黒い林檎ジャム

野兎

第1話  黒林の娘

 鉄の扉の向こうから、低い悲鳴が漏れていた。

 泣き声ですらない。ただ、喉を潰した獣が息を吐くような音。

またやってる。私はそう思い、立ち止まった。

中華街の裏通りにあるこのビルは、外から見れば老舗の食品会社だ。

 赤い提灯、甘い香辛料の匂い、観光客の笑顔。

 だが地下に降りれば、空気は一変する。


 消毒液と血の臭い。

 そして、甘ったるく煮詰められた果物のような――腐りかけの匂い。

 「…まだ、やってるの?やり始めてから1時間位は経ってる。」


 私の声は、思ったより震えていなかった。隣に立つ景明は、表情を変えずに頷く。

「口が固いようです。陳が楽しんでいる」

 

楽しんでいる、という言葉が、こんなにも自然に使われる場所。私ははそれを知っている。知らないふりをしていただけだ。

 扉を軋む音を響かせながら開けた。

 裸電球の下、椅子に縛られた男がいた。

 顔は腫れ上がり、どこまでが血でどこまでが皮膚なのかわからない。


 その前にしゃがみ込んでいる男が、振り返る。

「おや。今日はお嬢の見学ですか」


 烈は、子供にお菓子を差し出すような笑顔で言った。

 手袋は赤く濡れ、床には黒ずんだ液体が広がっている。

「見学じゃない」

私はは一歩、前に出た。

「……話がしたいだけ」

 陳の眉が、わずかに上がる。興味と、愉悦と、そしてほんの少しの警戒。

「ほう」


 男がうめき声を上げた。それは命乞いにもならない音だった。私は、その顔を見下ろす。

 恐怖で歪んだ目と、震える唇。


 ――昔、林檎ジャムを煮詰める鍋を覗いたことがある。 甘く、黒く、ぐつぐつと泡立っていた。

「名前を言って」

 男は答えない。

 答えられないのか、答えたくないのか。私は、ゆっくり息を吸った。


「言わないなら」


 視線だけで、陳に合図を送る。


「私がやる」


 その瞬間、地下室の空気が、確かに変わった。

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