涙医師―逢坂透の診療カルテ―

依近

Case1.泣けない姉と泣きすぎ妹①



 夕方。空を過ぎる雲が雨を落とした。


 濃く色を変えた地面もすぐに乾いてしまうくらい、ほんの少しの雨――涙雨だ。


「……空は、器用に泣けんのにな」


 呟くのと同時に、ビニール傘を伝う雫が広げた掌にポツンと落ちた。透明な雫は掌の内で崩れて、握り込むと完全に形を失くす。


 逢坂おうさかとおるは流れていく灰色の雲を眺めながら、雫が残る傘を傾けて閉じた。


 マスクの内側でひとつ息を吐き、長い前髪の隙間から建物の2階を見上げる。


「……ぅげ」


 突き当りのガラス窓に人影を見つけて、逢坂はあからさまに顔を顰める。

 慌てて腕時計を確認して、さらに渋い顔。


 マスクの中央を摘まんで引っ張り、顎下まで引き下げる。雨上がりの濃い青の匂いが鼻腔をくすぐった。春の匂いだ。


 階段を昇っていく逢坂の背中で、白衣の柔らかな生地が揺れる。黒いタートルネックに濃いグレーのチノパン。色を排した服装に、水色の身分証だけが色を差していた。


 彼は「泣けない」患者を扱う診療科、【涙腺るいせん】のドクターである。


 階段を上がり切った先、一直線に伸びる廊下の突き当たり。

 彼のクリニックのドア前には、患者らしき女性が立っていた。


 彼女は逢坂が近づくと振り返って笑顔を見せる。


「せんせ! 待ってたよ」


 服装はシンプルな黒いワンピース。タイトなそれはピタリと体に添い、官能的なボディラインを強調している。

 耳の下あたりで緩く結った巻き髪を指に絡めた彼女は、ハイヒールの踵をカツンと鳴らして逢坂の腕に抱き着いた。濃いフリージアの香水が鼻をつき、逢坂は嫌悪を浮かべた顔を背ける。


「予約時間まであと20分あるんだが?」


「そう? でもわたし、30分後には出勤なのよね」


「……とりあえず、どうぞ」


 棒読みで言う逢坂が鍵を開けた扉の内に、「はあい」と陽気な返事をして足を踏み入れる彼女。


 本日1番目の患者は――叶野かのう美羽子みわこ。32歳。職業、ホステス。症状名、偽涙症。


 逢坂は近所のコンビニで買ったサンドイッチを口に放り込んで咀嚼しながら、彼女の電子カルテを目で攫った。

 3か月前から通院している美羽子の訴えは毎回ほぼ同じ。逢坂はサンドイッチを飲み込んで、画面を閉じて彼女を呼ぶ。


「叶野さん、どうぞ」


 はあい、とまた同じ調子の返事が待合室から響いた。

 白いドアがスライドして、美羽子が入ってくる。


「早く来ちゃったのにちゃあんと診てくれるの。優しいよねえ、せんせ」


「そういうのいいから。はい、症状言って」


「本物の涙を流したいの」


 明るい調子の声から、一変。静かな口調で言った美羽子は、軽く俯いてタイトスカートの裾に添えた手をキュッと握りしめた。


 指先から肩に掛けて小さな震えが走り、艶のある赤いルージュが塗られた唇が微かに揺れる。

 ハッ、と短く息を吐く音。次いで、わずかに喉が震えて嗚咽に似た音が漏れた。


 逢坂はデスクに置いた試験管立てからガラス製の採取瓶を手に取る。


 キャスターを滑らせ美羽子の傍へ寄る。瞳をジィと覗きこみながら瓶を彼女の頬につけ、眦に溜まっていく雫がこぼれた瞬間――捕まえる。


 逢坂は元の位置へと椅子を戻し、採取瓶に検査薬を垂らして左右に振った。


 薬品に溶けていく美羽子の涙は、粘度の高い液体の中を緩やかに揺蕩い――紫色の帯になる。


「嘘――だな」


「えー? もう、またあ?」


 美羽子は脱力したように両足を投げ出して、天を仰いだ。

 逢坂は美羽子の無防備すぎる姿を努めて視界に入れないようにしながら、電子カルテに詳細を打ち込んでいった。


「偽涙の数値はまだ極めて高い。まあ意識して流してるんだからそれは当たり前っちゃ当たり前だが……それでも、はっきり偽涙と言い切れるもんが出るってのはやっぱり問題だな」


「ねー、そうよねえ。やっぱ手術とか考えなきゃダメかなあ」


 そこまで必要か? ――と。喉元まで出かけた言葉を呑み込む。

 必要だから、彼女はこうして3か月の間通い続けているのだ。


 逢坂はチラリと視線を上げて彼女を見る。眦を濡らした涙の跡はもう、肌にも表情にも欠片も残っていない。


「でも……叶野さんの仕事なら、それを生かせることもあるんじゃねーの?」


 逢坂は美羽子の表情を窺いながら問う。美羽子は目を丸く開いて首を傾げた後、ああ、と軽く相槌を打って眉尻を下げた。


「若い頃はねえ。涙って意味でも、すぐ泣ける芸って意味でも重宝してたけど、アラサー女が泣いたってウザいだけでしょ?」


「自虐か」


「もう、もうちょっと優しくしてってば! って言っても、自虐もウザいよね……難しいねえ」


 逢坂はキーボードを打つ手を止めて、唇を結ぶ。そして再び指を動かし、カルテに記述を書き足した。


――気を遣いすぎ。


「簡単に泣ける分、わたしの涙は軽くなっちゃった。周りもみんな知ってることだから今更どうしようもないけど、それでもね。本物の涙も流せるって、知っていたいの」


「……本物の涙を流せるようになったら、診断書持ってお前の店行って言いふらしてやんよ」


「本当? せんせ、やっぱ優しいね」


 フフッと笑った美羽子は、腕時計を覗き込み「もう行かなくちゃ」と言う。ハイブランドの時計、同じくブランド物のバッグ。彼女の身につけているものは訪れるたびに変わるが、フリージアの香りだけは変わらない。


 美羽子が振り返ると、首元の細いネックレスがキラリと光る。透明な石がひとつだけ付いた、リボンの形のチャームが揺れた。


「わたしね、せんせのことめちゃくちゃ信頼してるよ」


「……なんで」


 三日月型に吊り上がる赤い唇。ヒールがカツンッと機嫌よく鳴いて、影が寄る。

 逢坂は思わず背中を仰け反り、デスクに肘をついた。美羽子は逢坂の顔面に鼻先を寄せ、艶やかな笑みを浮かべる。そして――


「んがっ……」


 赤いネイルを塗った指で逢坂の頬を摘まんだ。


「せんせ、笑顔へたくそだから」


 ぐりぐりと頬を弄る手に口を塞がれ、反論も叶わぬままに美羽子は診察室を出て行った。


 ちょうど出勤してきた事務の女性が、美羽子を見てギョッとする。

 次の瞬間、逢坂に向く鋭い視線――「また勝手に時間外の患者を受けて」と目が言っていた。


 逢坂はハンズアップの姿勢をとり、事務の女性から目を逸らす。


 事務の女性は表向きの顔を貼り付けて、美羽子にやんわりと注意をしながら会計に対応していた。


 逢坂は小言を言われる前にと診察室に引っ込みかける――が、新たに若い女性の2人組が入ってきた。


 次の患者の予約はまた30分後のはずなのに。逢坂は表情に焦燥が滲まないよう努めて、やってきた初診の患者に視線を据える――その、異様な姿に。

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