまっている自分がいた。
直人は布団から起き上がり、ワンルームのキッチンで湯を沸かす。
インスタントコーヒーの袋を破り、マグカップに粉を入れる。その動作は、毎朝とまったく同じだった。
「おめでとう」
声に出してみる。
自分に向けた言葉は、ひどく空虚に響いた。
会社では、誰も気づかなかった。
昼休みに同僚と並んで弁当を食べながら、直人は何度か話題を振ろうとして、結局やめた。
――誕生日なんです、なんて言うのは、子どもっぽい。
そう思う一方で、
――誰かが気づいてくれたらいいのに、
という気持ちも確かにあった。
帰り道、駅前の花屋の前で足が止まった。
色とりどりの花束が、ガラス越しに並んでいる。
祝い。
その言葉が、頭に浮かぶ。
誰かのために花を買う人。
誰かの人生の節目を祝う人。
自分には、もう関係のない世界のように思えた。
そのとき、背後から小さな声がした。
「すみません」
振り返ると、年配の女性が立っていた。
手には、白いカーネーションが一本だけ。
「これ、落としましたよ」
女性が差し出したのは、直人の社員証だった。いつの間にか、ポケットから滑り落ちていたらしい。
「あ、ありがとうございます」
受け取ろうとした直人に、女性はふっと微笑んだ。
「今日、お誕生日なんですね」
一瞬、言葉を失った。
社員証の生年月日を見たのだろう。
「……はい」
短く答えると、女性は少し照れたように言った。
「それじゃあ」
そして、手にしていたカーネーションを、直人に差し出した。
「おめでとうございます」
それは、あまりにも簡単で、あまりにも静かな祝いだった。
けれど直人の胸の奥で、何かが確かにほどける音がした。
「こんな歳で、すみません」
思わず口にすると、女性は首を振った。
「祝いに、歳は関係ありませんよ」
それだけ言って、女性は花屋の中へ戻っていった。
直人はしばらく、その場から動けなかった。
白いカーネーションを握りしめながら、胸の奥にじんわりと広がる温度を、確かめるように。
――ああ、これは。
祝われたのだ、と。
確かに、自分は今、祝われたのだ。
派手でもなく、大げさでもない。
けれど確かに、誰かが自分の存在を肯定してくれた瞬間だった。
その夜、直人は花瓶を買い、カーネーションを飾った。
狭い部屋に、ほんの少しだけ、祝いの気配が生まれた。
それが、彼の人生を静かに変えていく始まりだとは、まだ知らずに。
第二章 祝うということ
白いカーネーションは、思っていたよりも長く持った。
花瓶の水を替えるたび、直人はその事実に少し驚く。花というものは、もっとあっさり枯れてしまうものだと思っていた。
朝、部屋を出る前に花を見る。
夜、帰宅して電気をつけると、そこにある。
それだけで、一日が途切れずにつながっているような気がした。
会社では相変わらず、誕生日の話題が出ることはなかった。
だが、直人の中で何かが微妙に変わっていた。
人の会話に、ほんの少し耳を傾ける余裕が生まれていた。
「今度、母の還暦でさ」
隣の席の先輩が、昼休みにそう言った。
赤いちゃんちゃんこの話を、冗談めかして語っている。
還暦。
六十年、生きたということ。
「すごいですね」
気づけば、直人はそう口にしていた。
先輩は一瞬驚いたように目を丸くし、それから笑った。
「だろ? まあ、元気でいてくれればそれでいいんだけどな」
その言葉が、胸に残った。
祝うというのは、何かを贈ることではなく、
「ここまで生きてくれてありがとう」と伝えることなのかもしれない。
その日の帰り道、直人は駅前の花屋にもう一度立ち寄った。
あの日の女性はいなかったが、同じように花は並んでいた。
赤、黄色、淡いピンク。
迷った末に、直人は小さな花束を一つ選んだ。
贈り先は決まっていない。
それでも、なぜか買わなければならない気がした。
翌日、その理由は思いがけず見つかった。
「佐倉くん」
朝、コピー機の前で声をかけられる。
派遣社員の宮本由梨だった。年は直人より少し下だろう。
「今日で、契約終わりなんです」
彼女はそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。
聞けば、家庭の事情で地元に戻るらしい。
特別に親しいわけではなかったが、毎日の「おはようございます」や、些細な雑談が、もうなくなる。
「……お疲れさまでした」
ありきたりな言葉しか出てこなかった。
けれど、心のどこかがざわついた。
昼休み、直人はデスクの引き出しから、昨夜買った花束を取り出した。
紙袋に入れたまま、何度か深呼吸をする。
――変じゃないだろうか。
――余計なことじゃないだろうか。
それでも、あの日のカーネーションを思い出した。
花を差し出されたときの、あの温度。
言葉にならなかった感情。
終業間際、宮本が荷物をまとめているところに近づいた。
「これ」
短く言って、花束を差し出す。
「今まで、お疲れさまでした」
一瞬、彼女はきょとんとした顔をした。
それから、ゆっくりと目を伏せる。
「……ありがとうございます」
声が、少し震えていた。
「誰かに祝ってもらえるほどのこと、何もしてないのに」
そう言われて、直人は首を振った。
「働いて、ここにいたってだけで、十分だと思います」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出た。
宮本は花束を胸に抱え、小さく笑った。
「嬉しいです」
それだけで、十分だった。
その夜、直人は部屋に戻り、白いカーネーションを見つめた。
花は少しずつ、色を失い始めていた。
けれど、それは終わりではないように思えた。
祝いは、消えていくものではない。
受け取った人の中で、形を変えて、生き続ける。
そうして、誰かへと手渡されていく。
直人は、ようやくその輪の中に、足を踏み入れたのだった。
第三章 祝えなかった日々
白いカーネーションは、ある朝、静かに首を垂れていた。
花弁の縁は茶色くなり、水を替えても、もう元には戻らなかった。
直人はしばらくその姿を見つめ、それからそっと花瓶から取り出した。
新聞紙に包み、ゴミ袋に入れる。その動作が、なぜか胸に重くのしかかった。
――ありがとう。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からないまま、そう呟いた。
週末、直人は久しぶりに実家へ向かった。
特別な理由があったわけではない。ただ、帰らなければならない気がした。
駅からバスに揺られ、見慣れた住宅街を歩く。
玄関のチャイムを鳴らすと、母が顔を出した。
「珍しいわね」
その一言に、胸が少し痛んだ。
リビングには、変わらない匂いがあった。
テレビの音、台所から聞こえる湯の沸く音。
「お父さん、もうすぐ帰るわよ」
母は何気なくそう言った。
父。
その存在は、直人の中で長い間、祝いと結びついていなかった。
子どもの頃、父は無口だった。
誕生日に「おめでとう」と言われた記憶は、ほとんどない。
だが、働き詰めで家を支えていたことも、今なら分かる。
祝えなかったのではなく、祝う余裕がなかったのだ。
夕方、父が帰宅する。
短い会話の後、三人で食卓を囲んだ。
食事が終わり、直人は意を決して口を開いた。
「来月、誕生日だろ」
父は箸を止め、直人を見る。
「……ああ」
「その」
一瞬、言葉に詰まる。
「何か、した方がいいかなって」
父はしばらく黙っていた。
それから、照れくさそうに鼻を鳴らした。
「今さら祝われる歳でもない」
その言葉は、どこかで聞いたことがあった。
自分が、同じように思っていた言葉だ。
「でも」
直人は続けた。
「ここまで来たっていうのは、すごいと思う」
父の目が、わずかに揺れた。
「……そうか」
それだけ言って、父は立ち上がり、流しに向かった。
背中は、少しだけ小さく見えた。
その夜、直人は昔のアルバムをめくった。
七五三、入学式、運動会。
写真の中の自分は、いつも誰かに囲まれている。
祝われてきたはずの人生だった。
なのに、いつの間にか、祝われることを遠ざけていた。
翌日、帰り道にあの花屋の前を通る。
ふと足を止めると、見覚えのある後ろ姿があった。
白いコート。
少し丸まった背中。
「あの……」
声をかけると、女性が振り返る。
「あら」
驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「この前の」
「はい」
直人は軽く頭を下げた。
「ありがとうございました。あのときの花」
女性は、少し照れたように言った。
「たまたまよ」
「でも」
直人は続けた。
「すごく、救われました」
女性は一瞬、言葉を失ったようだった。
それから、ゆっくりと頷く。
「それなら、よかった」
花屋の前で、短い沈黙が流れる。
「今日は、誰かのお祝い?」
女性が尋ねる。
「いえ」
直人は正直に答えた。
「まだ、何を祝えばいいのか、考えているところです」
女性は目を細めた。
「それも、立派な祝いの途中ですね」
直人は、その言葉を胸に刻んだ。
祝えなかった日々は、失われたわけではない。
今からでも、向き合うことができる。
祝いは、過去を塗り替えるものではない。
過去を抱えたまま、前へ進むための灯りなのだ。
第四章 誰かの誕生日
父の誕生日は、二月の終わりだった。
直人は有給を取り、朝から実家へ向かった。
ケーキを買う、という選択肢もあった。
だが結局、直人が手にしたのは、駅前の花屋で選んだ小さな花束だった。
派手さはない。
落ち着いた色合いの、季節の花。
――これでいい。
根拠はなかったが、そう思えた。
家に着くと、母が少し驚いた顔をした。
「今日、仕事じゃなかったの?」
「休んだ」
それだけで、母は何も聞かなかった。
昼過ぎ、父が帰宅する。
玄関で靴を脱ぎながら、直人の姿を見て眉をひそめた。
「どうした」
「誕生日だろ」
直人は、花束を差し出した。
ほんの一瞬、父は固まった。
それから、困ったように視線を逸らす。
「……こんなもの」
拒むかと思ったが、父は結局、受け取った。
花束を持つ手が、少し不器用だった。
「おめでとう」
直人は、はっきりと言った。
父は、何も言わなかった。
だが、その夜、食卓で珍しく酒を飲み、ぽつりと呟いた。
「……ありがとうな」
それだけで、十分だった。
祝うという行為は、相手を変えるものではない。
ただ、そこに流れる時間を、そっと肯定する。
直人は、そう理解した。
帰り際、母が玄関で言った。
「あなたも、ちゃんと祝ってもらいなさい」
直人は、少し戸惑いながら頷いた。
終章 祝いの続きを生きる
春が近づき、街の空気が少しずつ緩んでいく。
直人は、例の花屋の前を通るのが習慣になっていた。
買うわけではない。
ただ、そこにある花を見る。
ある日、白いコートの女性と、また顔を合わせた。
「こんにちは」
自然に、そう言葉が出た。
「こんにちは」
女性は微笑む。
「最近、よく通られてますね」
「ええ」
直人は、少し考えてから答えた。
「祝いについて、考えているんです」
女性は、面白そうに首を傾げた。
「難しいですか?」
「いえ」
直人は首を振る。
「簡単で、難しいです」
女性は、くすりと笑った。
「誰かを祝うことも、自分を祝うことも、同じくらい大切です」
その言葉は、まっすぐに胸に届いた。
直人は、その場で一輪の花を買った。
白でも、赤でもない、淡い色の花。
「今日は、誰のため?」
女性が尋ねる。
「自分です」
直人は、はっきり答えた。
部屋に戻り、花を飾る。
カーネーションのあった場所に、新しい花が並ぶ。
誰かに祝われなくてもいい。
けれど、祝われた記憶は、生きる力になる。
祝いは、特別な日のためだけのものではない。
今日を生きたこと。
ここまで来たこと。
そして、これからも続いていくこと。
それらすべてが、祝いなのだ。
直人は静かに息を吸い、心の中で呟いた。
――おめでとう。
過去の自分に。
祝えなかった日々に。
そして、これからの人生に。
花は、何も答えない。
ただそこに在り、今日という一日を、確かに祝っていた。
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