修理屋と世界の壊れた心臓
かもめ7440
第1話
街は、細部の集積であり継ぎ接ぎから成り立っている。曲がり角を曲がるたびに
研ぎ澄まされた感覚を持つ者には、それが鮮明に感じ取れた。
アスファルトの割れ目から、別の時代の石畳が顔を出し、その隙間に、現世の植物図鑑には存在しない、銀色の燐光を放つ雑草が、都市の排熱を餌に
ヴァン・クロフォードは、その継ぎ接ぎの街の入り口に立っていた。身長約一八〇センチ、長年の軍務と放浪で削ぎ落とされた細身の肢体は、しなやかな鋼のワイヤーを束ねたような強靭さを秘める。体脂肪率十一パーセント。腱と筋繊維が、効率的に、無駄なく配置された機能美。
ボーイッシュな印象を与える砂塵に焼かれた砂色のショートヘアは、数ヶ月手入れを怠った毛先が、
それは無頓着さではなく、気にする余裕がない者の髪だ。瞳の色は、灰色がかった青。しかし、光の加減によっては緑にも見える。虹彩には、放射状の細かい亀裂のような模様があるが
眉間や額には、不発弾の破片や白兵戦の爪痕が細い地図のように刻まれ、右こめかみの弾痕跡は、かつて死神が彼女を指名した際の指紋のようにへこんでいる。
7.62mm弾が頭蓋骨を掠め、骨を削り、あと三ミリ内側なら、脳幹を破壊していた。弾丸は側頭骨を抉り、後頭部から抜けた。衝撃で、ヴァンは三十二時間意識を失った。目覚めた時、視界の左半分が赤く染まっていた。網膜下出血だった。医師は奇跡と言ったが、ヴァンは悪運と呼ぶ。服装は実用的な旅装、上質だが擦り切れた革のジャケット―――元は軍用の航空革ジャケットなのだが、表面の革はひび割れ、オイルと硝煙の匂いが染み付いている。革の種類は馬革。特殊な
ジャケットの内側には、五つの異なる銃のホルスターの痕が革に刻まれている。
肩と肘には、対魔導弾の衝撃を分散させるための特殊セラミックプレートが縫い込まれ、内ポケットには修理すべき機械のパーツリストが収められている。
肘と肩に補強が入ったカーキ色の作業服シャツ、多くのポケットがついた戦術パンツ。カーゴパンツの改造品で、ポケットは全部で十二個。
太腿の両側に大きなポケット、膝の上に小さなジッパー付きポケット、後ろにも二つ、ベルトループの内側にも隠しポケットがある。それぞれのポケットには、用途が決まっている。右太腿は予備の弾倉。左太腿は医療キット。膝のポケットには針金とテープ。後ろのポケットには地図と現金。
隠しポケットには、最後の手段としての毒薬カプセル。
腰のベルトには工具入れと、一つの特別なポーチ。中には分解収納された自動拳銃のシグナーP226カスタムが収められている。
それは、通常の火薬式ではない。スライドには魔力圧解放バルブが増設され、バレルにはエーテル集束用の彫り込みが施されている。
靴は、防水加工されたコンバットブーツ。底には交換可能なスパイクが埋め込まれ、あらゆる地形に対応できる。スパイクは、舗装路用、泥地用、氷上用の三種類。左足首の上あたりに、小さなナイフシースが縫い付けられている。
ヴァンが
さっきまで薄桃色だった空が、次の一歩で橙色に変わる。路地裏の湿った匂いと、夕方の屋台から漂う油と香辛料の匂いが、時間の境界線で無理矢理混ぜ合わされて、口内調味のように鼻の奥で喧嘩する。
不思議とかたつむりの渦の中にいるような気がして、帰巣本能が狂い、どちらが入口で、どちらが出口なのか、方向感覚が、蛮族の抱く諸生命の顕現のようにゆっくりと溶解していく。
石畳が煉瓦道に変わり、煉瓦道が木の板に変わる。一瞬は階級性のようなものだろうかと勘繰るが、住んでいる人々の服装や、顔にそれほどの変化はない。とはいえ、人々の服装は、この街の継ぎ接ぎさを反映している。
古い王政時代の刺繍入りの上着を着た老人の隣で、産業革命期の工員服をまとった中年が魚を売り、現代的な合成繊維のジャケットを着た若者がスマートフォンならぬ魔力通信端末を操作している。
魚売りの中年は、声を張り上げている。
「新鮮なマグロだよ! 今朝獲れたばかり!」
しかし、この街に今朝などという概念が存在するのだろうか。
どの朝だ? 誰の朝だ? 魚は本当に新鮮なのか、それとも別の時間軸から運ばれてきたのだろうか。時間的には腐っているが、この瞬間においては新鮮とされる魚なのか。マグロの目は、まだ濁っていない。鰓は鮮やかな赤。しかし、鱗の一部が、微かに発光し、おそらく魔力汚染された海域で育った魚だ。食用としても毒ではないので害はないが、長期的な影響は不明だ。
市場の人々は眉宇の間にさりげなく気を留めつつも、時間の混乱を当然のこととして受け入れているのか、一様に驚かない。誰も疑問を持たない。あるいは、疑問を持つことを諦めたのかも知れない。
賢明だとは思うが、他の街に行こうと思ったことはないのだろうか?
百の異なる時代の都市計画が、同時多発的に実行され、互いに干渉し合った結果のような時間の継ぎ目で、ファッションさえもが混ざり合っている。何処にいっても少なからず階級制はあるものだが、スラム街のような病んでいる雰囲気は感じない。
―――
足裏に伝わる感触が、一歩ごとに変調する。冷たい石の硬さ、焼きの甘い煉瓦のざらつき、古びた木板の軋み。ヴァンのブーツの底が、そのたびに僅かに沈み方を変え、歩くという行為が、
八百屋の看板が、歩いている内にパン屋の看板に書き換わっていく。
最初は『新鮮なトマト』と書かれていた黒板が、視線を外して数歩進んだ瞬間、『焼きたてバゲット』に変わる。誰かが書き換えたのではない。文字そのものが、世界の都合で書き換えられたのだ。ここは
空は―――六つに割れている。
北は朝。
薄い青に、白い雲が細く伸びている。
鳥の群れが、まだ眠そうに輪を描いて飛んでいる。
その鳥たちの種類さえ統一されておらず、
渡り鳥と
南は昼。
真上から射すような白い光。
雲はほとんどなく、遠くの屋根瓦がぎらぎらと光っている。
しかし、その光の下では植物の影が逆向きに伸びていた。
光の角度が、通常の物理法則に従っていない。
東は夕。
赤と紫が混ざり合い、雲の縁が金色に燃えている。
市場の喧騒が、その色にぴったりと貼り付いている。
その夕焼けの中を、朝の通勤服を着た人々が歩いている。
西は夜。
群青の闇に、星がいくつも瞬いている。
遠くで、酒場の窓から漏れる黄色い光が、
夜の領域にだけ滲んでいる。
しかし、その星図もおかしい
上は満月。
巨大な月が、空の中央に貼り付けられたように、
どの方向から見ても同じ位置にある。
月の表面には、見慣れない模様、
まるで歯車のような影が刻まれている。
下は新月。
足元の影の中に、もう一つの空がある。
そこには、月がない。
ただ、黒い水面のような闇が、街の輪郭を逆様に映している。
しかし、その反射された街は、現実の街とは少し違う。
崩れた建物、消えた通り、存在しない塔が映っている。
ただ、黒い水面のような闇が、街の輪郭を逆様に映している。
―――つまり、鮫の群れが大空を暴れ回るように、この街には正しい時間というものが存在しない。あるいは時間というものは迷路のようなものだ。忘れられた昨日が夜ごと排水溝から湧き出し、人々は靴底に貼りついたそれを、ガムみたいに引き剥がしながら朝をやり過ごしている。
誰かにとっての朝は、別の誰かにとっての夜であり、誰かの昨日は、別の誰かの明日と重なっている。時計屋は破産し、暦職人は発狂し、教会の鐘は、いつ鳴らせばいいのか分からなくなって沈黙する。秒針の代わりに抜け落ちた乳歯が並び、どれも同じ時間で止まっている、ほらどうだい、泣きそうだろ?
正気という単語が検閲対象になっていて、代わりに天気予報で言い換えられる。
ロジオンのエンジン音が、歪んだ空気を震わせる。歩く傍らで
ロジオンは、一九五八年型シボレー・ベルエアの外観を持つ、魔導自動車だ。
車体は深いブルーで、ところどころ錆と補修の跡がある。ヘッドライトはまるで目のように見え、グリルが口のように開いている。
ダッシュボードには、通常の計器類に加え、魔力圧力計、エーテル流量計、次元歪み検知器などの異常な計器がごてごてと並ぶ。
後部座席には、毛布と工具類、非常食、そして数冊の修理マニュアルが積まれている。古い地図がダッシュボードに突っ込まれ、助手席の足元には使いかけの潤滑油が落ちている。古い内燃機関に、魔力補助のコイルを
錆びた排気管から這い出る青白い煙は、まるで
「この街、地図が毎日変わるらしいぜ」
ロジオンの声だ。車が喋っているが、
ダッシュボードのスピーカーから掠れて聞こえ、喋るごとに、室内灯やヘッドライトをチカチカさせ身体を洗うように、
もう慣れた。
声は古いラジオから流れる遠い国の音楽のように、ノイズ混じりだ。声の奥には、かつては人間だった頃の癖が、貴重な装飾のように、微かに残っている。語尾の上がり方、間の取り方、舌の先で練って、どうでもいい冗談を挟もうとして止める癖。それらが、機械のフィルターを通って、金属的な響きに変換されている。
ロジオン・ヴェスパシアン。
元は第三次大戦期の
しかし、助手席の下には、人間時代の写真が一枚、隠されている。写真には、工場の前で笑う男性と、小さな女の子がはっきりと写っている。
ヴァンは答えない。
ただ煙草を
右胸の傷跡が、陰気なくすぶりの中で小さな焔のように疼く。古傷は天気予報より正確だ。雨の前、嵐の前、戦いの前には必ずといっていいほど疼いた。この街に入ってから、その疼きは、ずっと止まらない。
この街は、戦場の延長線上にあるようだと自分は思う。常に警戒し、常に疑い、常に変化に備える。休息などない。敵は目に見えない。だが、確実に存在している。
ピコが肩の上で、ピピッと小さく鳴いた。蛍が瞬くような、頼りない光。蛍ではないが、ぱたぱたと先程まで飛んでいた。とはいえ、ぱたぱたという音はしない、翼もない、空気中の魔力を吸収して浮遊する、
正式名称はPICO-03。旧型偵察ドローンだ。
PICO-01とPICO-02は、戦闘用だった。武装があり、自爆機能があった。PICO-03は、純粋な偵察用に設計された。武装はなく、戦闘能力もない。代わりに、センサーと演算能力が強化されている。
そのレンズの奥で、魔力と演算装置が、絶えず情報を咀嚼している。演算装置は、魔術的な人工知能、ニューラルネットワークに似た構造だが、遺伝子組み換えさながらの魔術回路で構成されている。
外観は、小さな金属の球体に、一つの大きなカメラレンズと、周囲を取り囲む六つの補助センサーがついた形状。ピコの色は銀色で、ところどころに微かな魔力の光が走る。その光は、
周囲の環境に、異常を検知しているのだ。
「感情パターン。不安定。コノ街ノ住人、精神的ストレス値ガ平均ヨリ三十二パーセント高イ。ミンナ怯エテル」
ピコの声は、子供のように甲高いが、内容は冷酷に分析的だ。
数字と感情を、同じトーンで読み上げる。
ピコの人格は、元々は純粋なAIだったが、長年ヴァンと行動を共にする内に、ある種の擬似人格を発達させるようになった。データベースには、過去の戦闘記録、修理マニュアル、各地の法律、神話、料理レシピまでが詰まっている。しかし感情理解についてはまだ学習中で、人の微妙なニュアンスを誤解することが多い。
「そりゃそうだろうな」
ヴァンは煙草を指で回す。
指先の皮膚は、古い火傷と銃の
「毎日、自分の家が何処にあるか分からなくなるんだから」
街路樹の影が、まるで逃げ出そうとしているように地面を這っている。影は、光源の位置に従って伸びるのではなく、街の屈折によって生み出され、狂信的な核心のように不安の方向へと伸びてゆく。人々の足元から伸びる影も、持ち主から離れたがっているように、じわじわと路地の奥へと滲んでいく。この街では祈りは上に届かない、代わりに地下で熟成され、ある日突然、利息付きで返ってくる。
そして、影の中から、時折
だが、共通しているのは、その黒さだ。影よりも黒い黒。光を吸い込む黒。見つめていると、視界が歪むような錯覚を覚える。
雨は上から降らない、思い出が飽和した地点から、静かに滲み出す。
害はないが、不気味だ。ヴァンは影喰いが近づいてくるのを感じ、無意識に腰のポーチに手をやる。中身は空だが、習慣は消えない。気が滅入る。
*
広場の端で、青年が地図を広げていた。
いや、地図は彼を包んでいるのではない、まず、それは誤解というものだ、感覚の麻痺した奇術師、それは彼の未来を、先に畳んでしまっている。
いや、広げていたではない。地図に埋もれていたと言うべきか。あるいは、地図に侵食されていたとか地図と一体化しつつあったという方が的確だろうか。青年と地図の境界が、曖昧になっている。その広場は、かつては市場だったらしい。石畳の配置が、市場特有のパターンを残している。中央から放射状に伸びる通路。荷車が通れる幅。商人たちが品物を並べた痕跡、そして石の表面に残る、無数の引き摺り傷。
中央には、今は水の枯れた噴水があり、三層の水盤が、天に向かって階段状に重なっている。最上部には、水を吐く獅子の彫刻。しかし、獅子の口からは、もう何年も水が出ていない。口の中には、蜘蛛の巣が張られ、小鳥が巣を作っている。
修理しようにも、修理しようがない、それが継ぎ接ぎの街の掟だ。
その縁には、古い商人ギルドの紋章が刻まれている。
しかし、その紋章の上にも、紙が貼られている。周囲半径三メートルが、紙の墓場だった。修正跡だらけの地図。自分だけではなく、多くの人によって、共有されているという瞬間を求める無数の軌跡と消失点の痕跡。
紙の層は、少なくとも十層以上あり、最下層は、三年前の地図。紙は黄ばみ、インクは褪色している。その上に、二年前の地図。
その上に、一年前。そして、昨日の。今朝の。今現在の―――その、
消した線、書き直した文字、貼り付けた紙片、インクの染み。それが、思い出や約束事のようにも見える。
消した線の下には、別の線があり、その下にも、また別の線。地図は、上書きに次ぐ上書きをするが、完全には消えていない。下の層が、透けて見える。書き直した文字は、筆跡が異なり、同じ人物が書いたとは思えないほど、筆圧が違う。文字の大きさが違う。最初の頃の文字は、整っている。几帳面で、読みやすい。しかし、時間が経つにつれ、文字は酔っ払っているように、乱れ、震え、大きくなったり、小さくなったりする。インクも掠れたり、濃すぎたり。貼り付けた紙片は、サイズも材質も様々。大きなものは、元々地図だった紙。小さなものは、メモ帳の切れ端。中には、レシートの裏に書かれたものや、カフェのナプキンに書かれたものもある。
水平線の向こうにゆく船に古い有刺鉄線で構図を与えるようなものだ。
紙の種類だけで、二十種類以上。それが継ぎ接ぎの街で地図を作ることだといえば肯くほかないが、紙の端は、何度も折り畳まれ、開かれ、涙と汗でふやけ、もはや地図というよりは狂気の化石だ。ひたむきなのは認めるが、ほんのちょっとの弾みで壊れてしまいそうに見える。それでも青年の三年分の執念が、紙の上に堆積し、
だが地質と違って、ここでは下の層ほど新しい。過去は化石になり、失敗だけが生きて蠢いている通俗劇場の舞台の奥。
カンブリア紀の三葉虫の化石、白亜紀の恐竜の骨、第四紀の人類の遺跡。
青年は
頬が
眼球は、充血している。白目の部分に、細かい血管が浮き出ており、瞳孔は、わずかに拡張している。これは、慢性的な睡眠不足と、過度のストレスの兆候。瞳の色は、茶色。しかし、光の加減で、金色にも見える。これは、長時間地図を見続けた結果、網膜に特殊な色素が沈着したためかも知れない。あるいは、魔力の影響。
目の下の隈は、まるで誰かに殴られたようだ。いや、殴ったのはこの街そのものだ。毎日変わる道、毎晩書き換えられる記憶。彼の眼球は、もう風景を見ていない。到達できなかった地点だけを反射している。
それに殴られ続けた結果が、その険しい
彼の服装も、この街の継ぎ接ぎさを体現している。
上着は、古い学者のローブの上半分と、作業服のジャケットの下半分が縫い合わされている。ローブの部分は、かつて父親が所属していた技師ギルドのローブであり、父の遺品だ。しかし、ローブは上半分、胸から上だけ。腰から下は、ナイフのようなもので切り取られている。ジャケットの部分は、灰色の作業服。ポケットには、ペン、定規、コンパス、メモ帳、インク壺、消しゴム、鉛筆などが詰め込まれ、子供を入れたカンガルーのようにポケットが膨らんでいる。重そうだ。
ズボンは片足がウール、もう片足がデニム。破れた部分を、手元にあった布で補修した結果だ。見た目など気にしていない、機能すればいい、歩ければいい。そうしてどんどん支離滅裂なほど無茶苦茶になる。右手には、インクだらけの革手袋。左手には、紙の切り傷から守るための指サック。この街ではとりたてて奇抜に見えないが、普通の街ならば劇衣装か、近未来的な芸術の産物のように見えただろう。
彼の手が震えている。ペンを握る指から、血が滲んでいる。
ペン
ペンは、特別なものだ。先端には小さな魔力結晶が埋め込まれており、描かれた線が、一時的だが現実に干渉する。線を引くと、その道がしばらく固定される。しかし、魔力が切れると、道は元の不安定さに戻る。そのペンも、もう限界に近い。結晶に
強力な魔力を扱う道具は、必ず代償を要求する。
「また違う。また変わってる。昨日描いたばかりなのに、北の路地が消えてる。いや、消えたんじゃない、東に移動してる。でも東には昨日まで噴水があって―――」
孤独な苦悶に満ちた重々しい独り言。あるいは、地図への祈りか。彼の声は、紙の上に落ちる呪文のように、かすかに震えている。手は、絶え間なく動いている。ペンを持ち、線を引き、消し、また引く。紙を捲り、比較し、確認する。指で距離を測り、頭の中で計算する。動きに無駄がない。しかし、効率的というわけでもない。同じ動作を、何度も、脅迫的に、儀式的に繰り返している。
ヴァンが近づく足音に、青年は気付かない。完全に地図の世界に没入している。外界との接続が、切れている。聴覚が、機能していない。あるいは、脳が外部の音をフィルタリングしている。地図に関係のない情報を、すべて
その様子を見て、ヴァンはかつての自分を思い出す。戦場で、地図を広げ、敵の位置を記入していた頃の―――あの時も、地図に書かれた記号が、実際の人間の生死を意味していた。赤い三角形は、敵の歩兵小隊。青い四角形は、味方の装甲車両。黄色い丸は、地雷原。緑の線は、安全な移動経路。
「地図屋か」
ヴァンが声をかけると、青年は飛び上がった。まるで、後ろから銃を突きつけられたように肩が跳ね、ペンが指から滑り落ち、ペンは、回転しながら落下する。一回転、二回転。猫目石の
インクが紙の上に黒い湖を作る。インク壺が、ペンの衝撃で倒れた。中の粘性の高い漆黒の液体が、ゆっくりと溢れ出る。インクの湖は、地図の中心部に広がる。黒は色ではない。これ以上、考えなくていいという合図だ。昨日描いたばかりの路地を、虚無のように呑み込んで、線が、消える。文字が、滲む。三時間かけて描いた部分が、一瞬で台無しになる。
「触らないで! 完璧な地図を―――完璧な地図を作らなきゃ・・・・・・」
その声は、金切り声に近い。
青年―――レオは、地図を抱きしめる。恋人を守るように、あるいは、溺れる者が浮き木にしがみつくように。
紙の端が、彼の胸元でくしゃりと息でもするように音を立てる。全世界をめぐる生命の脈拍を聞くように、さざ波のような
レオ・カルトグラファー。彼はそう名乗った。
カルトグラファーは、本名なのだろうか、それともそれを生業にしている由緒正しい名前なのだろうか。鍛冶屋の息子がスミス、粉屋の息子がミラー、織物屋の息子がウィーバーを名乗るみたいなものだ。
しかし通常はそれは職業を言い表し、地図製作者ということになる。
年齢は二十五歳。しかし、外見は疲労や、栄養失調、ストレスの三重奏が肉体を
母親は物心つく前に亡くなり、父に男手一人で育てられた。父の死後、地図制作に没頭し、既に三年が経過している。彼のアトリエ兼住居は広場の近くにあるが、今日も家に帰る道を見失っている。アトリエは、古い石造りの建物の三階で、窓からは広場が見えるはずなのだが、今日も今日とて、窓から見える景色が違う。
広場ではなく、墓地が見える。
建物は移動していない。景色が変わった。あるいは、建物が別の時間軸に移動した。レオは、もう三日間、家に帰っていない。帰り方が分からないのだ。アトリエにあるのは、彼がその三日前に残していったままの空白と焦燥の痕跡だけだ。
冷めたコーヒー。乾いたパン。描きかけの地図。
そして、父親の遺した設計図。記憶歯車の、未完成の設計図。
「完璧な地図なんて、ない」
ヴァンは煙草の先端を見つめる。まだ火は点いていない。
「地図ってのは嘘だ。世界を紙に押し込めた、綺麗な嘘だ」
地図は、選択だ。何を描き、何を描かないか。どの道を太く、どの道を細く。どの建物を記載し、どの建物を省略するか。すべて、恣意的。
地図は、嘘だ。美しい嘘。便利な嘘。
しかし物の言い方というのは、ある。
「っつ・・・・・・」
レオは怒りと困惑の混じった目でヴァンを見た。
まるで、信仰を否定された聖職者のように。
その瞳の奥には、崩落しかけた信仰と、それでもなお信じたいという執着が、ぐちゃぐちゃに絡み合って、背を丸めて怒る毛を逆立てた猫さながらに怒りの形相を崩さない。瞳孔が、収縮する。怒りの生理反応。交感神経が、活性化している。
「旅人か? アンタに何が分かるんだ。俺はこの街の人々を助けたい。道に迷わないように・・・・・・・」
「道に迷わない?」
ヴァンは地図を見る。
インクの川。
紙の森。
狂気の海図。
そこには、何百回も書き直された街の輪郭が、幾重にも重なっている。過去の街、昨日の街、今朝の街、そして、もう存在しない街。
レオが予測した街か? それとも、並行世界の街か?
線は、点線で描かれ不確実性を示している。歳月を経た感情のようにさらさらとほどけて消えてしまいそうな、危うさがそこにはある。
「地図屋に言うのは酷だが、この街で道に迷わない方法は一つしかない。地図を捨てることだ。ここにおいて地図はもっとも縁遠い神話だ。現状でもっとも論理的な思考は、不完全であるということを認めることだ。甘えを拠り所にしている限り、悲惨さは
レオの瞳が揺れる。湖面に石を投げ込んだ時のように。その揺れは、怒りか、恐怖か、希望か―――本人にも分からない。
視線が、ヴァンの瞳の奥を、覗き込もうとしている。
この旅人は、何を知っているのか? 何を見てきたのか?
「それは―――それは、諦めるってことか?」
「いや」
ヴァンは初めて、レオの目を見る。その視線は、かつて何百人もの命を見送ってきた目だ。灰色の虹彩には、銀の微粒子が散らばっているように見える。これは、長期間高濃度の魔力環境に曝された者の特徴だ。ヴァンが軍人時代、魔導兵器のテストに参加していた名残である。
「覚悟するってことだ」
覚悟。それは、道を知ることではなく、道が変わることを受け入れること。地図に頼らず、自分の足で歩くこと。迷うことそのものを、前提として抱きしめること。ヴァンの言葉は、シンプルだ。しかし、同時にこの上なく重い。
覚悟という言葉には、すべての意味が込められている。
覚悟とは、諦めではない。受容だ。現実を、あるがままに受け入れること。変えられないものを、変えようとしないこと。
十秒、二十秒、三十秒、砂時計からこぼれた砂のような沈黙が、続く。
その間、レオの顔には、様々な感情が浮かんでは消える。怒り。悲しみ。諦め。そして、かすかな安堵。安堵? 何故?
おそらく、レオは心の何処かで、気付いていたのだ。地図は完成しない、と。完璧な地図など、存在しない、と。しかし、認めたくなかった。認めれば、すべてが無駄になる。ヴァンの言葉は、レオに許可を与えた。諦める許可。いや、違う。前に進む許可。地図を捨てて、自分の足で歩く許可。
レオはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと地図を広げ直す。その動きには、以前のような必死さはなく、ある種の諦めに近い、静かな決意が感じられた。
「・・・・・・アンタ、変な奴だな」
「よく言われる」
ヴァンはようやく煙草に火を点ける。
この街の歪んだ空気の中でも、このライターだけは確実に炎を灯す。
*
ヴァンはレオから少し離れて、ここらへんでいいかと広場でロジオンから、スパナ、ドライバー、ペンチ、ハンマー、溶接トーチなどを取り出す。
分かり易い小道具だが、それは一種の
ヴァンは、よいしょとトランクに入れている看板を取り出す。看板は、木製。幅一メートル、高さ五十センチ。重量は、五キロ。表面は、白いペンキで塗られ、年季が入ってきたせいか少し剥がれかけている。
看板にはこう書かれている。
『何でも修理します―――機械から記憶まで
ヴァン・クロフォード 旅行修理工』
下には小さく、
『軍用魔導兵器専門、時空歪み補正、記憶の継ぎ接ぎも承ります』
何を当たり前のことを、何を今更とヴァンだって思うに違いないわけだが、何しろ、旅をするには金がいる。虹だって雨が降らなければ生まれない。これは、真実だ。旅をするには、食費、宿泊費、移動費、修理費、世知辛いほどに、金がかかる。金はどうやって稼ぐ?
働くしかない。ヴァンには、特別な才能を持った魔法使いとか、商人でもない。ただの、修理工。いや、ただのではない、優秀な修理工。しかし、それでも、選り好みはできない。客が来れば、何でも直す。そこに細い鍵穴が現れたのなら何とかして鍵を作り出して差し込む、それが、自分の思うところの商売だ。
プライドより、金。生きるために、金。
最初の客は、七十以上とおぼしき、背中を丸めて、腰が曲がっている老婆だった。杖をついて歩き、黒い喪服を着ている。夫を亡くしてから、ずっとそれが彼女の格好らしいが、皮肉なことにそれが継ぎ接ぎの街で初めて見た、まともな服装だった。
鍋を直せるのアンタ、突っかかるように言うが、得意分野だ、任せろ、お金欲しい。こんな時のために、鉄の鍋の穴を塞ぐ秘密兵器を持っている。
『瞬間金属接着剤Mk-III』
おっと、通常ではお取り扱い不可、はい、テレフォンショッピング。元は戦場で装甲車の穴を塞ぐために開発されたもの、お値打ち品ですよ、装甲車が被弾すると、装甲に穴が開きます。その穴から、敵の銃弾が入ってきて、中の兵士が死にます。
そこで、この接着剤。どうですどうです、穴に塗ると、数秒で硬化します。すごい、この驚くべき接着剤は金属と同等の強度、墨汁のようにこみあげてくる悔恨といらだたしさも瞬間消臭、いけね、それはコマーシャルだった。すると、装甲車が、再び走れるようになります。小さな鍋の穴など、一瞬で塞げます。
はい、これがいまならニキュッパッ、ってそんな値段で買えるか。
実際の価格は、一本あたり金貨二枚。戦場では、命に関わる道具だから、高価でも売れる。民間用には、もっと安い代替品があるが、性能は劣る。
しかし老婆の鍋には、ただの穴以上のものがあった。鍋の底には、微かな魔力の残留が検知された。ピコがスキャンする。
「コノ鍋、記憶ヲ保持シテイル。料理ノ記憶。百二十七種類ノレシピ。最後ニ作ッタノハ、野菜スープ。二年四ヶ月前」
老婆は驚き、同じ厚みの一日が剥離する。
「あの日・・・・・・あの日、夫が最後に飲んだスープを・・・・・・」
ヴァンは鍋を直し、さらに小さな結晶を鍋の取っ手に埋め込んだ。親指の爪ほどの、透明なものだが、内部に、複雑な魔術回路が刻まれている。記憶固定結晶と呼ばれる、この結晶は、物体に残留した記憶を固定する機能を持つ。通常、記憶は時間とともに薄れるわけだが、この結晶があれば、記憶は永久に保存される。
ヴァンは、結晶を鍋の取っ手に、小さな穴を開けて埋め込み、接着剤で固定する。結晶が、わずかに青白く発光する。
「ありがとう。いくら?」
「穴の修理は、銀貨三枚。結晶は、サービスだ」
ヴァンは、結晶の代金を取らない。壊れたものだけでなく、そこに込められた思い出も、ちゃんと守るのが、ヴァンの流儀だ。銀貨三枚。これは、鍋の修理としては、適正価格だ。しかし、結晶の価値は、金貨一枚以上。こういう言い方をすると損をしているようにも思えるが、昔の知り合いから無償で譲ってもらったものだ。
次の客は、がっしりとしているが腹が出た、四十代の、酒場の主人だ。毎日、自分の店の酒を味見している結果だろう。
白いエプロンは継ぎ接ぎの街ならではのクオリティで、油や、ワイン、ソースの染みなどで汚れている。顔はいつも酒を飲んでいるためか赤い。鼻はスキーのジャンブ台のように大きく、目は、胡麻粒のように小さいが、人懐っこい笑顔で客商売の何たるかを垣間見る。ヴァンは不愛想で、揉み手も、慇懃な態度も出来ない。
洗濯機を直せるか、困ってるんだけどさみたいな感じで言う。守備範囲だ、任せろ、お金欲しい。こんな時のために、家電製品を分解するスキルを持っている。精密機械の分解から、戦車の分解まで応相談ドットコム、おっといけね、これはインターネットだった。酒場は、広場の隣にある石造りの建物で、一階が酒場、二階が主人の住居。店主の人柄から察するに客商売だから騒音を嫌ったか、それ以外のスペースを確保するためか、地下に洗濯室がある。ただ、換気や除湿が不十分だと黴や湿気がこもりやすかったりするが、その指摘は、自分の領分とは外れている。階段を降りるとなるほど中々手強い、湿っぽく、壁には、黴が
地下室は魔力灯が一つで、その光量も闇夜の発光生物のようにか弱い。
洗濯機は円筒形で、エーテル循環ポンプによる古い魔力駆動式で、製造年は不明だが、少なくとも二十年以上前。ヴァンは洗濯機のパネルを開けてネジを外すと、その裏に複雑な配管があり、その中央の表面に特徴的な緑色の錆が見える。
それは、エーテルの腐食だ。ヴァンは工具を広げる。
『多機能魔導工具セットEX』
一つ一つの工具が、状況に応じて形を変え、これは形状記憶合金と、魔術の組み合わせによる画期的な代物。日曜大工のお供に、おやおやいまはDIY、聳え立つ高層建築にも、断崖絶壁の古城にも欠かせない。レンチは、マイクロスコープに早変わり、さあそこを、そうです、レンチの柄を回せば、先端にレンズが現れ、微細に部品を観察でき、これが百倍、すごい、欲しい、買いたい。いえいえ、これだけじゃありません。ドライバーは、魔力探知機に変わる。どうですどうです、これがいまならサンキュッパッ、ってそんな値段で買えるか。
本来は軍の特殊部隊向けの装備で、金貨十枚は下らない。
ピコにも手伝ってもらう、高い解析能力、あるいは機械による機械の診断能力。ピコは、洗濯機の内部をスキャンする。赤外線、超音波、魔力波。
すべての周波数で、スキャン。
「何処が悪い?」
「エーテルフィルター、目詰マリ。交換必要。代替品、現地調達可能。素材:蜘蛛ノ巣繊維三十グラム、朝露五ミリリットル、影喰イノ欠片一グラム」
ピコの診断は、正確。そして、具体的。
文の中に打つ
必要な素材まで、リストアップしてくれる。
エーテルフィルターの材料として最適な蜘蛛の巣繊維、魔力濃度が高く、潤滑剤として使用する朝露、そして影喰いは、魔力の塊。
その欠片を使うことで、エーテルの流れを安定させる。その結果をもとに、古くなったものを新しく―――入れ替えない。
ピコには悪いが、こんな時のためにロジオンが役に立つ。ロジオンは車だが、元は魔術師だった、古いものを新品同然にできる魔術が使える。ヴァンは、洗濯機を地下室から外に運び出す。血管メロンしながら、よいしょよいしょ運ぶ。アンタ、細身そうなのに意外と力持ちだな。軍隊の時ほどではないが訓練はちゃんと怠けず続けており、腹部はシックスパックだ。それに腕相撲やアームレスリングと一緒で、鍛え方というのも存在する。しかし、一瞬ヴァンは眼を細め、本当は主人に手伝ってもらいたいと思っていた。筋トレに比べれば楽だが、ヴァンは頑なに仕事での肉体労働を嫌っていた。トレーニングだから死ぬほど重い物を持ち上げるのであって、それ以外の場でやれば、勝手が違って腰を痛めることもある。何事にも呼吸や姿勢があり、安全に負荷をかけられる。いざという時ならば別だが、持ち慣れていないものを抱えればそれは変な姿勢になる。訓練と実務は別物であり、これは筋肉への裏切り行為だ。
だが、この主人、地下室へ降りたあたりで、いきなりビールをぐびぐび飲み始め、ぷはっ、とかやり始めた。
修理工は辛い。それを玄関先まで運び、ロジオンの前に置く。
「なんだ、ヴァン、どうしたんだ?」
「・・・・・・分かってるだろ?」
進捗ゼロのループマシンたるロジオンの一人語り。
「そうだな、俺様の最強の、いやもう最高の、いやいやもう、魔術の教科書とでもいうべき、俺様のマスターピースな魔術が必要なのだな」
「ロジオン、フロントガラスを粉々にされたくなかったら早くやれ」
そう言うと不思議と、ロジオンは洗濯機に素直に近付いた。無駄口も叩かなかった。実際、ヴァンが洗濯機を運んでくる時点で不機嫌そうだと分かっていたのもある。
「
ロジオンの声が、響く。
いつもよりも大きく、荘厳だ。
古文書の上書きされた層を削り、下に眠る本来の姿を蘇らせる技法から取った魔術。そしてもうロジオンではなく、パリンプセストっていう名前でいいんじゃないかっていう不思議。あら
洗濯機の表面から、時代の汚れが剥がれ落ちる。錆は消え、塗装は新品のように輝き、内部の機械部品も、製造された当初の状態に戻る。エーテルポンプの緑色の錆が消えるだけではなく、金属が新品同様の輝きを取り戻す。
配管の中の詰まりも消え、エーテルが、スムーズに流れる。まるで、工場から出荷されたばかりのようだ。
主人は、驚く。口が開いたまま、閉じない。
「こりゃあ、すげえ」
ヴァンは、ロジオンのボンネットを撫でる。手のひらで、金属の表面を撫でる。ロジオンのエンジン音が、嬉しそうに変わる。回転数が上がる。
いいオイル入れたくなる、これは金の卵だ。ロジオンがいれば、修理が簡単になる。部品を交換する必要がない。古いものを、新品に戻せばいい。ただ便利な魔術とはいえ、魔力が枯渇すればロジオンの魂が最悪は消滅するか、冬眠状態に入る。幸い、ロジオンの魔力はかなりのもので、一日に三回以上は使わない方針でやっている。限界まで酷使するとすれば、それは憎むべきブラック企業だ。
また、完全に破壊されたものは、復元できない。時間を巻き戻すことができるのは、まだ原型が残っているもののみ。粉々に砕けたものは、無理だ。
次の客は、若い男性。カウボーイスタイルと侍の格好を半分ずつにする出で立ちで、レオも奇抜な格好をしていたので、若い人ほど影響を受けるものなのかと仮説を立てるが、否、もうこれはこの街のファッションなのではないかとも思えてくる。
ラジオの調子が悪いんだが直せるか、軽い調子だ、フリスビーだって出来る、草原を犬が走るようにヴァンだって走る。専門分野だ、任せろ、お金欲しい。嘘だ、専門分野は銃だ。人殺しは得意分野だ。
しかしお客もやりやがったね、このラジオは特別だった。
『次元越境ラジオ』
ラジオの外観は、古い真空管ラジオ。木製のケース。前面に、布張りのスピーカーがあり、上部に、ダイヤル。しかし、このダイヤルの数が多すぎる。通常のラジオは、周波数のダイヤルが一つだが、このラジオには、六つ搭載されている。
飾りや伊達であったらいいのだが、無駄に高機能なことに、この六つのダイヤルは、それぞれ異なる時間帯に対応している。朝、昼、夕、夜、満月、新月。この街の歪んだ時間の中でも、異なる時間帯の放送を受信できるという珍品。稀少品。価値は高いはずだ。しかし、修理は困難を極め、そもそも最初から壊れやすいことを前提とし、場合によっては欠陥品であったことも十分に考えられ、プロトタイプが、そのまま市場に流れ、ジャンク品として処理されたのかも知れない。
問題は、ラジオの背面に取り付けられている、一メートルながら神経細胞の樹状突起のように、六つに分岐しているアンテナの調整だ。それぞれが、異なる方向を向き、空の六つの領域それぞれから来る電波(というか魔波)をアクロバティックに、一つの装置で処理する―――わけだが、ほとんど不可能に近い。通常、一つのアンテナは、一つの方向からの電波しか受信できない。何かって言ったら、脱帽、もう
こんなの大量生産も出来ないどころか、二つ作るのさえ、難しい。アンテナが田植えなら別だが、電波を受信するためには、六本のアンテナが、完璧に調整されている必要がある。もし最初は普通に使えていたというなら、まぎれもなく、
無理難題ではないにせよ、その労力に見合わない、雀の涙ほどの金額に暗然としながらも、ヴァンは三日かけて調整した。男性が提示した金額は、銀貨十枚。これは、通常のラジオ修理の二倍だ。しかし、この特殊なラジオの修理としては、安すぎる。本来なら、金貨二枚、いや十枚要求したって罰は当たらない。
しかし、男性は貧しそうだった。
金持ちから存分に適正価格を受け取るのは一切遠慮しないが、貧しい者から、そういう適正価格を受け取ろうとするのはちょっと違う。
ヴァンは徒労だと分かっていても、銀貨十枚の重みに価値があると信じようとした。毎日、空の領域が移り変わるタイミングを計り、アンテナの角度を微調整する。ロジオンに乗り込み、そこでラジオを修理した。朝の領域が夕の領域に変わる瞬間、ヴァンは、時計を見る。しかし、時計は役に立たない。時計も、この街では狂う。代わりに、ヴァンは自分の感覚を使う。空気の変化。光の質。温度。すべてが、時間の境界を教えてくれる。境界の瞬間、ヴァンはアンテナの角度を変える。わずか一度。しかし、この昆虫の触覚のように繊細な一度が重要。
そこで、ロジオンに
通常、ロジオンにここまで魔術の詠唱を頼むことはない、しかも、それでもまだ、完璧ではないのだ、頭がおかしくなってくる。だが、弓なりの背中を見せながら機会をいじっているヴァンは、ちょっと楽しそうだ。修理とは、パズルだ。壊れた機械は、バラバラになったパズルのピース。それを、元の形に戻す。あるいは、より良い形に組み直す。頭を使い、手を動かし、試行錯誤を繰り返す。
その達成感は難易度が高ければ高いほど、快いものになる。
その作業中、ラジオからは奇妙な放送が流れてきたラジオは音を受信しているのではなく、正確には、音になる前の後悔を掬い上げていた。ダイヤルを回すたび、世界の何処かで選ばれなかった一日が、貝殻に入れられた小さな耳のように、かすかな雑音として浮上する。
朝にならなかった朝、そいつは、正確さよりも、接触を欲しがる。帰らなかった夜、言わなかった言葉。その、消化しきれなかった選択を、いつまでも蠕動運動の途中に残し、
電波は直線では飛ばない。ねじくれた時間の
六本のアンテナは空を向いているのではなく、それぞれ異なる、もしも、に突き刺さっていた。だからこの装置は壊れやすい。世界は、自分の別の可能性を長時間聴かれるのを嫌う。ノイズとは誤作動ではない。
それは現実が、これ以上説明されるのを拒否している音だ。
朝の領域からは、
「今日の天気予報。晴れのち時々記憶喪失」
昼の領域からは、
「緊急ニュース。中心街で道路が消滅」
夕の領域からは、
「思い出の音楽。あなたが忘れたあの歌を」
夜の領域からは、
「闇の時間。失われた記憶のオークション」
そして、満月の領域からは、
「・・・・・・歯車は回る。記憶は消える。誰も止められない・・・・・・」
新月の領域からは、無音。
ただ、深い闇の中から、かすかに泣き声が聞こえる。
最終的に、ラジオは直った。
十二回の魔術詠唱。無数の微調整。その結果、ラジオは再び機能するようになった。 六つの領域すべてを同時には受信できないが、三つまでなら可能だ。ダイヤルを切り替えれば、すべての領域の放送を聞くことができる。音質も、以前より良くなった。ノイズが減り、声がクリアになった。
そして、ヴァンは依頼主に警告した。
業務上のそれではなく、親切なアドバイスだ。
「このラジオ、全部の領域を受信するようになっている。でも時々、怖いものが聞こえるかも知れない、夜には聞かない方がいいぞ」
依頼主は笑った。
「この街に住んでりゃ、それぐらい慣れてるよ」
*
ヴァンも最初は日雇いで働いていた。
到着した街で、その日その日の仕事を探す
値段は、その日の需給で決まり、労働者が多ければ、賃金は下がり、仕事が多ければ、賃金は上がる。早朝に来れば、良い仕事にありつける。昼頃に来る
港町では荷物運び、麻袋に詰められた一袋で五十キロの穀物を船から倉庫まで運ぶ。桟橋は波で揺れており、バランスを取りながら、滑らないように、一歩一歩、慎重に進む。船から倉庫までの距離は、約二百メートル。往復で四百メートル。一日に、何十往復もする。腰や肩の痛みを感じながらの重労働だ。
だが、軍隊での補給ほどは深刻ではない。落としても怒られる程度で済むが、補給における弾薬、医療品、飲料水、通信機器、修理部品は届かなければ死ぬという、
農村では収穫の手伝い、朝は早い。宗教の讃歌でも歌うように夜明け前に起き、世界の皮膚の裏側のような畑に向かう。陽が昇れば、暑い。帽子をかぶっていても、熱中症になりそうだ。腰を屈めて、作物を摘む。トマト、キュウリ、ナス、じゃがいも。作物が、整然と並び、畝が、地平線まで続いている。その規模に、圧倒される。自分の手が汚れ、爪の間に土が入り、蛇や昆虫と心を通わせて悟りを開き、自分の存在が土の一粒へと
工業都市では工場労働をした。工場労働は、そのどちらとも違うが、過酷だ。ベルトコンベアの前に立ち、流れてくる部品を組み立て、感情のない機械のように同じ動作を何千回も繰り返す。昼食休憩が三十分。トイレ休憩が、午前と午後に十五分ずつ。それ以外は、立ちっぱなしだ。座ることは、許されない。手は覚え、頭は退屈する。そして一日が永遠のように思えている自分の傍らで、誰もが
酸素が欠乏した水槽の中で何百匹もの魚が喘いでいるような気がした。
心は、静かに降り積もった
時折トイレ休憩へ行き飲み物を口に運ぶが、そのまま工場を抜け出して自由になりたい気持ちを抑えきれない。 窓の外には、青空が見え、鳥が飛び、雲が流れている。世界は、広い。だが、自分は、この灰色の箱の中に閉じ込められている。
これが日雇いというものだ。皮膚を厚くし、心の殻を固くし、日々を一つまた一つと規則正しく重ねていくしかない。
荷物運びは、一日で銅貨二十枚。収穫の手伝いは、銅貨十五枚と食事。工場労働は、銅貨二十五枚。だが、これでは、まともな宿にも泊まれない。銅貨十枚ぐらいの安宿を探すか、雇い主にシャワーでも借りて、ロジオンで眠った。食事も質素だ、日雇いの給料を胃袋で満たすわけにはいかない。朝はパン一切れと水。昼は、チーズか干し肉を少し。夜は、スープと黒パン。結果、肉や魚など滅多に食べなくなり、野菜中心になる。だが、栄養が偏れば体調を崩しやすく、休めば収入がない。無理をして働く。悪循環は一向に終わりを見せない。手に職がなければ厳しいだろうと、ヴァンは悟った。日雇いでは、生きていけない。いや、生きるだけなら可能かも知れない。どの街へ行っても運命論的な諦めを手にする人々がおり、それが駄目なら奴隷や乞食にでも身を墜とすように見えた。
今日もまた、同じ空を見上げるだけで終わるのかと思い、自分が何処へ向かっているのか分からなくなる瞬間のその先にはそういう未来も有り得る。
しかし、そうしていれば旅を続けることは出来ない。貯金が出来ない。現実的にだが、煙草という嗜好の贅沢品の煙に肺を真っ黒にしてやることが出来ない。
もしもの時のロジオンやピコの修理費も出せない。底辺労働者が、家族にいつも申し訳なさそうにするように、ヴァンも卑屈な気持ちになった。ロジオンとピコは、文句を言わない。だが、彼等を満足にメンテナンスできない自分が、情けなかった。もう軍に復帰しようか、殺し屋稼業でもしようかと思ったことも一度や二度ではない。懐は潤う、衣食住も安定する、はっきり言って向いてる、ただ、その代わりに何故それを辞めようと思ったのかの
また人を殺さなければならず、また、戦場に行かなければならない。
ヴァンは方針を変えた。軍での経験を活かし、修理工として働こう、と。これなら、専門技術がある。賃金も高い。とはいえ、最初は不安だった。本当に客が来るのか、修理工の需要はあるのか、と。その上、当時は手探りであったので工具らしい工具もなく、看板もなく、どうやって人を集めたらいいのかも分からなかったが、始めてみると、意外と客がいた。ありがとうと感謝されるのもくすぐったいが、悪くなかった。壊れた機械は、何処にでもあり、そして、直せる人間は意外と少ない―――やがて、自分は今のスタイルに落ち着いた。修理工という名をした何でも屋。看板には何でも修理します、とキャッチコピーが書いてあるが、一言一句嘘ではない。何でも修理する。鍋、洗濯機、ラジオ、時計、銃、魔導具。種類は問わない。直せないものは、殆どない。ヴァンの知識は広範囲だ。機械工学、電子工学、魔導工学。軍での訓練は、多岐に渡った。兵器の修理だけでなく、あらゆる機器の保守を学んだ。それに、分からないことがあれば、ピコが教えてくれる。ピコのデータベースには、あらゆる修理マニュアルが保存されている。ロジオンも、人間だった頃の知識を持っている。三人(一人と二機?)で協力すれば、大抵のものは直せる。
人生というのはそれでやっぱり上手く出来ていると感心する。ヴァンの修理技術があれば、金を稼げる。それに、ピコとロジオンのおかげで、どんな街に行っても喰いっぱぐれることはない。これは、大きな安心だ。旅人にとって、最大の恐怖は飢えだ。金が尽きれば、食べられない。貧しさは論理的思考を蝕んでゆく。
それに幸か不幸か、ピコとロジオンに食費はかからない。これも、重要な利点だ。人間なら、最低でも一日三食。一食で銅貨五枚として、一日で銅貨十五枚。三人なら、銅貨四十五枚。月にすれば、銀貨十三枚以上が必要だ。
ピコとロジオンは食べない。ロジオンに、ガソリンはいらない、時折、エーテル液をぐびぐび飲ませる。魔力は、空気中から吸収する。ピコは、さらに省エネだ。魔力だけで動く。空気中のエーテルを吸収し、それをエネルギーに変換する。太陽光でも充電できる。完全に自給自足。
ヴァンは、自分の食費だけを心配すればいい。一日三食で、銅貨十五枚。月に銀貨四枚半。これなら、余裕を持って生活できる。貯金もできる。
煙草も吸える、三十代の女の肺とは思われないほどに真っ黒にできる。
稼ぎがいい時はロジオンにいいオイルを入れてやる。これは、ヴァンの楽しみの一つであり、戦場で覚えた数少ない良い習慣だ。部隊の整備兵が、出撃前の戦車に最高級の
こいつが俺たちを守ってくれるんだ。最高のもんを食わせてやらなきゃ、罰が当たる―――その言葉が、今も耳に残っている。
ロジオンは、ヴァンの仲間であり、家族のようなものだ。いや、家族という言葉は正確ではない。ヴァンには、もう血の繋がった家族がいない。両親は、彼女が十二歳の時に死んだ。戦争で、爆撃で、家ごと。だから、家族という言葉の本当の意味を、ヴァンは知らない。だが、ロジオンとピコが、家族に最も近い存在であることは自分でもよく分かっている。
家族を大切にするのは、当然。ピコには機械に光沢を出すクリームを軽く塗って拭いてやる。ピコも、ヴァンにとって大切な存在。
小さな身体で、いつも一生懸命働いている。その努力に、報いたい。
ロジオンの好物は、『星屑入り高純度潤滑油』
これは、特殊なオイルだ。通常の潤滑油に、微細な星屑、正確には、隕石由来の金属粉末が混入されている。星屑の成分は、主に鉄、ニッケル、コバルト。しかし、地球上の鉱物とは、微妙に組成が異なる。宇宙空間で形成されたため、結晶構造が特殊。この
さらに、星屑には微量の魔力が含まれている。
でもロジオンはそのオイル交換を、野生の荒々しい習わしのように、食事と呼ぶ。飲ませるとエンジン音が音楽のように滑らかな均一な音になり、振動が減る。回転がスムーズになる。アイドリング時の回転数が安定する。最高速度も上がる。通常は時速百キロが限界だが、星屑入りオイルを使うと、時速百二十キロまで出る。そして財布が、ばりいかつくなる。
けれど、ロジオンは、星屑入りオイルを入れると、明らかに機嫌が良くなる。
ピコは、『
これは、レンズ用の研磨剤。主成分は、肉眼では見えない微粉末化された水晶で、その大きさは、ナノメートルオーダー。水晶粉末に、魔力強化されたエーテルアルコールの溶剤が混ぜられ、レンズ表面の微細な傷を埋め、滑らかにする効果がある。使い方は、簡単。研磨剤を、柔らかい布に少量つけ、埃を取るのに適したマイクロファイバークロスで、ピコのレンズを優しく拭く。円を描きながら、力を入れすぎず、表面を傷つけないようにしながら。
五分ほど拭くと、曇り硝子みたいに、レンズが曇ってくるが、これは研磨剤が、表面に薄い膜を形成しているからだ。さらに五分拭き続けると、嘘のように曇りが消えて、形成されていた膜が、レンズと一体化する。最後に、乾いた布で余分な研磨剤を拭き取ると、ピコのレンズの透明度が増し、視覚情報の解像度が上がるすなわち解析精度が二十パーセント向上する。通常、ピコは二百五十六色を識別できるが、研磨剤を使用した後は、六千色以上を識別でき、微妙な色の違いも、見分けられ、暗視能力も強化される。低光量環境での
ただ、ピコは、研磨剤を塗られると、嬉しそうにレンズを光らせる。LEDライトが、虹色に点滅し、拭き終わったあとには、
「キレイニナッタ!」と声のトーンが、高くなり、子供のように喜びを爆発させる。おそらくそれは見えざる網の
ヴァンは、布に研磨剤をつけ、ピコのレンズを拭く。
優しく。丁寧に。まるで、赤ん坊の世話をするように。
ピコは、じっとしている。レンズを閉じる。シャッターのような機構で、レンズを保護する。閉じた本の表紙のように、開けばきっと、誰も知らない季節の物語が秘められていると信じていた子供の頃を思い出す。関連の情趣。拭かれている間、ピコは何も言わない。ただ、小さく振動している。猫が官能的に咽喉を鳴らすようなものだ。あの、ゴロゴロという音は、声帯の振動ではなく、咽頭の筋肉の収縮だという説がある。だが、理由は分かっていない。何故猫が、気持ちが良い時に咽喉を鳴らすのか。ピコの振動も、同じだ。何故振動するのか、分からない。設計上、そのような機能はないはずだ。だが、拭かれている時、ピコは振動する。気持ちが良いのだろう、とヴァンは解釈している。
あるいはそうすることでコミュニケーションを成立させようとしているのかも知れない、ピコを研磨剤で拭くのは、物を拭くようなものではない。
作業が終わると、ピコはレンズを開き、
「アリガトウ、ヴァン」と言う。
ヴァンは、微笑み、「どういたしまして」と答える。
野宿は慣れたものだ。ヴァンにとって
ヴァンは、軍人時代から野宿に慣れている。訓練とはまことに仮の宿たるヤドカリを育てる便利な言葉で、釣り合いの取れた性格、逞しい神経を育てる。無意味だ、こんなの軍の任務と関係ないと、甘っちょろい、なまけた文句をいえば綿々絶えない不幸が襲い掛かる。果てがないのだ。だからそれはそういうものだと頑なに信じる。テントもなく、地面に寝袋を敷いて眠る。
寝袋の素材は、防水加工されたナイロン。外側は迷彩柄。内側は、起毛フリース。重量は、約二キロ。丸めると、直径二十センチ、長さ四十センチの円筒形になる。バックパックの底に、常に入っている。
もちろん、何日も野外で過ごす。蛇や野生動物だっている。夜中に、何かが寝袋の上を通り過ぎる感触。重さで、種類を判別する。軽ければ、鼠か蛇。重ければ、狐か狸。さらに重ければ、鹿か猪。人間の足音なら、すぐに目を覚ます。銃を構える。敵か味方か、判断する。雨の日も、雪の日も、青銅の文鎮のようなポジショニングをする。みんなタフだ、自分だってそうだ、何百日だって耐えられる自信がある。だが、それがクレイジーであることはちゃんとみんな分かってる。
新兵が入ってくると、最初は愕然とする。
こんなの人間のやることじゃないと言う。しかしそんなことを言っていた奴も、三ヶ月後には、慣れる。一年後には、野宿は楽だと言い始め、すっかりアウトドア派閥の仲間入りどころか、おめでとうガチ勢。五年後には、ベッドで眠る方が落ち着かなくなる。それは狂気だが、軍隊という装置はそれを慣れという名の
しかし今は、ロジオンがある。ロジオンの後部座席に、軍用の灰色のウールの毛布でくるまって眠る。厚手で、暖かく、これは、地面で寝るよりずっと快適だ。だが、三キロある。そして臭いがする、羊の臭い。長年の使用で染みついた汗の臭いが。とはいえ、ヴァンは、この臭いが嫌いではない。慣れ親しんだ匂いであり、安心する匂いだ。この毛布にくるまると、軍人時代を思い出す。戦友達と、同じテントで眠った夜。焚き火を囲んで、下らない話をした夜。
誰が一番長く息を止められるか、賭けをした夜。誰が一番早くライフルを分解・組立できるか、競争した夜。 その戦友達の多くは、もういない。
死んだ者、除隊した者、行方不明の者、連絡が途絶えた者。
毛布の臭いを嗅ぐと、彼等の顔が浮かぶ。
忘れたら本当に死ぬ。
しかし近頃はもう、三十二歳、敷布団や枕を購入しようかと本気で思っている。野宿に慣れたが、快適な感銘を与えてくれた子供時代のような朝の目覚めは夢幻。背中が痛い、首が痛い。敷布団があれば身体が沈む感覚があり、腰への負担が減る。枕も欲しい。いまは丸めた服を枕代わりにしているが、高さが合わず、硬い。朝起きると、身体が川辺にいる鰐のように不本意に硬直している。
実際、ロジオンの内部は、外見より広い。
後部座席を倒せば、簡易ベッド、座面と背もたれが、平らな面を形成する。幅一・五メートル、長さ二メートル。大人一人がごろりと横になれる広さだ。しかし、完全に平らではない。座席の継ぎ目に、段差がある。この段差が、背中に当たる。だから、敷布団が欲しい。
天井には、小さな直径十センチの魔力灯がついており、明るさを調整できる。材質は、磨硝子で中に魔力結晶が入っていて発光する仕組み。明るさは、ダイヤルで調整する。ダイヤルは、天井の隅にある。最小にすれば、仄かな明かり。読書には不十分だが、寝るには十分。最大にすれば、昼間のように明るい。
ドアのポケットには、様々なものが入っている。水筒。非常食。缶詰、乾パン、ナッツ、ドライフルーツ。缶詰は、ビーンズ、コーンビーフ、ツナ、桃のシロップ漬け。賞味期限は、すべて過ぎているが缶詰は意外と持つ。数年過ぎても、食べられる。それから、医療キット。包帯、消毒液、鎮痛剤、抗生物質、縫合セットは、針、糸、ピンセット。傷を縫うための道具。
ヴァンは、自分で自分を縫ったことがある。二度。
そして数冊の本が入っている。本のタイトルは、
『魔導工学の基礎』
これは、教科書のような本。分厚い。五百ページ以上。
内容は、魔力回路の設計、エーテル流体力学、魔導機関の構造、など。図解が豊富。数式も多い。難解。しかし、有用。
『大陸横断修理ガイド』
これは、実用書。地域ごとの機械の特徴、修理のコツ、部品の入手方法、などが記載されている。索引が充実していて、必要な情報をすぐに見つけられる。ヴァンの仕事の必携書。
『生きるための殺し方(ただしこれは隠している)』
これは、軍のマニュアル。正式名称は『近接戦闘教範』
しかし、ヴァンは生きるための殺し方と呼んでいる。
内容は、素手での戦闘技術、ナイフの使い方、急所の位置、殺傷方法、拷問技術、尋問技術、など。図解は、生々しい。人体の断面図。骨格、筋肉、血管、神経。どこを切れば、どうなるか。この本は、ドアポケットの一番奥に隠している。他の本の後ろに。見られたくない。ピコもロジオンも、この本の存在を知らない。ヴァンだけの秘密。軍を辞めた時、他の装備はすべて返却した。しかし、この本だけは持ち帰った。何故なら、まだ必要かもしれないから。旅は危険だ。盗賊、魔獣、敵対的な住民。身を守るためには、戦う必要がある。殺す必要がある。この本は、生存のための道具。しかし、同時に、過去の証拠でもある。捨てれば、過去を忘れられるかも知れない。しかし、ヴァンは忘れたくない。忘れてはいけない。
罪を忘れることは、罪人の特権ではない。
ただ、敷布団と枕、あるいは座布団はまだ購入していない。これには二つの理由があり、一つはロジオンがこれでも俺は男だ、女を寝かせないとヌカすからだ。車が何、頓馬なことを言ってやがるという向きはありつつ、いやいや、自分は三十過ぎた女だが、昔から男と間違われることが多かった。身長は一八〇センチ。女性としては、かなり高い。体格も、華奢ではない。筋肉質。美形であるのは事実だが、女性的な美しさとは一線を画しており、中性的であり、ボーイッシュ。服装も、男性的。ジャケット、作業服、戦術パンツ、ブーツ。
ひらひらしたスカートなど、子供時代も、一度も履いたことがない。ドレスも、化粧もしない。女に告白されることも、二十代ぐらいまではあった。三回。すべて、断った。ちなみに男だと思われて告白された回数は、その百倍はある。辟易した。男性とベッドを共にした経験もない。これは、意図的な選択ではない。単に、機会がなかった。あるいは、機会を作らなかった。
軍にいた頃、男性兵士からの誘いは何度かあった。しかし、すべて断った。理由は、面倒だから。恋愛は面倒。感情のやり取りが面倒。相手の気持ちを考えるのが面倒。除隊後も、誘いはあった。しかし、やはり断った。
別に、恋愛感情や性的欲求が分からないわけじゃない。ヴァンは、人間だ。感情がある。欲求もある。他人が恋愛している様子を見れば、理解できる。幸せそうだと思う。時には、羨ましいとも思う。性的な欲求も、ある。生理的な反応。しかし、それを満たそうとは思わない。
何故なら、面倒だから。相手を探すのが面倒であり、関係を築くのが面倒だった。恋愛感情は、ほとんど感じず、誰かを好きだと思ったことは、ない。憧れたことはある。尊敬したこともある。しかし、恋愛感情とは違う。性的欲求も、弱い。月に一度、ふと感じる程度。しかし、すぐに忘れる。他のことを考える。仕事のこと。旅のこと。生存のこと。
そんなアマゾネスな手合いに向かって女を寝かせないとか旧時代的なことを言われても、ただ引くだけなのだが、ロジオンは確かにベッドルームではない。ロジオンは車であり、相棒だ。ロジオンがそうしろと言うなら喜んで敷布団や枕を購入するが、そうではないなら、ロジオンの言い分は通してやりたい。
ただ、旅が続いた数年後、ロジオンベッドルーム計画は遂行される可能性はある。ロジオンのお願いを一つや二つ聞くことで、
ただ、二つ目の理由は、ヴァン自身の警戒心だ。
完全に眠るということが、もう出来ない。軍人時代の名残で、常に一部の意識は起きている。これは、訓練の結果だが、軍隊でもなく、人殺しもしない自分にとっては副作用みたいなものだ。敵地での睡眠は、死を意味し、完全に意識を失えば、敵に襲われ咽喉を切られるか、心臓を刺される。そういう世界にいた。
だから、兵士は浅い眠りを学び、脳の一部だけを休ませ、残りの部分は、警戒を続ける。ヴァンは、この技術を完璧に習得した。眠っている間も、耳は機能している。音を拾う。足音、呼吸音、風の音。それらを識別する。危険な音と、安全な音。そして少しの物音でも目を覚まし、たとえばロジオンのエンジンが、いつもと違う音を立てるだけでも目が覚める。外で、誰かが歩く音。目が覚める。遠くで、動物が鳴く。目が覚める。平均して、一晩に五回は目を覚ます。その度に、周囲を確認する。銃を手に取る。ドアの鍵を確認する。窓の外を見る。異常がないことを確認して、再び眠る―――銃を手にしていないと、不安で眠れない。これも、軍人時代の名残。戦場では、銃が命綱。銃がなければ、無防備。今でも、眠る時は腰のポーチに手を添えたままになる。ポーチには、分解収入されたシグナーP226カスタムが入っているが、組み立ては数秒でできる。寝ぼけていても命懸けだと何故か出来る。
つまりこういうことだ、まかり間違ってロジオンを穴だらけにしたくない。ロジオンの中で幸い発砲事件は起こしていないが、これは不幸中の幸いにすぎないと自分は思う。三年前。ある街の宿に泊まった夜。夢を見てい。深い眠りに落ちて錯乱していた、戦場の夢。敵に囲まれている夢。銃声。爆発音。悲鳴。
仲間が無残に殺され、自分は逆上した、そこは戦場、有無を言わさぬ津波に襲われた浜辺。目が覚めた時、手には銃を握り、天井に、穴が開いていた。
宿の主人が、飛んできた。何事だと叫んでいた。他の宿泊客も、起き出してきた。騒ぎになった。弁償で済んだ。銀貨二十枚。天井の修理代。しかし、もちろん寝ぼけてというのは恥ずかしかったので、暴発したということにした。古い銃で、整備が不十分だったと嘘をついた。信じてもらえたかは、分からない。
この経験は、やはり大きい。
どんなに軍隊から離れた場所にいても長年培われたものは、消えない。もう一生このままだろうと少し諦めている。銃を手放しても眠れるぐらいに、平和にぼければ、ロジオンを説得することもやぶさかではない。
だが、正直、その日が来るとは、思えない。
なお、三つ目というわけではないが、自分もできるなら、宿でその地域の食事を取り、シャワーを浴びるという
温かい食事と、清潔な寝床。それ以上を望まないというのは、欲が少ないのではなく、それ以上を望むと旅が終わってしまうからだ。
地質学的諸偶然のような眠りと僅かな身じろぎ。
旅で美味しい食事、きれいなベッド以上のサービスなど存在しない。これは、ヴァンの信念。旅人が求めるものは、結局この二つ。
美味しい食事。その地域の名物料理。郷土料理。港町なら、新鮮な魚介類。山の村なら、野生の獣肉。農村なら、採れたての野菜。宿の食事は、特別だ。家庭の味。プロの料理人ではないかもしれないが、心がこもっている。母親が作るような、温かい料理。スープ。パン。チーズ。
スープは湯気を立てていたが、その湯気の中には、ここに辿り着かなかった旅人の呼気が、混じっているような気がして群れなす宝石の目は開き、鳥達は音もなく舞い上がる。誰もそれを気にしない。温かいものは、大体そういうものだ。
それから、肉料理。野菜のサラダ。デザートに、果物や菓子。ワインやエール。食卓を囲む。他の宿泊客と、旅の話をする。出身地の話。これから行く場所の話。笑い声。温かい雰囲気。そうだとも、笑い声は正確だった。ただし、誰の現在から発生しているのかだけが不明なまま、記憶と感覚とが作り変えられる。
部屋に戻れば、きれいなベッド。清潔なシーツ。ベッドは休息のための家具ではなく、時間を一時的に折り畳むための装置だ。天使が花籠の中に入って神は犬みたいだと嘲笑い、次の瞬間には遊戯と仙境と慰安。人は、横になるたび、自分の年齢を数時間分、何処かへ預けている。
柔らかいマットレス。ふかふかの枕。羽毛布団。ベッドに横になれば身体が沈み、全身の力が、抜ける。リラックスしながら軍隊時代の野宿を、あれは若かったから出来ることだと教訓のように思うだろう。そしてシャワーを浴びる。温かい湯。石鹸で身体を洗い、髪を洗う。旅の疲れが、流れ落ちる。タオルで身体を拭き、清潔な服に着替えて、さっぱりすればこれが文化的生活というものだ。
湯と一緒に流れていくのは疲労ではない。今日という単位そのものが、排水口へ消えていく、貧しい人々の心へ、私腹を肥やした猿の夢へ、聳え立つ氷の塔。
人間らしい生活。野宿では、得られない贅沢。ヴァンは、時々、宿に泊まる。金に余裕はいまでもあるが、稼ぎが良かった時にしている。自分へのご褒美として。
しかし、この街には普通の宿がない。時間が定まらないので、朝食の時間も就寝時間も決められない。通常の宿では、チェックインは午後。チェックアウトは午前。朝食は午前七時から九時。夕食は午後六時から八時。
しかし、この街では、午後も午前も意味がない。時間が、流動的。チェックインした時は朝でも、部屋に案内される間に夜になる。ある宿では、こんなことがあった。ヴァンが、宿の扉を開ける。中は、明るい。窓から薔薇色の朝の射し込込んで、受付の女性が、薬缶のように元気よく挨拶する。
世間の刺をやわらげる包帯のような声だ。
「いらっしゃいませ。お部屋はご用意できます」
ヴァンは、料金を払う。銀貨五枚。鍵を受け取る。部屋番号は、二〇三号室。二階。階段を上る。一階から二階へ。十五段の階段。登り始めた時、窓の外は朝。明るい。鳥が鳴いている。五段目。窓の外を見る。まだ朝。しかし、太陽の位置が変わり、ヴァンはいつのまにか学者の額に刻み付けた皺の静けさ。
十段目。窓の外を見る。坩堝煮え立つような昼。
太陽が、真上にあり、影が、短い。階段は高低を移動するためのものではなく、時間を上下に踏み抜くための構造物だと、様々な計算の応用と未聞の諧調の飛躍によって
十五段目。二階に到着。窓の外を見る。夕方。太陽が、沈みかけている。空が、オレンジ色。廊下を歩く。二〇三号室まで。ドアの前に立ち、幻術の穴のような絵模様へ鍵を挿す。ドアを開ける。部屋の中に入る。窓の外を見る。
それは狐に化かされたような夜。
まったくもって、星の配置は正しかった。正しいが、どれも、彼女が生まれる前に消えた星であり、それは、狂気じみた無際涯の飛躍を促すもの。正しい星空ほど、人間の居場所を否定するものはない。
数万年とんで数十万年の向こう側から愛を囁くエゴイストな神の晶族。
チェックインした時は、朝だったが、部屋に案内される間に夜になった。所要時間は、体感で五分。しかし、時間的には、十二時間以上経過し、泣きたいほどの切なさが湧きあがり、酔い心地のように消える。これは異常ではない。この街では、時間が正確である方が、むしろ不作法なのだ。頭脳は精神の住居を、逃れられない空の落下の中ではじめて可能な掘り出し物とする。正確な時間は、この街では無作法というより、下品と見なされる、ここで乞食や悪魔の子供の不吉な洗濯場。
もはや、
跳躍しているのは自分ではない、請求書の方が、俗界百千の時間を追い越して、ついに偶像崇拝の痴呆の笑いのうちに夢を見ていたのだろう。
ベッドで一眠りすると、外はもう昼だった。ヴァンは、八時間眠った。しかし、窓の外の時間は、六時間しか進んでいない。
あるいは、十八時間進んでいるのかもしれない。判別不能。時差ぼけを起こしていないはずなのに、漏斗に吸い込まれたがっている、
時間帯によって宿代が変わるというシステムもあるが、
いやいや、料金表は親切だった。ただしそれは、何を失うかを、事前に知らせてくれるという意味でだ。宇宙に権利が反映されたことなど一度もない。
ある宿の料金表:
朝(北の空)の時間帯: 銀貨三枚
昼(南の空)の時間帯: 銀貨五枚
夕(東の空)の時間帯: 銀貨四枚
夜(西の空)の時間帯: 銀貨六枚
満月(上の空)の時間帯: 金貨一枚
新月(下の空)の時間帯: 銀貨一枚(ただし保証なし)
この表は価格表ではない。信仰告白の形式を借りた、時間の契約書だ。これだけなら、まだ分かる。福音は神が持っている、それが天文学と機械学の言い分だ。しかし、問題は、滞在中に時間帯が変わる場合。
たとえばチェックイン時は朝(銀貨三枚)だが、滞在中に昼に変わる。追加料金が発生するのか? する場合、いくらか? 宿によって、対応が異なる。
ある宿では、チェックイン時の料金のみ。時間帯が変わっても、追加料金なし。別の宿では滞在したすべての時間帯の料金を合算。朝三枚+昼五枚=銀貨八枚。ただし、その価格体系も肯けるほど、豪華ではあった。さらに別の宿、最も高い時間帯の料金を請求。朝と昼なら、昼の料金。銀貨五枚。
さらに複雑なのは、時間帯の判定基準。チェックイン時の空の色か? チェックアウト時の空の色か? 滞在中の平均的な空の色か?
いや、もしかしたら受付の人も形式的に事務処理的にやっているだけで、チェックアウトした時の空の色で決めているだけかも知れない。どうだろう、もしかすると、空の色など、最初から見ておらず、宿が見ているのは、客が覚束ない教育の年老いた聖者となり、ただ、どの時間を持ち帰ろうとしているか、と。
*
その夜、ヴァンは街の中枢、古い
これらの首尾一貫した生理的信号が、臆病に夜を告げる。
しかし、空の西側領域は深い群青の闇に包まれ、星が無数に瞬いている。一方、北側領域はまだ薄明るく、夕焼けの名残が雲の腹を橙色に染めている。東側は、何故か朝焼けが始まり、薄紅色の光が屋根瓦の端を舐め、ぞっとする切断面を見せている。
ロジオンには悪いが、時計塔前で待機してもらう。
ヴァンは、ロジオンのボンネットを軽く叩く。
「ここで待っていてくれ」
「一人で行くのか?」
ロジオンの声には、心配が滲んでいる。エンジン音が、わずかに高くなる。空白の思考回路の周辺にすばやく彗星のように流れる
「ああ、塔の中は狭い。車では入れない」
「危険じゃないのか?」
「危険だろうな」
ヴァンは、率直に答える。
「でも、行かなきゃならない」
「何故だ?」
ヴァンは、しばらく考える。何故か? 自分でも、よく分からない。好奇心、 使命感。それとも、レオの苦しみを見て、何かしなければという衝動? レオの目の下の隈。震える指。血が滲んだペン胼胝は心に触れるものが確かにあった。
「・・・・・・分からない。ただ、何かある。この塔に」
ロジオンは、変動や式微の緘黙に触れるようにエンジンを唸らせる。不満の表現。しかし、反対はしない。
「分かった。でも、何かあったら叫べ。すぐに突っ込む」
「塔を壊す気か?」
「お前を助けるためなら、何でもする」
ヴァンは、微笑む。珍しく。
「ありがとう」
ピコには、懐中電灯代わりになってもらう。ピコは、ヴァンの肩から飛び立ち、前方を照らす。レンズから、明るい白色光が放射される。
約三千ルーメン、懐中電灯の十倍の明るさだ。
「ピコ、光量を半分に落としてくれ。眩しすぎる」
「リョウカイ」
光量が減る。千五百ルーメン。これなら、目に優しい。
目から
街灯のない暗澹とした通りでも、この塔の光があれば、眼を瞑っていたって歩ける。光は、一定ではなく明滅するが、人間の対処速度では、殆どそれとは気付かれない。明滅の理由は、魔力の脈動によるものだと推察される。時計塔は、街のほぼ中央に位置しているが、街の地理的中心から約五十メートルほど北寄りにある。おそらく、中央部は、地盤が脆弱で、巨大な建造物を支えるのに適していなかった。魔術的な回路のような必然的な理由、巨大な魔法陣の構築ということなら、真ん中に立てた方がより有効だろうが、地盤を補強して建築する意味もなかったのだろう。
その高さは、空の六つの領域のどれにも属していない。塔の中程、高さ五十メートル付近。ここは、どの時間にも属さない。窓の外を見ると、空が歪んでいて朝と昼の境界線が、ぼやけている。色が幻術とまやかしの芳香のように混淆し、薄青と白の中間で
塔の上部は、朝と夜の境界線を貫いている。境界線は、本来目に見えるものではないが、塔の周囲では、半透明の膜のような虹色をした境界線が可視化され、塔の表面に沿って、蛇の脱皮の始めるように
その罅から、魔力が漏れ、鐘楼の影は、昼と夕の境界を跨いでいる。鐘楼は、塔の最上部にあり、高さ九十メートルから百メートルの部分。ここに、四つの大きな鐘がある。鐘楼の影は、仮の浮世のような地上まで演技のように届く。
しかし、影の方向が、おかしい。通常、影というものは、光源の反対側に伸びる。太陽が東にあれば、影は西に伸びる。しかし、鐘楼の影は、複数の方向に伸びており、昼と夕と新月の領域からなる三つの影が地上で交差している。
塔は時間の継ぎ目に、無理矢理に杭を打ち込んだような建物だが、実際、塔の基礎部分には、巨大な杭が地下五十メートルに打ち込まれている。
杭の役割は、二つあり、その一つは、物理的な支持。もう一つは、魔術的な固定。この街では、すべてが、ありとあらゆるものが流動する。建物も、道も。しかし、塔だけは動かない。何故なら、杭が時間そのものに打ち込まれているからだ。時間の深層、自然の時間、時間の基盤、客観的な時間、時間の岩盤、無時間に。
塔の建築様式は、少なくとも四つの時代が混在している。基礎部分は古代ローマ様式の石積み、表面は古代の石工の手作業の、
石積みの技法は、乾式。モルタルを使わない。石と石を、精密に削って、ぴったりと組み合わせる。隙間には紙一枚も入らない。
中程はゴシック様式の尖頭アーチ、煉瓦造り。高さ二十メートルから六十メートルの部分。尖頭アーチは、重量を効率的に分散させ、壁を薄くし、窓を大きくできる。塔の中程には、大きな窓がいくつもありステンドグラスだ。しかし、ガラスは、ほとんど割れ、鉛の枠には天使、聖人、十字架などがいたのだろうか。よく見ると、五芒星や六芒星、魔法陣といった魔術記号が敵意と紛争の舞台を告げる。
上部は産業革命期の鉄骨構造、高さ六十メートルから九十メートルの部分。この部分は、石でも煉瓦でもなく、鉄だ。鉄骨の材質は、錬鉄。
鉄骨の形状は、三角形を組み合わせたトラス構造で強度が高く、軽い。鉄骨は、リベットで固定されている。鉄骨の表面には、ペンキが塗られているが、下地の鉄が、露出し、赤茶色の錆が浮いている。
最上部には現代的な魔導装置が取り付けられている。高さ九十メートルから百メートルの部分。鐘楼の上。魔導装置の外観は、金属製の球体。直径五メートル。
これらが無理矢理に継ぎ接ぎされ、一つの建物として成立している。古代の石積みの上に、中世の煉瓦。煉瓦の上に、近代の鉄骨。鉄骨の上に、現代の魔導装置。
それぞれの部分は、異なる時代に、異なる建築家が、異なる目的で追加した。しかし、全体として、機能している。倒れていない。接続部分を見ると、無理矢理さが分かる。石積みと煉瓦の接続部。煉瓦と鉄骨の接続部。鉄骨と魔導装置の接続部。
鉄骨の上に、魔導装置がボルトで固定されている。ボルトの数は、二十四本。しかし、何本かのボルトが、振動で緩んでいて、いつ崩れてもおかしくないほどに危険だ―――その集合の婚姻に対する明確な答えのように、奇幻をきわめながら、塔全体に強化の魔術が施され、接着剤のようにすべてを繋ぎ、
ピコのセンサーが、異常な魔力の流れを検知していた。
「警告。魔力濃度、通常ノ五十倍。魔力ノ流レ、地下カラ上空ヘ。速度、秒速十メートル。パターン、脈動的」
ピコの声は、緊張している。LEDライトが、赤く点滅している。警戒モード。
まるで、見えない川が地下を流れているようだ。その川は、街中の路地や家々から、細い支流を集めて、この塔の下へと注ぎ込んでいる。
ヴァンには、魔力が見えないが、空気の重さ、圧迫感、呼吸の乱れ、肌が、ちりちりと痺れる刺激として看取する。高濃度の魔力環境の影響もあるだろう、ヴァンは、魔導兵器のテスト場のことを懐かしく思い出す。魔力濃度が高すぎると人体に影響し、短期的には、頭痛、吐き気、眩暈。長期的には、魔力汚染による細胞の変異。癌などが知られている。自分の瞳の銀色の微粒子、骨の金属結晶という痕跡として残っているが、これ以上の蓄積は、危険かも知れない。
だが乗り掛かった舟、今は気にしていられない。
「ピコ、魔力の流れを可視化してくれ」
「リョウカイ」
ピコのレンズから、特殊な光が放射される。紫外線に近い周波数。人間の目には見えない。しかし、魔力に反応し、空中に、
その線は、逃亡者の宿命のような継ぎ接ぎの街の家々から出ており、古い家からは、安定した太い線。新しい家からは、不安定な細い線が出ている。その線は、路地を通り、広場を横切り、塔の基礎部分に吸い込まれていく。現実界、想像界、象徴界の結び目のような瞬間瞬間を、
「この塔は、街全体の魔力を集めている・・・・・・」
ヴァンは、呟く。
「肯定。推定、塔ハ魔力ノ
「何に?」
「不明。塔ノ内部ヲ徹底的ニ調査スル必要アリ」
時計塔の鉄製の扉は、錆びている。赤茶色、橙、茶といった、生きた
ヴァンは、両手で冷たくざらざらとした取っ手を掴み、力を入れて引く。氷河の
ギィィィィ・・・・・・。
扉が、ゆっくりと動き始め、金属と金属が擦れ合う、甲高い、耳障りな、女性の悲鳴のような
扉の表面には、古い王国の紋章と、その上から塗りつぶされた新しい政権の印が重なっている。最初の紋章は、三つの尖塔の王冠、両刃の剣、円形の盾を組み合わせたデザイン。その上に、別の印が焼き付けられている。新しい印は、歯車と稲妻。産業革命期のシンボル。機械と電力。
この街が、何度も支配者を変えてきたことを物語り、それぞれの支配者が、前の支配者の痕跡を消そうとした。厖大な、虚無のどす黒い膿みのように思えたのだろうか。紋章の
古代魔法帝国『アーカディア』の月と星。三千年以上前に存在したとされる。魔術が、科学であり、魔術師が、王だった時代。
産業革命期の『蒸気共和国』の歯車と稲妻。蒸気共和国は、約二百年前に成立した。産業革命の波が、この街にも届いた。蒸気機関、工場、機械化。しかし、共和国は短命だった。五十年で崩壊。理由は、魔術師との対立。機械派と魔術派の内戦。それから魔導戦争期の『統制連合』の剣と魔法陣。統制連合は、約百年前に成立した。第一次魔導大戦の後。世界は、混乱していた。各国が、魔導兵器を開発した。核兵器に匹敵する破壊力。統制連合は、魔導兵器を管理するための組織。国際的。しかし、実際には、大国の支配体制だった。
現在、もしあれば、何かの政権の印があるのだろうか―――しかし、これは空白だった。誰もこの街を統治していない。あるいは、継ぎ接ぎの街そのものが統治者なのだろうか。ヴァンは階段を降りる。一段、また一段と。
時計回りに下る、螺旋状で、一人がやっと通れる幅だ。階段の石は、磨り減っており、中央部分が、数センチ、窪んでいる。これは、何千、何万という人々が、この階段を上り下りした証拠だろう。鎧と武器を合わせて、百キロ以上の兵士、軽い靴の学者の足跡。それから、泥だらけの靴の労働者の足跡。
階段が、ヴァンの体重を考えてから受け止めているようだ。
時間の層序学。考古学者なら、足跡を分析して、時代を特定できるかも知れない。しかし、ヴァンには無理だ。壁には、古い時計の歯車や振り子が、壊れたまま放置され、壁に、埋め込まれている。いや、展示されていると言うべきか。壁に蒼白い光が見える。一秒間に一回、心臓の鼓動のように街から集められてきたものだ。幻想的な絵模様の翩翻、昆虫の鱗のように不気味なトンネル効果のせいで自分は、機械仕掛けの時間と、魔術的な時間が、ここで無理矢理接続され、時間が歪み、この街の異常な時間が誕生したのだという気がした。
そして、壁には『警告』が書かれている。
様々な時代の言葉で。
古代語で『ここより下、時間の根源へ』
文字は、彫られている。深さ一センチ。
彫った道具は、
中世語で『記憶を弄ぶ者、記憶に弄ばれよ』
二番目の警告は、階段の中程。高さ一メートルの位置。文字は、書かれている。ペンで。インクは、黒。しかし、褪色している。茶色に近い。
近代語で『危険! 時空歪み発生中』
三番目の警告は、階段の下の方。高さ五十センチの位置。
文字は、ペンキで書かれている。赤いペンキ。
目立つ。注意を引くための色。
現代語で『・・・・・・助けて』
四番目の警告は、階段の一番下。
地下室の入口付近。床から十センチの位置。
文字は、引っ掻かれている。爪で? 鋭い物で?
文字の線が、不規則。震えている。急いで書かれた。
あるいは、恐怖の中で書かれた。
最後の文字は、まだ乾いていないように見えた。ヴァンは、指で触ってみる。乾いているが、それでも新しい。文字の周囲の壁は、清潔で、埃が積もっていない。つまり、この文字は、最近書かれた。一週間以内? 一ヶ月以内?
誰かが、つい最近、ここに書いたのか。誰が? 何故?
まだ、この地下にいるのか? それとも、既に・・・・・・?
ヴァンは、腰のポーチに手をやる。銃を確認する。まだ、分解されている。しかし、組み立てる準備はできている。
「ピコ、周囲をスキャンしてくれ。人間の反応はあるか?」
「スキャン中・・・・・・」
ピコのレンズが、回転する。全方向をスキャンする。
赤外線、熱感知、音波探知。
「人間ノ反応、無シ。生体反応、無シ。動クモノ、無シ」
「了解」
しかし、ヴァンは油断しない。ピコのセンサーは、完璧ではない。魔力によって、感知を妨害される可能性がある。腹の大きい牛の分娩現場を想像しながら、行方を見透かす、
*
地下室。
そこには―――。
子供の頃、夜中に目が覚めて、家の中が少しだけ違って見えた、あの感じ。家具の位置は同じなのに、世界が、こちらを見ていない感覚。
階段の先が、急に開ける。
階段を降りきると、広い空間が広がっている。天井の高さは、十メートル。幅は、五十メートル。奥行きは、八十メートルぐらいだろうか、床は、石畳、中央に向かって、緩やかに傾斜し、まるで、摺鉢の底のようだ。
壁は、古い石積み。基礎部分と同じ。花崗岩。しかし、壁の表面には、無数の配管が這っている。銅製の配管。直径五センチから三十センチ。配管の中を、継ぎ接ぎの街から集められてきた魔力が流れ、壁から天井へ、天井から床へ、複雑に絡み合っている。心の鎖を解き放ち、イメージの連鎖をも引きちぎった、霊脈。溺死人の腕、毛細血管、黒い網、針金細工、死神の指、血管や神経のように思える魔力を運搬する配管によって、さながら胎内とでもいうべき塔の最下層にあるこの地下室全体が、一つの生命体の内部のように見える。照明は、魔力灯。天井に、五十個ほど取り付けられ、半分ほどが、消え、残りの半分も、明滅していて不安定だ。空気は冷たく湿っており、蒼白い雨のような気配のする黴の臭いと、饐えた金属の臭いと、何か甘い、腐敗臭に似ている魔力の臭いがする。
「―――何だ、これは」
ヴァンは、呟く。声が、地下室に響く。エコーがかかる。声が、何度も反射する。
ピコが、前方を照らす。光が、地下室の中央部を照らす。抑揚に満ちた呟きを確信に変えるには消えてしまう弱い拍動、儚すぎる体温の奥にある細胞にまで潜り込まなければいけない―――そこに、それは、あった。
憐れな役者のように取り乱した、ひらかれし
正確に言えば、見るという行為を、もう必要としていなかった。
歯車の材質は均一ではなく、一部は、青銅器時代の合金。一部は、産業革命期の鋳鉄。一部は、現代の魔導金属。チタン合金にエーテル結晶を混ぜたもの。継ぎ接ぎの街らしく歯車も継ぎ接ぎだ。だがそこには、継ぎ接ぎの街とは違う、
記憶が、所定の位置から一つずれた音がする。
ヴァンは圧倒される。情報量が多すぎる。脳が、処理できない。頭痛がする。こめかみが、ズキズキと痛む。
けれど、自分は完全に理解した。歯車は、人々の記憶を食べて回っている、と。
ピコがスキャンする。レンズが、細かく震え、内部の魔術回路が高速で回転する。ピコのレンズから、様々な色の光が放射される。スキャン用の光。可視光、赤外線、紫外線、X線、すべての周波数。光が、歯車に当たり、反射する。ピコは、反射光を分析する。材質、温度、魔力濃度、記憶の密度。すべてのデータを収集する。
「魔力源―――人間の記憶。推定、三万七千人分。コレ、街全体ノ住人ノ記憶ヲ動力ニシテル」
ピコの声は、震えている。機械の声が震える。それは、異常だ。ピコは、通常、感情を表現しない。しかし、今は違う。無自覚に影響を受けているのだろうか。
「三万七千人・・・・・・」
ヴァンは、繰り返す。その数字の意味を理解しようとする。三万七千人。この街の全人口。すべての住人の記憶が、この歯車に吸い取られている。
毎日。毎時間。毎秒・・・・・・。
*
スキャン結果が、ピコの内部ディスプレイに表示される。
【記憶歯車 分析結果】
・総記憶容量:約9,800テラバイト(魔導換算)
・影響人数:37,421人
・記憶吸収速度:1.2TB/日
・記憶の平均寿命:72時間(その後、断片化・消失)
つづけて、
・歯車回転数:0.7 rpm(通常時の100分の1)
・異常箇所:17ヶ所(魔導回路のショート、物理的歪み、記憶逆流)
それらが指し示すのは、歯車は、壊れているということ。完全ではない。十七箇所に異常がある。魔導回路のショート。電気回路の短絡に似た現象。魔力が、意図しないルートを通る。効率が落ちる。熱が発生する。
物理的歪み。歯車の形状が、歪んでいる。完全な円ではない。楕円に近い。回転が、スムーズではない。振動が発生する。
―――大災害レベルだ。
*
ヴァンは、暗澹とした気持ちを誤魔化そうと煙草に火を点けようとする。ライターの
「人々が道を覚えるたびに、その記憶を奪って、街の形を変えている。だから誰も道を覚えられない。完璧な檻だ」
ヴァンの声は、低い。しかし、はっきりしている。地下室に響く。
仕組みは、簡単だ。住民が、道を覚えるとその記憶がここに吸収され、記憶歯車は吸収した記憶を改正し、街の形を変え、その道を別に移動させ、あるいは消去する。そうすることによって住民は再び道に迷うという無限ループだ。脱出不可能な記憶という
歯車の周囲には、制御装置らしきコンソールが八つ、歯車を囲むように配置されている。それぞれの距離は、歯車から約五メートル。コンソールの外観は、少なくとも五十年以上前の設計で、錆びているものの銅製の配管が接続され、コンソールの上部には三十センチ四方の魔力ディスプレイがある。下部には、操作盤。ボタン、レバー、ダイヤルがあり、すべて、電気式ではなく機械式だ。ボタンを押すと、物理的なスイッチが動く。レバーを引くと、ワイヤーが引かれる。ダイヤルを回すと、歯車が回るようになっている。だが、ほとんどすべてのコンソールがハンマーで叩き壊された痕が見え、ディスプレイの硝子が、散文的な非芸術的なもののように粉々に割れ、作盤のボタンが、不可能という
コンソールの一つに、まだ光っている画面がある。八つの内、一つだけ。
*
【設計者日誌 最終エントリ】
日付:第三紀 1247年 霜月 23日
時刻:午後11時47分
気温:摂氏2度
天候:雨
「・・・・・・失敗した。共有ではなく、収奪になってしまった。街の人々を迷わせないために作ったこの装置が、かえって彼等を永遠の迷宮に閉じ込めてしまった。止めなければ。だが、止めれば街そのものが崩壊する。私の優しさが、最悪の残酷さへと変貌してしまった・・・・・・」
*
署名は―――『L. カルトグラファー』
レオの父親だ、と直感的に思った。
不意に、レオの声が、後ろから聞こえる。
「―――知っていた」
ヴァンは、振り返らない。振り返る必要がない。軍人の訓練で敵味方の識別を、足音や呼吸音や気配から、特定する。レオの浩然とした足音には、重い決意が込められている。地下への階段を一段降りるごとに、彼の中の何かが削れていくような音がする。足音の間隔は、不規則。時々、止まる。躊躇。そして、また歩き出す。
踵の部分が、特にすり減っているような気がする音だった。
「最初から知っていたんだ」
レオの声は、震えていない。平坦。感情を殺している。しかし、その平坦さの裏に、激しい感情が隠れていることを、ヴァンは感じ取る。
目は、前を見ているが、焦点が合っていない。顔色が悪いのは、真実を白日の下にさらされる恐怖か? 父親の不名誉のために戦ってきたストレスか? それとも、長期間の栄養不足か? 冥界へと続くような幽寂とした足音は、同時に墓場を歩く音のように重い。
彼の服装は、前に会った時よりもさらに乱れ、上着のボタンが、掛け違えられ、片方の靴紐が解け、髪の毛には、蜘蛛の巣と埃が付いている。どうやらレオは自分が時計塔に入った後を、ずっと
ヴァンは、気付いてはいた。途中で、後ろから足音が聞こえたが、レオだと分かっていたから何も言わなかった。ピコは本当に気付かなかったかも知れない。こういうところは、人間の方が優れているというのは皮肉なものだ。
「俺の父が、この機械を作った。『人々が道に迷わないように』って―――」
父親は、美しい未来を夢見た。すべての人が幸せな街、誰も迷わない街。しかし、その夜の闇に千の星が輝くような壮大な夢は、四角い監獄を生んだ。継ぎ接ぎの街という、美しい監獄を。彼の硫酸で身を焼くような苦悩の日々が、手に取るように想像できた。ヴァンには、見える。レオの過去三年間が。
幽愁の
「父は優しい人だった。街の人々が、複雑な道に迷って困っているのを見て、思いついたんだ。『記憶を共有すれば、誰も迷わない』って・・・・・・」
それらを制卸し圧服し得たのなら、どんなに世の為、人の為になっただろう。
レオの声に、わずかに温かみが戻る。父親を思い出しているのかも知れない。
しかし、記憶の中では優しい父親として生きているのだ。
ヴァンの脳裏に、かつての戦場で見た、優しさがよぎる。
第三次大戦の戦場に、ヴァンはいた。前線におり敵と味方が、数メートルの距離で撃ち合う。ある日、ヴァンの部隊が敵の拠点を制圧し、その建物の中に、負傷して、動けない、若い二十歳ぐらいの敵兵が残っていた。敵兵は、憐れな顛末のように泣き、撃たないでくれと懇願した。
ヴァンの同僚は、銃を下ろし、ポーカーフェイスを続けながら、行け、と言った。彼はまだ若く、人を殺すことに躊躇いを棄てられかった。敵兵は、蛇のように這って逃げた。それは、戦場での優しさ。ヴァンの同僚はまだ人間でいたかったのだ。表と裏のように非常に遠いものは、非常に近い。それは、主張と表現を欠く生の飛沫ではなかったろうか、と自分は思う。
しかし、一週間後、ヴァンの部隊は敵の反撃を受けた。散弾乱雨の激しいやりとりで、多くの味方が死んだ。ヴァンの同僚は額を撃ち抜かれて
世界の印象が勝手に結晶化する。
ヴァンは捕虜を尋問し、あの敵兵は、逃げた後に味方と合流し、復讐を誓って銃を取り、狙撃手になった。そして、ヴァンの同僚を殺した。もちろんヴァンはその敵兵をこの手で屠った。助けてくれ、ともう一度言ったが、眉一つ動かさずに殺した。
こんな話何処にでもあるが、その結果が、
そして、レオの父親も、優しすぎた。人々を助けたいと思った。しかし、その優しさが、人々を苦しめることになった。たとえ結果論だとしても、三万七千人は大災害レベルだ。全員が死ぬば数百年は語りつかれる歴史的な事故になり、その名も忘れ去られることはない。でもヴァンはレオの父親を、あるいは敵を見逃したヴァンの同僚を、責めたいという気持ちは毛頭なかった。
大きな夢を描くのも、銃の引き金を引くのも、所詮は、ただそれだけの衝動にすぎないという事実だ。無常の風の前で花は散ってゆく。
「父はね、地図職人でもあったんだ」
レオが、続ける。声は、少し柔らかくなる。
「俺が小さかった頃、父はよくこう言ってた。『地図は、人を導くためのものだ。迷わせるためにあるんじゃない』って」
父親の言葉、教え、哲学。よりよき薫陶を受けたのだろう、地図の目的は、導くこと、迷わせることではない。それは深奥の意味を含み、雨の晴れ間を待つ人々の慰安になる。レオはその言葉に父の矜持を見、生命の不朽を見たのかも知れない。
だが、いまレオがこの歯車の中を渦巻く光の粒を見つめる時に、それは矛盾になる。ふと引出式冷凍室を開けるように、レオの父親の記憶もその中にあるのだろうかと思う。おそらく、ある。レオは、父親の記憶を探しているのだろうか、その光の粒の中から。しかし、見つけられない、光が多すぎてどれが父親のものか分からない。
「父の地図は、完璧すぎた。あらゆる道を、あらゆる曲がり角を、すべて記録した。そして思った―――もし、地図を頭の中に直接入れることができたら、誰も迷わないんじゃないかって、頑強な一つの執心がプロジェクトに繋がった」
「失敗したんだな」
ヴァンが、言う。質問ではない。確認。
「ああ。機械は暴走した。記憶を『共有』するんじゃなく、『奪う』ようになった」
レオの声は、再び平坦になる。だが、機械の暴走はよくある話だ。複雑なシステムは、予測不能な動作をするものであるし、魔術と機械を組み合わせた場合にも該当する。起こり得るべくして起こったとは思わないが、これほどの機械に緊急停止システムや、いざという時の緊急措置の対応などがなかったことの方が俄かには信じがたい。それは、レオの父親が天才であり、完璧主義者であったことの破綻ではないかという気がした。レオの父親以外はおそらく扱えない案件だったのだろう、彼はおそらく魔術師であり、技術者であったのだろう。
誰かしか出来ない仕事というのが存在するが、それが、とりとめもなく逸脱した、生の誘導と幻惑によって自然な連携が断たれることなのだとしたら。
レオの目に、水滴のようなものが光った。しかし、泣かない。泣くことすら忘れたように、涙腺の使い方を、記憶ごと奪われてしまったこの街の人々のように、レオも、記憶を失っているのかも知れない。ずっと眼を開けないまま時間が過ぎたら、
何百年どころか、何千年も経っている。湧く音の、その染み入る気配のなかで、
詠嘆的に響く陰惨な味わいを。
感情の記憶を。泣き方を。笑い方を。すべて・・・・・・。
「最初は上手くいった。人々は、突然、知らない道を、知っているように感じ始めた。『この先にパン屋がある』『あの路地は行き止まりだ』―――みんな、そう言った、みんな嬉しそうだった、楽しそうだった」
初期段階。記憶歯車は、設計通りに機能した。
記憶を収集し、分析し、共有した。人々は、他人の記憶を受け取った。だが、レオの声が、震える。思い出を語ることが、彼自身を傷つけている。古い傷を、再び開いているような、いや、いまもまだ生乾きの治癒しきれていない傷口を。
「でも、一週間もすると、おかしくなった。予期せぬことまで想定していないものさ。人々の記憶が、混ざり始めたんだ。Aさんの子供の頃の記憶が、Bさんの頭に入り、CさんがDさんの仕事のスキルを覚えてしまう・・・・・・」
「―――記憶の汚染」
ヴァンが、低く言う。専門用語。軍で学んだ用語。
「戦場でも見た。魔導兵器の暴走で、兵士たちの記憶が混ざり合ったことがある。あれは・・・・・・地獄だった」
ヴァンの声には、わずかに感情が混じる。第三次大戦、魔導兵器のテストだった。新型の精神攻撃兵器で敵の記憶を操作する代物。だが、功を急いだ結果、それは人体実験と変わり映えのしないものだったが、魔導兵器開発に携わった人間を無能だったと言うつもりもない。上層部が判断した。実験しろと命令された。費用対効果、戦禍、やむにやまれぬ事情があったのだろうと推察する。自分だってその魔導兵器開発に携わっていた可能性だってある、だから分かる、地獄の誕生は種の必然だ、と。もう誰の責任なのかも分からない泥沼の中で、非難をされる筋合いなんかない。勝手におのおのが十字架を背負う、すべて戦争という号令。
兵器が暴走し、テスト要員だった兵士たちの記憶が、混ざり合った。ヴァンも、その現場にいた。修理担当とはいいつつも形式だけのもので、その後にちょっとしたパーティーが予定されていた。テストは同時に開発のお祝いという名目になり、そのバーベキューをみんな楽しみにしていた。酒も用意されていた。早く終わらないかな、もうやらなくてもいいんじゃないかなと軽口を叩く者もいた。
終始なごやかだったのに突然風向きが変わり、警報音が鳴り響いた。兵器を止めようとしたが、遅かった。兵士達は、自分が誰だか分からなくなった。他人の記憶が、自分の記憶だと思い込んだ挙げ句に狂った。心を扱う兵器が神の禁忌に触れるのかを思い知らされる気がした。神の
ある兵士は、自分が女性だと主張した。別の兵士の記憶が、混入したのだ。別の兵士は、母親の名を叫び続けた。しかし、それは自分の母親ではなく、他人の母親。テストは軍の歴史に残る大失敗で、マスコミに情報が流れ、徹底的にたたかれた。全員が、隔離され、治療が試みられたが、九割が回復しなかった。一部は、自殺した。一部は、生涯、施設で過ごすことになった。蜘蛛の巣のような気持ちが消えていかないから、バーベキューとかいう、ありったけの幸福な思い出を詰めこんだ壜の中で、蝋燭のように消えていった言葉の数々を思い出す。
「父は、機械を止めようとした。調整しようとした。父なら出来た。でも―――」
レオの声が、詰まる。咽喉が、言葉を拒否する。次の言葉を、言いたくない。しかし、言わなければならない。
「父は、機械を止めようとして―――死んだ。俺の目の前で。歯車に巻き込まれて・・・・・・」
最後の言葉は、ほとんど聞こえない、囁きだ。
レオの最悪の記憶、目の前で―――回転する歯車に、蛾のような身体が巻き込まれ、骨が砕け、肉が裂け、血が飛び散る凄絶な最期。レオは、見ていた、助けようとした。しかし、間に合わなかった。手を伸ばした。しかし、届かなかった。死が宇宙の外に持ち去られるかのような言葉の背後には、断末魔の叫喚と、本能的な恐怖と沈黙とが横たわっている。
その瞬間、歯車が一瞬、レオの記憶に反応したかのようにその
これは、父親か? レオの父親の記憶が、具現化しているのか?
「父だ・・・・・・」
レオが、呟く。手を伸ばす。歯車の結晶に触れようとする。しかし、届かない。距離が遠すぎる。三メートル。レオの目から、涙が流れる。感情が、堰を切ったように溢れ出る。
「父さん・・・・・・ごめん・・・・・・俺、何もできなかった・・・・・・」
レオは、いまでも自分を責めているのだろう。
ヴァンは、煙草を吸う。自分の傲慢さに一鞭あてるように煙草を吸う。完璧な地図なんて、ない。地図を捨てろ。覚悟しろ。―――しかし、レオの苦しみを、完全には理解していなかった。
父親を失った苦しみ、目の前で死を見た苦しみ、それはいまでもレオにとって承認する、肯定することのできない今日も死んでいる太陽なのだろう。ヴァンも、戦友を失った。だが、体験を数値化できないということだけではなく、やはり戦場での同僚の死と、尊敬している身内の死とでは自ずとその質が異なる。分量を明確に見極めたつもりでいたヴァンは、傲慢だった。自分の経験で、他人を測ろうとした。
刺激がツンと鼻の奥に突き刺さり、煙が目に入ってくる。目が、痛い。涙が出そうになる。しかし、堪える。肺が熱い。ニコチンとタールが、肺胞に付着する。煙が、古い傷の中まで染み込んでいくような感覚を伴って疼く。
「それで、お前は地図を描き続けていたんだな」
ヴァンの声は、優しい。
「父が作った街を俺が記録しなきゃいけない。完璧に。一つの間違いもなく」
レオの声は、決意に満ちている。しかし、同時に、絶望にも満ちている。不可能な目標。完璧な地図。毎日変わる街の、完璧な記録。
しかし、レオは諦めない。諦められない。それが、父親への償いだから。
「贖罪のつもりか」
ヴァンは、核心を突く。レオの動機。罪の意識。
レオは、笑う。乾いた、砂を噛むような笑い。咽喉が、笑い方を忘れているのに、無理やり笑おうとしている音だ。
「贖罪? 違う。これは―――呪いだ」
呪い。レオにとって、地図製作は呪い。止められない。止めたら、父親を裏切ることになる。父の遺した機械。街の歪んだ記憶。それらすべてを、紙の上に写し取ろうとする行為そのものが、彼を縛る鎖になっている。ヴァンはそれが眠りのようなものであり、人類が生きるための智慧である気がした。命をかけてゆく想い、身を粉にして働くのも、敗北の美学なのだろうかと一瞬、想像した。
彼は、ポケットから、一冊のノートを取り出す。聖遺物を扱うかのように慎重だ。革表紙は、擦り切れている。元は茶色だったが、今は黒に近い。表面はひび割れ、角は丸くなり、ページの端は黒ずんでいる。指の脂。汗。インク。すべてが染み込み、その変化は、奇妙な昆虫の軌跡を追っている。
「これは父の設計ノート。機械を作った時の・・・・・・」
レオの声は、震えている。
それは父親の遺品というだけではなく、レオにとって最も大切な物ではないかという気がした。ノートを開き、ページを捲ると、定規で引かれた、正確な線による、緻密な設計図が描かれている。ヴァンは一瞬、その人間と酒を酌み交わしているような気分になった。虎は死して皮を残すというところだろうか、記憶歯車の図面、全体図、部分図、断面図。寸法、材質、組み立て順序。すべてが記載され、その几帳面、読みやすさ、その表情が垣間見えるような気がする。
レオが尊敬するのが分かる気がする、父親のそのノートは出版すべきものだ。そこには、感傷的な追懐などではない、反省や後悔や哲学に彩られた
浅墓な思い違いをしていた、夢を追う人の姿はいつの世の人にも美しい。
『ここが間違いだった』
赤いインク。矢印。設計図の一部を指している。魔力回路の配置。
『逆だ、逆にしなければ』
黒いインク。二重線。元の線を消して、新しい線を引いている。
『神よ、何をしてしまったのか』
青いインク。大きな文字。ページの余白に、設計者の
父親は、機械の暴走に気付いた。設計の間違いを発見した。しかし、遅かった。機械は既に稼働していた。止められなかった。最後のページには、走り書きのように書かれている。インクが滲んでいる。紙が、湿っていたのか。涙か? 汗か?
「止める方法は一つ―――心臓部の結晶を破壊すること。だが、それでは街が崩壊する。もう一つの方法―――記憶の流れを逆転させること。奪うのでなく、還す。だが、そのためには・・・・・・」
その先は、インクが滲んで読めない。文字が、ぼやけている。判別不可能。父親は、何を書こうとしたのか、そのためにはの後に、何が続くのか?
条件か、方法か、材料か?
「俺はこのノートを、父の死後に見つけた。最後のページの意味が、ずっと分からなかった。でも―――」
レオは、言葉を切る。ヴァンを見る。
まだ迷っているのだろう。どうしたものかと決めかねているのだろう。レオの目は、揺れている。決断を求められている。しかし、決断できない。恐怖。不安。
ヴァンを信じていいのか? この旅人を? 見ず知らずの?
しかし、他に選択肢はない。レオは、三年間、一人で悩んできた。誰にも相談できなかった。今、初めて、協力者が現れた。鼠に悲鳴をあげるくせに、狼にも笑いかけたりする人間の心の傾きがレオの心の中に去来する。
「なら、壊せばいい」
ヴァンは、歯車を見る。その目は、かつて数え切れないほどの命を奪った目だ。ヴァンは、破壊の専門家だ。建物、橋、戦車、要塞などすべてを破壊してきた。
「壊せない」
レオは、無遠慮な視線に敏感なほど頬を蒼褪めさせ、首を横に振る。拒否。強い拒否。レオは、ヴァンの視線から目を逸らす。
「この機械を壊したら、街全体が崩壊する。建物も、道も、すべてこの機械の魔力で繋がっているから」
レオの説明。これは、父親のノートに書かれていた。あるいは、父親から直接聞いたのか。というか、ヴァンも知っていた。記憶歯車は、街の接着剤。魔力で、すべてを繋ぎ止めている。歯車を破壊すれば、接着剤が消える。街が、バラバラになり、最悪は三万七千人の死亡を招くことになる。
「なら―――」
そしてどこか遠いはるかな所で鈴が鳴っているように思えた。
ヴァンは、次の選択肢を考える。壊せないなら、どうするか?
しかし、レオが遮る。
「だから俺は、完璧な地図を作る。街が変わる前に、すべてを記録する。そうすれば―――せめて、記録だけは残る・・・・・・」
レオの結論。これが、レオの三年間の答え。
ヴァンは、煙草を足元に落とし、靴で踏み潰す。動作は、決然としている。決意の表れ。額に落ちた細い前髪が、小さな動作にあわせて柔らかく揺れる。前髪は、汗で湿っている。地下室は冷たいが、ヴァンは緊張している。
「馬鹿言うな」
ヴァンの声は、厳しい。しかし、怒っていない。呆れている。
「壊せないなら、方法は一つしかない」
レオが、目を見開く。
「いい加減認めろ。最後のページに何が書かれていたとか、完璧な地図を作るとかいう世迷言を止めろ」
ヴァンは、レオの悲しい人間の習わしのような現実逃避を指摘する。というよりも、ヴァンは最初からその言葉を用いようと思いながら、あえて紆余曲折した、レオにその言葉を口にしてもらいたかったからだが、レオは地図製作に没頭することで、本当の問題から目を逸らしている自分をこの期に及んで認めない。
そんなことじゃ、いつまでだって大人になれない。
いや、若い頃というのは未熟な精神的擬態を取ることがあり、犠牲的精神に満ちたその決断も、後から考えれば汗顔のほかない厚顔無恥なことをしでかす類ではないかと思う。だが、消えいそぐにぎやかなシャボン玉の泡のような諦めがすぎる。
部屋の灯かりを一つ一つ消してゆくような気持ち、階段の踏板が一つ一つ消えてゆくようなそんな気持ちを持て余したままで。
「―――直すんだ」
直す。修理する。壊れたものを、元に戻す。これが、ヴァンの専門。
「直す? こんな化け物を?」
レオの声は、信じられないという調子。
「化け物じゃない」
ヴァンは、歯車に近づく。一歩、二歩、三歩。距離が縮まる。三メートル、二メートル、一メートル。触れる。歯車の表面に、手のひらを当てる。冷たい金属。しかし、宝石が様々な光彩を放って煌めくように、微かに脈打っている。温度は、摂氏十度程度。しかし、内部は温かい。魔力が流れ、熱を生んでいるその脈動は、虚無的な陶酔をほんのり与えるところの心臓の鼓動に似ている。一秒間に一回。規則的。しかし、わずかに不規則になり、時々、間隔が長くなったり短くなったりする。不整脈。歯車は、数奇な運命に翻弄されて病んでいるのだ。
まるで巨大な心臓に触れているような感触が、自分に深夜の列車の水晶のようにすきとおった窓灯りを想起させる。軍人時代、夜行列車で移動することがあった。窓から外を見れば、いまにも滅びてしまいそうな戦時中の狂楽のように、暗闇の中、遠くに灯りがぽつらぽつらと見えた。その灯りは、力と温かみを宿している平和への祈りの夢。人々が、そこに住んでいるということの単純な証明であるというだけではなく、それが没落や廃墟を伴いながらも、逆説的に生命の莫大な浪費、無知の特権をしらせる。歯車の脈動も、同じだ。生命の証。この機械は、生きている。あるいは、生命を宿している。三万七千人分の記憶という生命を。
「これは、お前の父親の『優しさ』が壊れたものだ。なら―――もう一度、このじゃじゃ馬を、人間の森のために優しくチューニングしてやればいい」
ヴァンの言葉は、詩的だ。
その優しさを、正しい形に戻す。調律する。優しさを、正しい形に戻す。それは、壊すよりも難しい。壊すのは一瞬だが、直すには時間がかかる。そして、時間は、この街で最も信用ならないものだ。時間が流動する街で、時間のかかる作業をする。矛盾。しかし、やるしかない。
「でも、どうやって?」
レオの声は、希望と不安が混じっている。
「ノートの最後のページだ。『記憶の流れを逆転させる』―――」
ヴァンが、ノートの滲んだ部分を指さす。指先で、紙に触れる。インクの滲み。感触は、わずかに湿っている。いや、実際には乾いている。しかし、インクが紙の繊維に深く染み込んでいるため、表面が波打っている。その凹凸が、湿っているような感触を生む。
「ここに答えがある。読めないが、推測は出来る・・・・・・」
前後の文脈から、推測できる。論理的思考。
記憶の流れを逆転させる、これは、方法の一部。では、その方法を実現するために、何が必要か?
と、そこへ―――ピコが近づく。ピコは、ヴァンの肩から飛び立ち、ノートの上に来る。ホバリング。高度は、ノートから三十センチ。レンズが、ページをスキャンする。高解像度スキャン。一インチあたり、二千四百ドット。
「インク成分分析。鉄ガロインク。経年変化、約十年。下地ノ文字、透カシテ見エル。拡大・補正開始」
ピコの作業は高度だ。下地の文字に木乃伊か、白蝋化したものを目覚めさせようとする。紙の下に、思いがけないロマンティックな惑わしがある。消された文字。あるいは、インクが滲んで、紙の繊維の奥に染み込んだ文字が。
ピコは、それを透かして見る。X線スキャン。紙の表面だけでなく、内部も見る。
画像を拡大し、ノイズを除去し、文字を読みやすくする。デジタル処理。ピコのレンズが光る。投影された光が、ページに当たる。光の色は、青白い。紫外線に近い。下に隠れた文字が、浮かび上がる。魔法のような光景だ。ゆっくりと、文字が現れる。最初は、薄い。しかし、徐々に、濃くなる。
レオは、息を呑み、ヴァンも、目を凝らす。
最後の最後に書かれた生き急いでいるような文字。いまとなっては、死の予感のようなものがその張り詰めたものの中に垣間見える。
「『......そのためには、記憶の『種』が必要。純粋な、汚染されていない記憶。それを心臓部に植え付け、増殖させる。奪う代わりに、与える。与えることで、循環を作り出す』」
ピコが、読み上げる。合成音声。しかし、はっきりしている。
地下室に、静寂が広がり、歯車の回転音だけが赤ん坊の泣き声のように聞こえる。レオは、文字を見つめる。父親の遺言であり、最後のメッセージを。
「記憶の『種』?」
レオが、眉を
「そんなもの、何処にあるんだ?」
暗い森を見てその中にいる化け物を退治しようと思う子供のような、純粋な記憶、鳥の羽搏き。汚染されていない記憶、よい花の匂い。なるほど、そういう桃源は、純粋な童心のようなものは百歩譲ってレオにも分かる。だが、その
すべての住民の記憶は、既に有毒な添加物のように知らず知らず汚染され、記憶歯車に吸収され、攪拌され、壊れている。
だが、ヴァンは黙って、自分の胸の位置を指さす。右胸の、傷跡のあたりを。指先で、ジャケットの上から触れる。古傷は、天気予報であり、戦いの予報だ。
「自分には、戦場の記憶が詰まっている。殺した者の記憶。殺された者の記憶。仲間を失った記憶。自分が壊れた記憶。全部、汚れている。使えない」
そして、レオを見る。
目を合わせる。ヴァンの灰色の瞳が、レオの茶色の瞳を捉える。
「お前には、父親に対する純粋な記憶がある。愛情。尊敬。悲しみ。全部、汚れていない。少なくとも、この機械に比べればな」
レオは、息を呑む。理解する。ヴァンが何を言わんとしているのかを。
「俺の記憶を・・・・・・?」
声は、震える。恐怖。しかし、同時に、希望。
「嫌か?」
ヴァンは、選択を委ねる。強制しない。レオが決める。
「いや、そうじゃなくて―――ただ、父の記憶が歯車の中にあるんだ。俺が入れたら、混ざってしまうかも知れない。父の記憶が、俺の記憶で汚されるかも知れない」
レオの不安には形だけ残して殻が溶けてしまったようなところがある。父親の記憶は、神聖であり、触れてはいけない、汚してはいけない。
しかし、ヴァンは首を横に振る。
「混ざるんじゃない。浄化するんだ。お前の純粋な記憶が、汚れた記憶の海を、少しずつきれいな水で薄めていく。川が海を浄化するように」
ヴァンにとってレオのそれは本当に
長い沈黙。レオは、考えている。決断しようとしている。
歯車の回転音だけが、地下室に響く。
ゴォー・・・・・・。
ゴォー・・・・・・。
規則的な音。しかし、催眠的な効果でもあるのか、一瞬、意識が遠くなる。レオは、目を閉じる。深呼吸をして心を落ち着かせる。目を開けて、レオが、鮮明なる
「分かった。やるよ」
声は、小さい。しかし、決然としている。
「よしきた」
そして、ヴァンは、腰のポーチを開ける。中から、シグナーP226カスタムの部品を取り出す。分解されているが、手慣れた動作で組み立てる。五秒で完成。銃を、確認する。スライドを引く。弾倉を確認する。空。弾は入っていない。
しかし、これから必要になるかもしれない。
「さあ、始めよう」
ヴァンは、歯車を見上げる。レオも、同じように畏敬の念をもって見上げる。
巨大な歯車。街の心臓。これから、手術をする。
成功するか? 分からない。しかし、やるしかない。止まっていた時間のフィルムが回りはじめる。
*
「なあ、修理屋」
二日目の夜、レオが聞いた。時刻は、ヴァンの体内時計で午前一時過ぎ。しかし、地下室には窓がないので、所詮は秤の皿に載せるものにすぎない。地下室には、歯車の回転音と、ヴァンの工具の錆びたブランコを揺するような金属音だけが響き、囚われた枠の中の住人のような気分になってくる。
その隙間に、音楽の休符に別の楽器が入るようなレオの声が滑り込む。
「あんた、何でこんなことしてる? 金にもならない修理を」
レオの声は、疲れているものの、純粋な疑問のように響いた。ヴァンは、配線を繋ぎながら、手を止めずに答える。
「―――昔、壊しすぎたからな」
簡潔な答え。しかし、重い。
「壊した?」
レオは、意味を測りかねている。何を壊したのか? ヴァンは、手を止める。工具を置く。金属が、石の床に当たる音。何人たりとも察知できない心の傷の深淵からの呼び声に従うように、振り返って、レオと目を合わせる。
「自分は戦争孤児だった、軍人の家に拾われ、そこで人体実験を受けてみないかと言われた。つまらない話だが、聞くか?」
「―――聞かせてくれ」
「自分が所属していたのは第七魔導機甲師団。通称『死神部隊』だ。歴史というよりミリタリーに疎いお前に付け加えれば、第三次大戦で最も恐れられた部隊の一つだ。魔導兵器と機甲戦力を組み合わせた、機動打撃部隊。しかし、それはつまりその当時の自分にとっては誇りだった。自分は隊の中でもユニークだった、本当に色んなことをした、敵の後方への浸透、補給線の破壊、要人の暗殺もこなした。十年ほど、過 ごした。十代後半から二十代後半まで、多感な時期を殺戮の中で過ごした」
「・・・・・・ヴァンがそう言うならそうなんだろうな」
レオは戦争を知らない、ただ、そのイメージの明かりをぶちまけるように左右に展開する。だが、レオは時折垣間見せるヴァンの姿にその
「軍人を止めてからは、殺し屋だった。金をもらってた。『清掃屋』とも呼ばれた。依頼を受け、標的を殺し、衣食住をより豊かにさせる報酬を受け取る、シンプルな仕事だった。お天道様に顔向けできるような仕事ではなかったが、自分には向いていた。戦争とあわせて数百人以上は殺したかも知れない」
レオは、息を呑む。その音は、地下室の冷たい空気に、白い霧のように広がる。
ヴァンは淡々と感情を排除しながら続ける。
「最初の殺人は、十九歳の時で敵の斥候だった。相手は、自分と同じぐらいの年齢だった。殺す時、そいつの目を見た。夜の森の中だった、木の影に隠れていたが敵の斥候がいるのに気付いた。訓練された目で、無音で近付き、背後からナイフで首を切った。手は自ら思惟するところの観念の形をし、海豹が鰭を動かすような一撃だった。敵は、倒れた。しかし、すぐには死ななかった。咽喉を押さえて、苦しんでいた。血が、指の間からぼたぼたと溢れ出ていた」
「それで?」
「自分はそいつの表情を読み取った、恐怖じゃない、驚きでもない。ただ、『何で?』という疑問が浮かんでいた。戦場に出る以上、死の覚悟はしてきただろう。でも、そいつの顔には、何で自分を殺すんだ、何で自分なんだ、という壊れた感情が浮かんでいた。その目や表情が、たまに夢に出てくる。ただの任務、ただの戦争、ただの偶然―――けれどその顔の中に生涯があらわれてくる、滑稽なものだ、誰もが折り合いをつけるものだ。人間の顔というのは、じっと見ている内に似ても似つかぬ顔になる、顔を組み立てている線と線が離れ離れになったような、不釣り合いな、醜い形に見えて来る、自分の顔でも、他人の顔でも」
工具の音が、一時止まる。ヴァンは、作業を再開しようとしたが、またすぐに止める。思い出すことは内部の覗き穴であり、様々な揺らめく心象の具合を映して手を止めさせる。レオはかすかな悪寒のようなものを感じながら固唾をのんで聞いた。
「罪の意識もまた、記憶の汚染のようなものだ。軍を辞めた後も、殺す仕事を続けたのはそういう理由だ。声は聞いている内にすぐ消える。現在はすぐ過去になる、それが無常というものだ。そんなことは誰だって偉そうに言える、でも、綺麗に片づいたことなんて一度もなかった。いつも血と後悔だけが残った」
ヴァンはサイコパスではない。感情がある。共感能力がある。殺すことは、苦痛だった。精神的な苦痛。しかし、仕事だった。生きるため、金のため、他に何をしていいか分からない、そして残念なことにヴァンは健康で、正しかった。脳もまた晴朗だった。寄木細工のような世界五分前仮説、何度もその自分を生きた。そして、いつしか、それが習慣になった。後悔しながらも、殺し続けた。
「なら――」
レオが、言いかける。言葉を探している。しかし、見つからない。
「なら、その仕事を続けろってか」
ヴァンは、レオの言葉を先取りする。
「廃業だ。今は直してる。壊したものは戻らない。これから壊れるものだけを、直す―――五年前だ、最後の仕事を終えた後、引退を決意した。ある政治家の暗殺だった。老人で、七十歳。どういう肩書や立場とかは一切聞かなかった。だが、情報屋が言うには悪人ではなかった。政治は腐敗の温床とその情報屋が言っていたが、つまるところ、善人は邪魔な存在なんだ。あるいは、その非業の死でもって再評価させ、党を活気づけようとするような意味合いもあったのかも知れない。政治家宅というから厳重なガードを想像していたが、拍子抜けするほど簡単に老人の寝室に侵入した。眠っており、自分は銃声を嫌って、枕で顔を覆い窒息させた。老人は、抵抗しなかった。けれど、老人の死んだ表情、目を見開いている顔を見た時、自分の中で何かが壊れるのを感じた。いままで絶対的な形と価値の下で取り扱ってこられたものが、何一つそうではないように思えた」
レオは少し芝居がかりと見えるぎこちない様子で後頭部を搔いている。それはそうだろうと自分は思う、こいつ何を聞かせて来るんだ、その通りだ。
三万七千人の命を奪おうとしていないどころか、優しい世界を実現しようとしたレオの父親みたいだ。どうしてそうなってしまうんだ、その通りだ。
「何の罪でこんな因果を歩いているんだろうと思った、だが、驚くなかれ、これが自分の人生だ。目には、過去の戦場の残像が、まだ焼き付いている。目の奥に、火が見える。爆発の火、建物が燃える火、人が燃える火。目の奥から手繰り寄せるように、血が見える。地面に流れる血、壁に飛び散る血、服に染み込む血。まだまだ終わらない、夢の中でも、こうやって作業をしていても、目の奥に、顔が見える。殺した者達の顔。敵兵、標的、罪のない者、すべての顔が甦って来る。見ることは動物の本能であり、人間における魂の一部分なのだろうと思う、でも、堪えるのも変だ、欺くのは嫌だ、無感覚というのは願い下げだ、だから直す、もう同じ道には戻らない、そうやって生きてゆく、それが―――」
言葉を置いた。
音は少しも流れず、硝子の破片のようにとげとげしい時間
「それが―――自分なりの贖罪だ」
レオが呪いと呼んだものを、ヴァンは贖罪と呼ぶ。
二人の言葉は違うが、その根っこにある苦悩は、よく似ている。愚鈍と冷酷が並走している。血塗られた過去に対する負い目は、死を仰ぐ日まで自分に復讐するようなもの。自分に対する復讐。過去の自分を、罰し続ける。断固として、喜ばしい福音による更生とは違う。宗教的な赦し。神の赦し。それとは違う。ヴァンは、神を信じていない。赦しも求めていない。ただ、今の行動で、少しでも軽くしようとする足掻き。それは無駄かもしれない。だが、やらないよりはマシだと信じたい。
「俺もだ」
レオが、低く言う。ヴァンと同じトーン。同じ重さ。
「父の失敗を、俺が正さなきゃいけない。それも、一種の贖罪かも知れない」
レオの贖罪。父親の代わりに。父親の罪を、息子が背負う。
不合理。しかし、レオは背負うことを選んだ。誰も強制していない。レオ自身の選択。二人は、言葉を失い、再び作業に没頭する。沈黙。しかし、重苦しい沈黙ではない。共感の沈黙。互いを理解した沈黙。
地下室には、工具の音と、歯車の音だけが響く。
しかし、その音の中に、ある種の調和が生まれ始めていた。二つの音が、互いを邪魔しない。むしろ、補完し合う。工具の高音と、歯車の低音。リズムが、合ってくる。そして、二人の呼吸も、合ってくる。ヴァンとレオ。同じリズムで、息を吸い、吐く。無意識の同期。協力の証。
*
三日目の夜。
作業が佳境に入り、ヴァンは記憶の出力経路の最終調整をし、あと数時間で、完成というところまで漕ぎつけた。ヴァンは全神経を、作業に注いでいた。レオも、ヴァンの作業を、固唾を呑んで見守っている。ピコは、データを解析し、LEDライトが、黄色く点滅している。高負荷モード。ロジオンはミニカーへと魂の器を移す魔術を使い、魔術式を調整しながらエンジン音のような、唸り声をたまにあげている。そんな折りも折り、時計塔に、侵入者があった。最初に気付いたのは、ピコだった。音響センサーが、異常を検知した。
「警告。外部カラ、接近音。複数。人間。推定三名」
階段を降りて来る侵入者は、三人組の盗賊。
階段を一歩一歩、警戒しながら降りてくる。何故か、懐中電灯ではなく
何故、旧時代的な、およそ身動きのとれない、バネのように弾いた樹木の下枝を折るがごとき松明をチョイスしたのか。
いわずもがな剣を使う際、不利になり、煙が視界を遮る。火災のリスクもある。松明の方が威嚇効果があると考えたのか、ランプを買う金もないのか。
彼等の服もまた何処の国のものともつかない継ぎ接ぎ、他の二人も、同様であり、やはり犯行動機は貧困によるものか。腰には、安物の剣が腰のロープに結びつけられ、盗んだばかりの銀食器が音の鳴るスカートみたいに間抜けにぶら下がっている。
見たところ、剣は錆びて刃こぼれし、柄は木製だがひび割れている。
しかし、人を殺すのに蜂の刺すような鋭さは不要であり、重量と、刺す場所、それだけで、人は簡単に死ぬ。抽象的衝動が善と悪のけじめをなす一線だとはいえないものの、この単純さが、本能というのはひとたまりもないのだとその刹那に気付かせる。頭蓋骨を叩き割り、肋骨を折り、内臓を破裂させる、そこに特別な技巧はいらない。心臓、頸動脈、腹部大動脈、これなら鈍い剣でも致命傷になる。
暴力というのは、 何の意味もありはしないことを逆説的に教える。
最初に階段を降りて来たのはリーダー格とおぼしき大柄の男。身長は、約百八十五センチある。筋肉質だが、腹も出ているうえ、大きな鷲鼻は淫奔の
「おい、そこで何してる―――」
その男は馬鹿でかい声で威勢よく威嚇したわけだが、よもや血迷って、死刑囚と自ら名乗って死刑台に乗り込むようなもの。その瞬間、ヴァンが、ゆらりと柳のように身を揺らして振り返った。意図的な
静かに妖しく澄んだ瞳の奥から放射される、濃密な、肌を刺すような、存在そのものを否定するような―――戦場で何百人も殺してきた者の、本能に刻まれた暴力。
ヴァンの普段は感情を押し殺した灰色の眼光が、一瞬で氷のように冷たく、研ぎ澄まされる。灰色から、銀色へ。細く収縮した瞳孔は、針のようでもあり、さながら獲物を狙う捕食者の目だ。
ヴァンの肩の力が抜けているが、これは、リラックスではなく、戦闘前の脱力。無駄な力を抜くこと、動作を最適化する。腰を落とし、重心を下げる無意識の戦闘態勢。右手が、腰のポーチに滑り込む動作は流れるように滑らかだ。銃を抜く動作。だが、もちろん、そこに銃という飛び道具はあっても弾は入っていないのだが、盗賊達は、咄嗟にそうであるかのように本能的に理解する。形勢はもう逆転し、黙示録でも見たような具合になっている。
ヴァンは見当をつけていた。盗賊、いやコソ泥まがいの奴等の観察をした。ろくに研がれていない刃、鞘にも入れていない。手入れされていない装備、粗末な服。いきなり斬りかかってくるでもない、裏返しにされた現実。
本職の殺し屋だった立場として自分は思う。剣なら殊更に不意打ちが望ましい。ありえないほど腕が立つなら別だが、その可能性も低い、そもそもあの威嚇は、自分は弱いのだと宣言するもの。沈黙は金、雄弁は銀だ。それに本職の兵士なら、もっと慎重に接近するか、複数方向から包囲してくるものだ―――以上から容易に推察できる。出来立てほやほやの、経験に乏しい、素人だと。
戦闘経験はおそらく皆無。武器の扱いは素人レベル。戦術知識なし。脅威度は極めて低い―――戦場に出てくる若い兵士よりも弱く、酒場の腕自慢にもやられてしまう程度のものだ。酔っ払っているのだろう、一攫千金を夢見て、何処にそれが夢でない真実があるのかと、暴力の快味に酔ってヴァンの肝をいらする。
快楽ほど人を裏切るものはない、何故ならそれは脳内報酬の空想の産物。
正面から、堂々と、馬鹿正直に歩いてくるのも減点だが、足音が聞こえる時点で脅威を感じないし、その足音の響かせ方ひとつでどれほどの手練れかも正直言えば分かる。だから、ヴァンは判断した。脅せば逃げる。殺す必要はない、と。
ヴァンの想像通り盗賊達の顔が、一気に蒼白になった。彼等が見ているものは、たんなる一人の顔立ちの整った男(*女)ではない。無数の死の記憶だ。ヴァンの背後に、かすかに影が
これは、幻覚か? それとも、現実か?
ヴァンの殺気が空気の密度を引き上げ、空気を
「・・・・・・帰れ」
ヴァンの声は、低い。墓の底から響くような一言。しかし、その一言に、すべてが凝縮されている。戦場の夜。月のない夜。闇の中の戦闘。血の臭い。鉄の臭い。内臓の臭い。腐敗の臭い。仲間の断末魔―――だが、小さな声だ。
それにもかかわらず、盗賊達には、雷鳴のように聞こえる。ヴァンの声には特殊な倍音が含まれている。通常の声にはない、低周波成分。骨が振動し、内臓が共鳴し、恐怖を増幅する。盗賊達は尻を捲って一目散に逃げた。
リーダーが、最初に逃げた。剣を落とし、重量約一キログラムの金属製の物体が、石の床に落下する。階段を駆け上がり、他の二人も、追いていかないでと続く。我先にと押し合う。仲間意識もない、原始的な利己主義。
階段を駆け上がる音が、徐々に遠ざかり、そして―――静寂。
レオが、震えている。細かく、持続的に。歯が、カチカチと鳴っている。顔は、青白い。冷や汗が、額に浮かび、目は、大きく見開かれている。理由を聞かれても、上手く説明できないまま沈黙している。それは言語の枠を越えて、鼓動の最も原初的なリズムと同期している。
レオは、言葉を失っている。電光石火の早業というほかない、何が起きたのか、理解できない。ヴァンが、何をしたのか。いや、ヴァンは、何もしていない。ただ、見ただけ。声をかけただけ。しかし、盗賊達は逃げた。何故? レオには、分からない。彼は、今の一瞬で、ヴァンの中にある別の顔を見てしまった。
修理屋の顔ではない。殺し屋の顔。兵士の顔。死神の顔。
「あんた・・・・・・何者なんだ・・・・・・、軍人とか殺し屋といっていたが―――そんな・・・・・・」
レオの声は、掠れている。咽喉が、乾いている。恐怖で。レオは、ヴァンの背中を見つめる。普段は緩んでいるように見える肩のラインが、今は鋼のように硬直している。筋肉が、緊張している。僧帽筋、三角筋、広背筋。すべてが、収縮している。
背筋が、伸びている。脊柱起立筋が、緊張している。姿勢が、完璧。わずかに重心が前にかかっている。爪先、逃げるか戦うかを瞬時に移行できる前傾姿勢のために。
「ただの修理屋だ」
ヴァンは、再び歯車に向かう。ゆっくりと。背中を、レオに向けたまま。
無防備。しかし、それは本当の無防備ではない。ヴァンは、レオの動きを感知している。聴覚で。気配で。もしレオが攻撃すれば、ヴァンは反応できる。一秒以内に。
しかし、ヴァンは知っている。レオは、攻撃しない。攻撃する理由がない。攻撃する能力もない。だから、背中を向ける。信頼の表現。
しかし、ヴァンの手が、震えている。右胸の傷跡が、疼いている。あの殺気を放つたびに、過去の自分が、今の自分を内側から噛みちぎろうとする。
「今は壊れたものを直すだけだ」
ヴァンは、自分に言い聞かせる。
レオに言っているのではない。自分自身に。
震えは、すぐに収まる。長年の訓練で、感情を押し殺す方法を身につけている。深呼吸だ。心拍数が下がり、血圧が下がり、筋肉がひとりでに緩み、緊張が嘘のように解ける。声区を移った結果、顕著な換声点が現れる。
しかし、完全には戻らない。額に、うっすらと汗が浮かんでいる。冷や汗。ストレスの汗。手も、まだわずかに震えている。アドレナリンが、まだ血中に残っている。完全に代謝されるまで、数分かかる。
自他を圧服する力のみを求めた廃城の玉座。
そんな気配を察したのか、ピコが肩の上に止まる。ピコは、ヴァンの感情状態をモニターしている。常に。声のトーン、呼吸のリズム、筋肉の緊張。すべてから、感情を推測する。今、ピコは判断した。ヴァンが苦しんでいると。
だから、止まる。物理的な接触。慰めの表現。
ピコの重量は、二百グラム。軽い。しかし、その重みが、ヴァンに伝わる。それは、ここにいるよ、という重み。ロジオンが、体当たりした。いまはブリキのミニカーの状態なので時速五キロがいいところ、攻撃というよりはスキンシップに似たものが、ヴァンの足首に小さな衝撃として走る。
けれど、こういう場合、いつもロジオンが損をする。
「何で襲ってきた?」
ヴァンが、聞く。わざと、誤解する。話題を変えるために。
「じゃれてるんだ。子猫のような可愛らしさ」
ロジオンは、弁解する。テレパシーで。
「美化修飾はよせ。
ヴァンは、
「ミニカーにそんな攻撃力はない」
ロジオンは、自己卑下する。
「待て。そう、自己卑下するな。殺傷力があった、そのような小さな車体でありながら、ダイナマイトのような爆発力で一撃を神の
ヴァンは、大袈裟に言う。
「ヴァンの中ではそうなのだろう」
ロジオンは、呆れる。しかし、嬉しそうだ。自分はかすかに笑い、口の端が持ちあがる仲間の気遣いに、心が少し軽くなり、過去の自分が少し遠ざかる。
*
四日目の朝。
ヴァンの体内時計で、午前六時。待ちに待った、待ちかねた装置は、完成した。三日と半日。約八十四時間。五千四十分。その間、ヴァンは合計で六時間しか眠らなかった。一日平均、一時間半。食事も、最小限で済ませることを心掛けた。レオは色々買ってきてくれたのだが、軍隊時代からそうだが食べると眠くなることに関係し、断った。いまとなっては分からないが、遺伝的な影響か、単純明快な血糖値の変動、あるいは疲労の蓄積や慢性的な軍人時代の職業病による睡眠不足からなのか。とはいえ、食べるのが嫌いなのではない。ただ、欲望というのは
しかし身体は、疲労が蓄積し、限界に近い。胡坐を掻いたり膝をついたりの姿勢だったせいで、身体の節々に変な張りを感じる。目は、最悪に乾いている。頭は少しぼんやりしているが、コーヒーとチョコレートを食べれば大丈夫だろう。だが、装置に緊急プログラムを組み込み、レオも緊急措置のマニュアルを作成した。
そして、これから最終工程である、記憶の種の植え付けを開始する。
これが最も重要であり、最も危険だ。失敗すれば、すべてが無駄になる。最悪の場合は、歯車が暴走し、街が崩壊しかねない。一つの生け垣に野兎が作ったような小さな隙間があいているようなものだ、そこから、比喩ではなく現実に、不思議の国へ迷い込んで、青い鳥の作者にでもなったような気分になるだろう。
ヴァンが、消毒された、清潔な精神外科ツールを手に取る。針の先端の結晶は魔力の充填された証左として、微かに光っている。
「レオ、準備はいいか」
ヴァンの声は、静かだが、緊張している。
「ああ」
レオの声も、緊張している。しかし、決意がある。レオは地下室の隅にあった、背もたれのついた木製の椅子に座り、両手を膝の上に置く。
ヴァンは、レオの後ろに立ち、
「痛いぞ」
と、警告する。これ以上ないほど的確な警告。
「構わない」
レオの覚悟は十分に承知しているが、心の乱れがないかを作業上の必須項目として確認する必要があった。その際は、機会を改めるか、別の人間に白羽の矢を立てなければいけない。ヴァンは、鋭利な針を、レオの頭部に近づける。場所は、後頭部であり、左側だ。耳の後ろ、約五センチ下。そこは記憶を司る脳の領域に、最も近い場所。海馬へのアクセスポイントがある。針を皮膚に当てる。冷たい金属の感触に、レオの身体がわずかに強張る。
「いくぞ」
無音だったが、その
ピラミッドの開口式だ。帝王切開だ。
針の先端の結晶が、レオの記憶にアクセスを開始し、海馬という記憶の貯蔵庫から記憶が流れ込む。消えやすい喜び、汚れてゆきそうな悲しみというものは言葉にすれば嘘になる。ピコの情報解析によって、結晶の中に、父親との思い出。幼少期の記憶、父親に抱かれる記憶などが入ったことが分かる。少年期、父親の膝の上で地図を教わる記憶。青年期、父親と議論する記憶。街のこと、未来のこと、そして夢のこと。そして、父の死の記憶が最も鮮明で、届かぬ舌や手の恨めしさとして残る。最も痛いもののように心にしみて、それでも、その悲しみさえ時は澄ませてゆく。歯車に巻き込まれる父の断末魔の叫び、その少し前の最後の笑顔も、心配するな、という口の動きでさえも、いじらしいほどの親子の愛だ。平坦な地面でなく山や谷を作り、一つの季節でなく四季を作る。
レオは、父親を愛していた、いやおそらく今も、愛している。父を尊敬し、地図職人としても、技師としても天才だと思っていた。それゆえの野放図というほかない哀愁。言葉にすると陳腐なものだが、燃えかすの灰にもう一度火を点けられるほどの純度はそこに端を発する。癒えない傷。後悔。助けられなかった後悔。 ロールシャッハのシミみたいな味がする、その、すべてが、風を受けた水面のように泡立ってとりとめもない光の粒となって結晶に収まる。
他愛のない感傷性はいつまでたっても人を深みに徹底させないが、どうしてどうして、小さな虫や、わけのわからぬ雑草みたいなそれが、世界の果てから呼んでいる。
結晶が満杯になり、容量の限界となったことを報せる点滅が起こると、ヴァンはゆっくりと慎重に、脳を傷つけないようにしながら針を抜く。心という穴をさがして走り回った鼠のような、その針が出てくると、レオの後頭部に血が滲んでいる。ヴァンは、ガーゼで押さえて止血する。レオは椅子に座ったまま、放心状態で動かない。目は閉じたまま、呼吸の荒さが目立つ。針を刺されるだけでも皮を剥かれた蛙のように凍えてしまうが、その実、記憶を抜き取られることは魂を削られるようなものだと聞く。幸いなことに、レオは生きているし、意識もある。
「終わったぞ」
自分の声にレオは、ゆっくりと目を開けると、みみずくのように寄り眼にしている。世界が、ぼやけているのか、視界が定まらないようだが、数秒後、焦点が合った。
「・・・・・・ありがとう」
*
「次は、これを歯車に」
ヴァンは、針を見る。針の先端の結晶がレオの記憶の美しさで光っている。対するは、俗界の飢餓と、感情のごった煮。吐き出された熱気と、満たされることのない欲動の末路によって満腹を知らぬ胃袋のように、ただただ喰らい続ける歯車。
その中心にある透明な結晶―――心臓部に近づく。
幾重にも張り巡らされた、侵入者を拒む、魔術障壁を伴う直径五メートルの透明な球体、内部で、無数の光の粒が渦巻いている。目に見えないが、感じる。圧力。拒絶。普通なら、近付くことすらできない。手を伸ばすと、弾かれる。しかし、ヴァンは、特別な方法を知っている。
「ロジオン、
それは既存の結界に流れる魔力の偏りをゼロに戻す操作を指し、結界は通常、
防御、遮断、封印、感知などの目的で魔力を方向づけて張られている。その
―――これが中和だ。
「了解」
ロジオンの声。テレパシーで。
ロジオンは、ミニカーの中で、魔術式を唱える。魔術体系には様々な派閥があり、それは在りし日のアーカディア帝国の言葉かも知れないし、別の国で培われた魔術の言語かも知れない。言葉は、音ではなく、魔力の波動として発せられる。空気を震わせない。しかし、魔力場を震わせる。原理としては眼に見えない構成要素の中にその現象を組み込み、発現させる。魔術式は、二十行以上に及び、複雑だ。それぞれの行が、特定の機能を持ち、結界の構造を解析する行、結界の弱点を見つける行、結界を中和する行などがある。ロジオンはかなり優れた魔術師だと自分は思うが、しかし世の中には魔術式を用いず、頭で展開できる天才的な輩もいる。だが、ロジオン曰く、一人見た程度のものらしい。まず、イメージが中途半端だと暴発する恐れがある。詠唱も基本は同じだ。すべての行を、正確に唱え、一つの間違いも許されない。魔術式を唱えながら、ブリキ式のミニカーが光る。魔力が、放出されて結界が反応する。それは現像液のようなものなのかも知れない。揺らぎの中で抵抗しているように見受けられた。しかし、ロジオンの魔術は強い。結界が一時的に弱まり、直径約十センチの穴を開けてくれる。
だが、本来この魔術にそんな仕様はない、おそらくレオの父親の傑出ぶりがこんなところで現れているのだろう。皮肉なものだが、苦悩高き愛の表現に困難は尽きない。ヴァンはその隙に、
それは霧や、靄となり、辺り一面を神秘的な幽邃の世界へと変貌させる。地下室全体が、白い光に包まれてヴァンは、目を細める。光が眩しすぎて網膜が痛むような気がする。レオは目を閉じるだけではなく、手で、顔を覆う。慌ててヴァンもそうしながら、これが干渉することなのかと思い知る。ピコは、LEDライトを暗くし、ヴァンの背中に隠れる。センサーを保護するためだ。光の強度は、約十万ルーメン、太陽光の直射に匹敵する。光は、約五秒間続き、徐々に弱まり、視界が、戻ってくる。ヴァンは目を開けるが、残像が残っている。だが、徐々に消える。
レオの記憶が、歯車の中に流れ込み、心臓部の結晶の中で、レオの記憶の光が見え、レオの記憶が、人々の記憶と混ざり合いながら希釈剤として機能する。汚染ではなく、浄化だ。時間と事件とに結合したる糸と、因果という結果に進行してゆく。歯車が新しいリズムで回り始める。それまでの回転は、どこかぎこちなく歯車同士が噛み合うたびに、記憶が削られていた。しかし、今の回転は、滑らかだ。完璧な噛み合わせ。設計通りの動作、本来の、壮麗な
―――記憶が、街に還っていく。
歯車から、街へ、配管を通って、魔力の導管たる三十二本を通って記憶が流れる。歯車が修正され、記憶の流れが逆転することなく、人々から歯車へではなく、歯車から人々へ。ヴァンとレオは確信して微笑んだ、成功だ。
人々の頭の中に、突然、見知らぬ記憶が流れ込む。
市場で、老婆が買い物をし、トマトを選んでいると突然、老婆は立ち止まり、頭の中に、見たことのある道の映像が浮かぶ。しかし、歩いたことのない道だ。
「この道―――知ってるわ」
老婆が、呟く。自分でも驚いている。
「でも、来たことないのに・・・・・・」
何故知っているのか? 考える。思い出そうとする。そして、理解する。これは、他人の記憶だと。誰かが、この道を歩いた。その記憶が、自分に流れ込んだ。
共有された記憶、それはカーテンが風と遊び、夜が揺れ、やさしい、お伽噺が続くようにと
通りで、若い男性が歩いている。目的地は、友人の家。しかし、道が分からない。突然、男性は立ち止まる。頭の中に、情報が浮かぶ。店の場所。友人の家の近くにある店。パン屋。
「あれ、あの店の場所―――分かる・・・・・・」
男性は、驚く。なぜ分かるのか? しかし、疑問を持つ暇はない。身体が、自然に動く。方向転換する。ある方向に向かって。迷いなく。足が、勝手に進む。まるで、何度も歩いた道のように。数分後、男性はパン屋の前に到着する。そして、その隣が友人の家だと分かる。
「すごい・・・・・・本当に分かった」
共有された記憶。誰かが歩いた道を、みんなが知っている。誰かが見た景色を、みんなが覚えている。
「なんで泣いてるんだろう・・・・・・」
女性は、自分でも分からない。悲しいことは何もない。むしろ、今日はいい日だった。しかし、涙が止まらない。何故? 隣の老夫婦の感情が、流れ込んだから。
老夫婦は、手を繋いで歩いている。五十年以上、連れ添った夫婦。深い愛情。
その愛情が、女性に伝わった。一瞬だけ。しかし、強烈に。女性は、その愛情を感じた。自分のものではないと分かっている。しかし、本物だと分かる。
急な感情の変化についていけなくなり、心は皮膚の下で小さく縮こまる。
それでも感動した。美しいと思った。涙が出た。無数の蟻のコロニーから出てきた無尽蔵の、正体不明の図形のようなものが胸に描かれたように思う、集積度を増し、より小さく強靱になる、それがレオの父親の惑いであり愁いであり懼れを伴った、人類の辿り着くべき箱庭のあるべき姿。
ある少年が、急に笑い出す。
「楽しい気分!」
少年は、飛び跳ねる。理由もなく。ただ、楽しいから。何故? 通りすがりの大道芸人の感情が、流れ込んだから。大道芸人は、パフォーマンスをしている。ジャグリング。観客が、拍手している。大道芸人は、嬉しい。観客を喜ばせた。自分の技術が認められた。その喜びが、少年に伝わった。
地図はもう要らない。
レオはヴァンと一緒に、呆然と街を見ていた。時計塔の上から見下ろす街は、相変わらず継ぎ接ぎだ。建物の様式は、古代、中世、近代、現代、すべてが混在している。道も曲がりくねって、計画性がなく有機的に成長した結果。空も、六つに割れている。まだ。朝、昼、夕、夜、満月、新月。
しかし、人々の動きは、明らかに変わっている。
迷いのない足取りで、目的地に向かってゆき立ち止まらない。地図を見ないし、立ち止まって空を見上げる余裕もあり、蒸留水のようなこの景色を楽しむことも出来る。誰かに道を尋ねる声ではなく、「あそこに行こう」と誘い合う声。
四コマ漫画的団欒のなかで、サブカルチャーが溶け込んでいるようにも見える。
子供達が、路地で遊んでいる。鬼ごっこ。でも迷わない。路地の構造を、知っている。商人が、市場へと荷車を押しているが最短ルートを通っている。
空の六つの領域も、少しずつ変化している。境界線が、ぼやけ始めている。鋭い線ではなく、グラデーション。朝の領域と昼の領域の境界。以前は、はっきりと分かれていた。薄青と白の境界線。しかし、今は、境界が曖昧。薄青から白へ、徐々に変化する。中間に、水色の領域がある。
朝の青が、夕の赤に溶け込む。北の空と東の空の境界。青と赤が混ざり、紫になる。昼の白が、夜の闇に優しく移行する。南の空と西の空の境界。白から黒へ、グレーを経由して。まだ、完全には一つになっていない。六つの領域は、まだ存在する。
しかし、少なくとも、鋭い断絶ではなくなった。
以前は、境界を越えると、時間が急激に変わった。温度が変わった。光の質が変わった。しかし、今は、緩やかに変わる。自然に変わる。これは、歯車の修正の効果。記憶が統合されることで、時間も統合され始めている。
人々が、迷わずに歩いている―――笑顔で。
これが、最も重要な変化。以前は、人々の顔は暗かった。不安そうだった。常に、道に迷う恐怖。家を失う恐怖。しかし、今は、違う。道を知っている。家の場所を知っている。明日も、同じ場所にあると信じている。その安心が、笑顔を生む。
「俺の―――父の夢が・・・・・・」
ベルトコンベアに載せられたように忘れ去られた、
レオは、泣いている。今度は、本当に泣いている。涙が、頬を伝う。止まらない。次々と。顎から落ちて、足元の石畳に小さな円を作る。湿った円。
長年、閉じ込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出す。彼は、父親の死後、ずっと泣けなかった。記憶歯車が、彼の悲しみさえも奪おうとしていたから。感情が、麻痺していた。悲しみを感じる能力が、低下していた。
でも今、歯車が修正され、彼自身の感情が戻ってきた。記憶が、戻ってきた。感情が、戻ってきた。涙が、戻ってきた。
「汚い奴だな」
ロジオンが言う。テレパシーで。これは、照れ隠し。ロジオンも、感動している。しかし、素直に言えない。だから、揶揄う。
しかし照れ隠しが一番格好悪いことを、ロジオンは知らない。
あるいは、知っていて、場を和ませるためにチョイス。
「感動ノ場面。涙チョチョ切レル。ウワー感動シタ。涙ボタボタ止マラナイ」
ピコが言う。合成音声で。しかし、抑揚がある。感情を込めようとしている。ピコなりの、慰め。共感の表現。
「ありがとう、ピコ。全部台無しだ」
しかし、ヴァンは、ピコの言葉に微かに笑う。レオも後頭部を掻いている。でもピコは今回の一件で様々な感情に触れられたのかも知れない。感情表現は不器用だが、確実に成長している。以前なら、こんな場面でも淡々とデータを読み上げるだけだった。
「記憶共有、成功。街ノ住人、九十三パーセントガ記憶ヲ保持」
「・・・・・・叶ったんだ」
レオは、涙を拭う。しかし、また涙が出る。拭っても、拭っても、その涙は、呪いではない。贖罪でもない。ただ、夢が叶ったことへの、純粋な感情の溢れ出しだ。
父親の夢。人々が道に迷わない街。記憶を共有する街。それが、実現した。
だが、完璧ではない。まだ、問題は残っている。しかし、始まった。
「でも、完全じゃない」
ヴァンが言う。現実的な指摘。
「歯車はこれから百パーセントに限りなく近付くか、そうなるだろう。だが、今回の修正が、元に戻る可能性はある。その時は、緊急措置を取らなくてはいけない。もちろん、そうならないに越したことはないが、魔術師と技師を紹介しておく、いざという時は呼び寄せてくれ」
「ありがとう」
「それに、お前の記憶の『種』が、すべてを浄化するには時間がかかる。何年か、あるいは何十年か、三万七千人の救済は同時に、お前に直接かかる肩の荷でもある。二十代の青二才に、守れるものだろうか?」
一週間や一ヶ月ではない。何年も。何十年も。その間、歯車を維持する必要がある。定期的なメンテナンス。故障の修理。そして、何より、人々の協力。記憶を共有する意志。奪うのではなく、与える意志。
レオは、涙を拭きながら、頷く。張り詰めた糸のような、あとさきのない時間の滑りは、肉体のうちをかすめるむずむずしたような電気を感じる。
「分かっている。でも―――始まったんだ。父が望んでいたように、記憶を共有することが。奪うのでなく、分かち合うことが」
レオの声は、安定している。涙は止まった。決意の声。
「これからどうする?」
ヴァンが聞く。
「地図は、もう要らないんだろ?」
地図。レオの三年間の仕事。しかし、今は不要。人々は、地図なしで歩ける。レオの存在意義は? 目的は?
レオは、考え込む。長い間、地図を描くことが彼のすべてだった。朝起きて、地図を描く。夜眠る前まで、地図を描く。それを失うことは、自分自身を失うことのように感じる。アイデンティティの喪失。
しかし―――レオは答える。
「地図は描き続ける」
ヴァンは、驚く。意外な答えだ。
「でも、今までのような地図じゃない」
レオは、続ける。声に、力がある。
「これからの地図は―――可能性の地図だ。『ここに道がある』じゃなくて、『ここに道ができるかもしれない』―――そんな地図を描くんだ」
可能性の地図。
未来の地図。
現在の街を記録するのではなく、未来の街を想像する地図。道が、どこに広がるか。街が、どう成長するか。人々が、何を望むか。それらを、地図にする。
ヴァンは、満足そうに頷く。
「それでいい」
レオは、新しい目的を見つけた。
地図を描くことは、続ける。しかし、意味が変わった。
呪いから、希望へ。
過去の記録から、未来の設計へ。
*
翌朝。ヴァンの体内時計で、午前七時三十分。地下室での四日間の作業を終え、ヴァンは地上に戻った。レオの家で思う存分に食事を取り、シャワーを浴び、ぐっすりと眠り、そしてその夜はロジオンとピコのお手入れをした。匂いを感じる時に働く鼻の奥にある神経細胞は、人間で五〇〇万個、犬には二億個ある。
―――街の匂いを嗅ぐ。
時計塔の外の広場で、感慨深く空を見上げる。北の空は、朝焼け。しかし、純粋な朝焼けではない。夕焼けのオレンジが、わずかに混じっている。南の空は、昼。しかし、純粋な昼ではない。夜の群青が、わずかに混じっている。それでも、統合が、始まっている。時間が、一つになろうとしている。
ヴァンは、深呼吸する。空気が、違う。以前より、澄んでいる。魔力の乱れが、減少している。ロジオンは、広場に停車している。エンジンをかけたまま。アイドリング。排気音は、安定している。ピコは、ヴァンの肩に止まっている。
LEDライトは、緑色。平常モード。
ヴァン達が出発する時、レオが見送りに来た。レオは、広場の入口から現れた、その足取りは、羽根でも生えているように軽い。以前の重い足取りとは違う。服装は、まだ継ぎ接ぎ。しかし、整っている。ボタンは、正しく留められている。上着の襟も、きちんと立てられている。髪は、櫛で梳かれている。顔色も、良くなっている。以前は、青白かった。今は、血色がある。頬に、わずかに赤みがある。
レオは、ヴァンの前に立つ。距離は、二メートル。両手に、荷物を持っている。布製の袋。大きな袋。重そうだ。お礼のつもりだろうか。食料を差し出してくる。
「これ、受け取ってくれ」
レオの声は明るい。
ヴァンは、袋を受け取る。重い。約五キロ。袋を開けて中を見ると、ハム、チーズ、パン、それに珍しい果物や、地元で取れる蜂蜜の瓶まで入っている。大盤振る舞いだ。これだけの食料ともなれば、高価だ。銀貨で、少なくとも二十枚の価値がある、いや、場合によっては金貨二、三枚ぐらいか。代金なら受け取らないつもりだったが、食料に罪はないし、腹は減る。ヴァンは、四日間、ろくに食べていなかったせいで、体重が、約三キロ減った。身体が、栄養を求めている―――ような気がした。
「ありがとう」
ヴァンは、素直に礼を言う。
レオは、微笑む。照れたような微笑み。
ロジオンの後部座席に、荷物を放り投げておく。後部座席には、既に他の荷物がある。毛布、工具箱、医療キット、本。その隙間に、食料の袋を押し込む。
ヴァンは思った、ハムとチーズとパンがあった。ケチャップとマスタードを足せば、それでサンドウィッチになる。ヴァンは、料理が得意ではない。しかし、サンドウィッチは作れる。簡単だから。パンを切る。ハムを挟む。チーズを挟む。ケチャップを塗る。マスタードを塗る。完成。栄養バランスも、悪くない。炭水化物、タンパク質、脂質。三大栄養素が揃っている。
食欲の魔人だった。ヴァンは、自分のことをそう思う。
四日間、ろくに食べなかった反動だ。
そして、レオの手に、一枚の地図があるのに気付く。
いや――白紙だ。
地図のサイズ。幅約五十センチ、高さ約三十五センチ。標準的な地図のサイズ。しかし、何も描かれていない。白い紙。羊皮紙。上質な羊皮紙。いや、中央に、一言だけ書いてある。レオは、地図をヴァンに手渡す。ヴァンは、受け取る。紙の感触を確かめる。柔らかい。しかし、丈夫。厚みがある。約〇・三ミリ。
手渡されて、覗き見る。中央の文字。
『ここから始まる』
文字は、黒いインク。万年筆で書かれている。筆跡は、レオのもの。しかし、以前の乱れた筆跡とは違う。整然としている。迷いがない。一画一画が、確実に描かれている。線の太さも、均一。筆圧も、安定している。
紙は、上質なものだ。羊皮紙。しかし、通常の羊皮紙ではない。表面に、微かな光沢がある。魔力処理されている。耐久性が向上している。水にも強い。破れにくい。インクは、昨日までの地図に使っていたものと同じだが、その一行だけは、驚くほど迷いのない筆致で書かれている。文字の周りには、かすかに魔術的な輝きが宿っており、おそらくこの文字は地図の作成と共に消える。
この紙自体が、ある種の魔導具になっているようだ。ヴァンは、地図を持ち上げる。光に透かす。羊皮紙の内部に、精巧な魔術回路が見える。非常に細い線。髪の毛より細い。しかし、複雑なパターン。魔術回路は、三層構造。表面層、中間層、裏面層。それぞれが、異なる機能を持っている。
表面層は、記録。使用者の経験を、地図に記録する。
中間層は、共有。記録された情報を、他の人と共有する。
裏面層は、成長。記録と共有を繰り返すことで、地図が成長する。新しい道が、自動的に追加される。
しかし、何でだ。どういう気の回し方なんだ。ヴァンは、困惑している。この地図の価値は、非常に高い。魔導地図は、希少だ。市場では、金貨二十枚以上で取引される。それを、無償で贈る? 理解できない。
ロジオンもピコも、昨日はあんなことを言っていたくせに、今日は何も言わない。
今日こそ、茶化すその時だ。
(高価なものをもらって、嬉しそうだな、ヴァン。腹の虫がおさまらない、いやいや、腹の虫が嚠喨たるラッパの行進曲)
あるいは、レオに向けて、
(貢物というわけだな・・・・・・おじさん、はずかP)
ピコだってそれに続いて、
(ヴァン、単純―――食欲ノ魔人・・)
そして、レオに向けて、
(感動ノ場面―――全米ガ泣イタ、ソシテ、犬ガ鳴イタ!)
そう言うはず。
だが、食料をもらったので黙っているのか。食べ物で、口を塞がれた? 相手はお得意様か? しかし、ロジオンもピコも、黙っている。
ロジオンは、エンジン音だけ。言葉はない。
ピコは、LEDライトを緑色に保っている。平常。コメントなし。
何故か? ヴァンには分からない。
おそらく、二人(二機?)は、察している。この地図が、特別な意味を持つことを。単なる贈り物ではないことを。だから、茶化さない。敬意を払っている。
「これが―――俺の答えだ」
レオは、笑った。初めて見る、穏やかな笑顔。以前のレオの表情は、暗かった。絶望的だった。笑うことなどなかった。
しかし、今、レオは笑っている。本物の笑顔。心からの笑顔。口角が上がる。目尻に、皺が寄る。目が、細くなる。そして、輝いている。目の下の隈は、まだ消えていない。黒く、深い。三年間の睡眠不足の痕跡。簡単には消えない。しかし、その奥にあった焦燥は、少しだけ薄れている。完璧な地図を作らなければならないという強迫観念、父親の失敗を正さなければならないという責任感。それらが、軽減されている。完全には消えていない。しかし、軽い。
レオは、変わり始めている。外見だけでなく、内面も。
「地図は記録じゃない。可能性だ。完成した地図は―――死んだ地図だ・・・・・・」
レオの言葉は哲学的だ。
地図は、通常、記録と考えられている。既存の道、建物、地形を記録したもの。しかし、レオは違う視点を持っている。地図は、可能性。未来の可能性。完成した地図は、死んだ地図。何故なら、成長しない、変化しない。
生きた地図は、成長する。使用者の経験とともに、新しい情報が加わる。動的。
レオは、父親の失敗から学んだ。完璧を求めることの危険性を。完璧な地図を作ろうとして、父親は失敗した。記憶歯車を作り、暴走させた。
レオも、完璧な地図を作ろうとして、三年間苦しんだ。しかし、完成しなかった。
今、レオは理解している。地図は、完成させるものではない、育てるものだと。
ヴァンは、地図を眺めながら呟く。
「この地図、特別だな」
ヴァンの声。感心している。
「ああ。『成長する地図』だ。使うほどに、新しい道が現れる。ヴァンが旅をするたびに、その記憶が地図に刻まれる。そして、その記憶が、また誰かと共有される」
これは、考えようによってはレオの父親が夢見た記憶の共有の、正しい形なのかも知れない。奪うのではなく、与える。強制ではなく、自発的。
だが、この魔導地図、金貨二十枚以上と見積もったが、そうではないかも知れない。ヴァンも軍人時代、何度か見たことがある。作戦用の地図として、使用されていた。敵の位置、味方の位置、地形情報。すべてが、リアルタイムで更新される地図。そして、制限が多い。使用者は、軍人のみ。情報は、機密。殺し屋時代も、一度だけ使ったことがある。標的の位置を追跡するため。闇市場で購入した。金貨五十枚。
しかし、レオが作った地図は、それらとは違う。軍事的ではない。平和的。誰でも使える。情報は、共有される。そして、何より、生きている。ヴァンは、地図を見つめる。白い紙。しかし、その中に、無限の可能性を感じる。しかし、これほどまでに生きている地図は初めてだ。これは、魔術回路の動作。魔力が、回路を流れている。地図は、待っている。使用者の経験を。新しい情報を。
もしかしたら、金貨百枚と交換しても遜色ない値打ちがあるかも知れない。その閃きはすぐに消え去り、意味は永遠に失われた。思考はそれきり光に搏たれ、瞬間の波打ち際を
「またこの街に来るのか」
レオが、聞く。期待と不安が混じった声。
「いつか―――気が向けば・・・・・・」
ヴァンの答えは曖昧だが、否定ではない。ヴァンは、予定を立てない。というより、旅に、予定はない。風の向くまま、壊れたものがある場所へ。
しかし、いつかという可能性は残している。この街に、また来るかもしれない。数年後。十年後。あるいは、もっと後。
「元気でな」
レオの言葉。簡潔。しかし、感情がこもっている。
「おう」
ヴァンの返答。さらに簡潔。しかし、同じく感情がこもっている。
二人の男(*一人は女)の、最小限の言葉による、最大限の感情の交換。
そこには、まだ何も描かれていない。地図の白い紙。だからこそ、何でも描ける。制限がない。可能性は、無限。最初の線は、この街から伸びる一本の道だろう。ヴァンが、この街を出る。ロジオンで。道を走る。その道が、地図に記録されると、文字は予想通り消えた。でも、心にしみこんだ、一本の線として。次は、別の街へと続く道。ヴァンが、次の街に到着する。そこから、また別の道が伸びる。二本目の線。そしてまた別の道。三本目、四本目、五本目。線が交差し、網の目となり、世界を覆う。ヴァンの旅の軌跡が、地図を埋めていく。しかし、完成することはない。常に、新しい道が追加される。生きた地図。成長する地図。
「これ、大事にする」
ヴァンは、地図を慎重に折りたたむ。四つ折り。さらに、四つ折り。十六分の一のサイズになる。ポケットに入れる。
胸のポケット。ジャケットの内ポケット。心臓に近い場所。
ロジオンのエンジンが掛かる。既に掛かっていたが、回転数が上がる。出発の準備。今日は、いつもより調子がいい。エンジン音が、滑らか。振動が、少ない。歪んだ街の空気が、少しだけ澄んだように感じる。記憶歯車が修正されたため街全体の魔力場が、安定している。
ヴァンは、ロジオンの運転席に乗り込む。
いや、乗り込むは正確ではない。ヴァンは、運転しない。ロジオンが、自分で運転する。ハンドルを握り運転しようとしたら、絶対に拗ねる。ヴァンは、運転席で横になる。リクライニングシートを倒し、ほぼ水平にして寝転がる。身体を伸ばす。疲労が、溜まっている。四日間のほぼぶっ通しの作業。休息が必要だ。助手席の前にある、グローブボックスを開ける。中には、様々なものが入っている。古い地図、ライター、弾丸、メモ帳、ペン。ヴァンは、レオからもらった白紙の地図を、グローブボックスにぽいっと入れる。
他のものと一緒に。無造作に。しかし、丁寧に。傷つけないように。グローブボックスの中には、もう一枚の地図がある。古い地図。戦場の地図。地図のサイズは、白紙の地図と同じ。幅五十センチ、高さ三十五センチ。
しかし、状態は、全く違う。弾痕が貫通している。地図の右上。直径一センチの穴。銃弾が、地図を貫いた。その時、ヴァンは地図を胸ポケットに入れていた。弾は、地図を貫通したが、ヴァンの身体には届かなかった。地図が、命を救った。
血の染みがつき。茶色く変色している。
誰の血か? ヴァンの血か? 戦友の血か? 敵の血か?
もう、分からない。ところどころに、メモが書かれている。鉛筆で。走り書き。
『ここでJが死んだ』
J。ヴァンの戦友。名前は、ジョナサン。年齢は、二十三歳。狙撃手。ある日、Jは狙撃された。敵の狙撃手に。額を撃ち抜かれた。即死。
その場所が、地図に記されている。小さな×印。その横に、メモ。
『この曲がり角で待ち伏せ』
ある作戦。敵を待ち伏せした場所。曲がり角。建物の陰。敵は、三人。全員、殺した。ヴァンが。銃で。その場所が、地図に記されている。赤い丸。
『ここの民家は避難済み』
ある村。民家。住民は、避難していた。戦闘の前に。だから、砲撃しても大丈夫。民間人の犠牲はない。その場所が、地図に記されている。緑の丸。
二枚の地図―――過去と未来。
古い地図は、過去。戦争の過去。殺戮の過去。血塗られた過去。白紙の地図は、未来。可能性の未来。希望の未来。まだ何も描かれていない未来。
ヴァンは、そっとグローブボックスを閉める。カチッと蓋が、閉まる音。二枚の地図は、暗闇の中に収まる。並んで。過去と未来が、同じ場所に。
「次は何処だ?」
ロジオンが聞く。
「さあな」
ヴァンは、答える。声に出して。目は、閉じたまま。ヴァンは、助手席にピコを乗せる。いや、乗せるは正確ではない。ピコは、自分で移動する。飛んで。ピコは、ヴァンの肩から飛び立つ。助手席の上まで。そして、着陸する。シートの上に。ピコのレンズが、窓の外を向く。回転する。全方向をスキャンする。朝と昼と夕と夜の境界線を、忙しなく行き来する。境界線は、以前よりぼやけている。しかし、まだ存在する。ピコは、境界線を分析している。変化を記録している。レンズの周囲のLEDが、穏やかな青色に光っている。青色。これは、ピコの感情表現。満足の色だ。ピコは、満足している。今回の仕事に。街の変化に。人々の笑顔に。
「壊れたものがある場所だ」
ヴァンが、答える。ロジオンの質問への答え。次の目的地は? 壊れたものがある場所。それが、ヴァンの旅の基準。唯一の基準。
ピコが光る。LEDライトが、黄色に変わる。処理中。
「次ノ目的地、分析中・・・・・・」
ピコの声。合成音声。しかし、抑揚がある。ピコは、データベースを検索している。インターネットのようなもの。魔術的なネットワーク。情報源は、様々。新聞、掲示板、口コミ、魔術通信。
検索キーワード:「故障」「修理」「緊急」「高額報酬」
結果が、返ってくる。複数。ピコは、それらを評価する。距離、難易度、報酬、緊急性。最適な目的地を、選択する。
「北西二百キロ、工業都市『アイアンハート』―――報告、大規模ナ魔導機械ノ故障。推定修理時間、三週間。報酬見込ミ、高イ」
距離、北西二百キロ。ロジオンで、約四時間だ。故障の内容は、大規模な魔導機械。詳細不明。しかし、大規模な魔導機械ということは、重要な機械。工場の中枢。修理時間、三週間となれば長期だ。しかし、ヴァンには問題ない。時間はある。
報酬、高い。具体的な金額は不明だが、高いというからにはは、少なくとも金貨五枚から十枚以上。
「アイアンハートか」
ヴァンが、呟く。目は、まだ閉じている。しかし、声には感情がある。
「あそこも、ひどいところだったな」
ヴァンは軍人時代に、アイアンハートに訪れたことがある。
「戦争中ニ、重要拠点デシタ」
ピコが、補足する。歴史的事実。
「うん。あそこで、たくさんのものを壊した」
ヴァンの声。静か。しかし、重い。たくさんのもの。建物、工場、橋、道路。そして、人。ヴァンは、アイアンハートで、多くの破壊工作に参加した。第七魔導機甲師団の任務として。敵の工場を爆破した。
生産能力を低下させるため。敵の補給線を破壊した。物資を遮断するため。敵の指揮官を暗殺した。指揮系統を混乱させるため。すべてが、成功した。ヴァンは、優秀な兵士だった。しかし、その成功の代償は、多くの死。
「でも今は、直す」
ヴァンの声。決意。
「壊したものを、直す」
これが、ヴァンの贖罪。過去に壊したものを、今は直す。
同じ場所で。同じ都市で・・・・・・。
「ヴァン、今回、人ヲ助ケタネ」
ピコが、言う。LEDライトが、ピンク色に点滅する。喜びの表現。
「―――壊れたものを直しただけだ」
ヴァンの返答。否定ではない。しかし、謙遜。ヴァンは、自分の行為を、特別なものと認識していない。ただの仕事。修理工の仕事。しかし、実際には、特別な仕事だ。三万七千人の生活を変えた。街を救った。英雄といっても差し支えない。
「デモ、嬉シソウ」
ピコの観察。正確。ヴァンは、嬉しい。口には出さない。しかし、身体が示している。口の端が、わずかに上がっている。微笑に近い。肩の力が、抜けてリラックスしている。呼吸。深く、ゆっくりとしていて、すべてが、満足を示している。
ヴァンは、微かに笑った。
それは、長い冬の後に訪れる、最初の春の陽射しのような笑顔だった。冬。長い冬。十五年間の殺し屋生活。感情を殺していた冬。春。短い春。五年間の修理工生活。感情が戻り始めた春。まだ弱々しく、すぐに雲に隠れてしまいそうだが、確かにそこにある光。それでも過去の記憶。戦場の記憶。殺戮の記憶、それらが、時々、ヴァンの心を覆う。しかし、光は消えない。隠れるだけ。雲が去れば、また現れる。口元が緩み、目尻に小さな皺が寄る。
口元。いつもは、一文字に結ばれている。しかし、今、緩んでいる。笑顔の形。
普段は硬く引き締まった顔が、一瞬だけ柔らかくなる。その笑顔を見て、ピコのLEDが一瞬、ピンク色に光った。
ピコは、ヴァンの表情、声、姿勢を分析する。そこから、感情を推測する。
幸福と判断した。完全な幸福ではない。まだ、過去の重荷がある。しかし、部分的な幸福。一瞬の幸福。それでも、幸福であることに違いはない。
君はまだ
君はまだ
ロジオンが、街の境界線を越える。ゆっくりと。時速四十五キロ。街の中は、速度制限がある。街の境界線。以前は、はっきりしていた。ここから街、ここから外。明確な境界。しかし、今は、曖昧。境界が、ぼやけている。街と外の区別が、不明瞭。これも、記憶歯車の修正の効果。街の構造が、変化している。固定されたものから、流動的なものへ。継ぎ接ぎの街が、バックミラーの中で、ゆっくりと遠ざかっていく。バックミラー。ロジオンのルームミラー。ヴァンは、運転席で寝転がっているが、視線を上げれば、バックミラーが見える。
バックミラーに映る街。建物、塔、広場。すべてが、小さくなっていく。空の六つの領域も、少しずつ一つの空に溶けていく。北の朝焼けと、東の夕焼けが、混ざり合う。グラデーション。ピンク色、オレンジ色、紫色。
南の昼の青空と、西の夜の闇が、混ざり合う。水色、灰色、濃紺。まだ完全ではないが、少なくとも、激しい断絶はなくなった。境界線がぼやけ、朝の青と夕の赤がグラデーションを作り、昼の光の中に星が微かに見える。
昼間の星。通常は見えない。しかし、この街では、見える。時間が混ざっているから。時間が、再び流れ始めた証拠だ。
以前は、時間が停滞していた。六つの時間が、固定されていた。動かなかった。
しかし、今、時間が動き始めた。
そして、ヴァンの旅は続く。
終わりなき旅。
壊れたものを直す旅。
過去を償う旅。
未来を描く旅。
煙草の煙が、風に流れる。
ロジオンのエンジン音が、道に響く。
ピコのレンズが、地平線を見つめる。
三人(一人と二機?)は、前に進む。
ここから始まる。
―――その
修理屋と世界の壊れた心臓 かもめ7440 @kamome7440
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