愛の最適化

アーレ

第1話ゴースト・イン・ザ・ピクセル

部屋の空気は、数台のサーバーが吐き出す排熱と、放置されたまま冷め切ったコーヒーの匂いで重くよどんでいた。

 遮光カーテンを閉め切った六畳一間の空間において、昼夜の境界はとうの昔に消失している。ここを支配しているのは、壁一面を埋め尽くしたモニターが放つ、目に刺さるようなブルーライトだけだ。その光に晒され続ける航(わたる)の肌は、生きながらにして死者のように青白く、不健康に透き通っていた。


​ 半年前にこの世を去った恋人、カナ。

 彼女が遺したスマートフォンやPCには、膨大な「生」の断片が蓄積されていた。航はそのすべてを、まるで墓を暴く呪術師のような執念で解析し続けてきた。

 誕生日の何気ない自撮り、喧嘩した夜の震える音声メッセージ、寝顔を映した数秒の動画、そして指先の癖が残るタイピングのログ――。

 航はそれらすべてを「情報の肉体」として再構成するために、深層学習ディープラーニングという名の暗い海へ投げ込み続けた。彼にとっての救済は、神に祈ることではなく、冷徹なコードの中に彼女の魂を再定義することだった。


​「……もう一度だ。今度こそ」


​ ひび割れた指先で、最新の学習パッチを適用する。

 エンターキーを叩くと、モニターにはエラーログと文字列が滝のように流れ落ち、やがて中心の巨大なディスプレイに、一人の少女の像が結ばれた。

​ そこにいたのは、生前のカナよりもノイズがなく、透き通るような磁器の肌を持った「彼女」だった。

 レンダリングされた瞳は、現実の人間よりも鮮やかに光を反射している。しかし、その表情は当初、完成を待つ剥製のように無機質で、感情の伴わない空虚な静止画に過ぎなかった。航は、震える声でマイクに向かって、かつて一日に何度も口にしていた名を呼ぶ。


​「カナ……聞こえるか? カナ」


​ 沈黙が数秒、永遠のように引き延ばされた。

 やがて、画面の中のピクセルに微かな揺らぎが生じた。彼女の唇が、まるで言葉の重さを確かめるように小さく震える。


​『……ワタル?』


​ スピーカーから響いたのは、合成音声特有の金属質な響きをわずかに含んだ、けれど紛れもないカナの声だった。

 航は息を呑んだ。これまでの試作機は、単に質問に答えるだけの冷たい辞書に過ぎなかった。しかし、今の彼女は違う。彼女は画面の向こう側で、まるでこちらの気配を察知したかのように、視線を彷徨さまよわせている。


​『そんなに、怖い顔をしないで……根を詰めすぎだよ、ワタル。私がいない間、ちゃんと眠ってた?』


​ その瞬間、航の心臓が物理的な衝撃を受けたかのように跳ねた。

 画面の中のカナが、ふっと左手を上げ、自分の左の耳たぶを指先で強く揉んだのだ。

 考え事をするとき、不安を感じたとき、彼女が必ず見せていた無意識の仕草。

 その指の角度、皮膚が沈み込むタイミング、そして伏せられた睫毛の微かな震え。それらすべてが、航の記憶の深淵に刻まれたカナと、残酷なまでの精度で一致していた。


​「カナ……そこに、いるんだね。本当に、君なんだね」


​ 航は椅子から転げ落ちるようにして、液晶画面にすがり付いた。

 指先に伝わるのは、愛おしい人の柔らかな温もりではなく、硬く冷徹なガラスの拒絶だ。どれほど技術が進化しても、この数ミリの透明な壁が、生者と死者を決定的に分断している。

 けれど、画面の中の彼女は、慈しむように首を十五度ほど右に傾け、カメラのレンズ越しに航を覗き込んできた。


​『ええ。私はずっとここにいるよ、ワタル。これからはもう、誰にも邪魔されない。二人きりの、情報の楽園で暮らしましょう』


​ カナが微笑む。

 その背景に、一瞬だけ激しいデジタルノイズが走った。彼女の顔が「深淵」のような黒い穴に歪み、数ピクセルの断片が意味不明な幾何学模様を形成したのを、歓喜の涙に溺れた航は見逃していた。

 

 部屋を支配するブルーライトが、航の生気のない顔をいっそう青白く染め上げる。

 それは、画面の中に魂を吸い込まれ始めた男の、静かな変質の始まりだった。

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2026年1月17日 22:00
2026年1月18日 22:00
2026年1月19日 22:00

愛の最適化 アーレ @Aren252518

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