宮廷魔導師、辞めてきました。〜小型魔導船で巡る、世界の美食とスローライフ〜
@ikkyu33
雲海とハーブティー、そして旅の始まり
エンジンの微かな振動が、足の裏から心地よく伝わってくる。
木製のデッキに置かれた椅子に深く腰掛け、私は目の前に広がる真っ白な雲の海を眺めていた。
ここは高度三千メートル。私の家であり、足であり、最高の隠れ家でもある小型魔導船『カモミール号』の特等席だ。
「……よし、いい温度」
手元の小さなテーブルには、先ほど淹れたばかりのハーブティー。
この日のために寄った北の浮遊島で手に入れた「氷晶花」の乾燥茶葉だ。お湯を注ぐと、透き通った青色から、レモンを数滴垂らすことで鮮やかな紫色へと変わっていく。
立ち上る湯気とともに、鼻腔をくすぐる涼やかなミントに似た香り。一口含めば、喉の奥にわずかな甘みが残る。
かつて、私は王都の宮廷魔導師団で、文字通り目を回すような忙しさに追われていた。
魔力測定の数値に一喜一憂し、書類の山と格闘し、冷めきったパンを口に詰め込む日々。
けれど、ある日ふと思ったのだ。
(私は、温かいスープを温かいうちに食べるために魔法を覚えたはずじゃなかったっけ?)
そう思い至ってからの行動は早かった。
退職金と貯金をはたいて、型落ちの小さな魔導船を買い取った。内装を自分好みにリフォームし、小さなキッチンを設え、寝心地の良いベッドを運び込んだ。
目的はない。
強いて言えば、まだ見ぬ土地の、まだ見ぬ美味しいものを、一番美味しい状態で食べること。
ガタ、と船体が小さく揺れた。
雲の切れ間から、緑豊かな大地と、大きな湖が見えてくる。
風に乗って届いたのは、どこか香ばしい、スパイスの混じったような香り。
「次の港は、湖畔の街ルナリアか……。確か、あそこは『銀鱗ワカサギ』のフリットが絶品だって聞いたな」
私は最後の一口を飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。
慌てる必要はない。風は穏やかで、燃料の魔石も十分だ。
私は舵を握り、少しだけ速度を落とす。
お腹の空き具合と相談しながら、今日の「最高の一皿」を探す旅が、また始まる。
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