不完全な君が【カクヨムコン11短編】

あけち

第1話 不完全な君が

 七分前に、私は妻を殺した。


 殺した、と言っても、殺意はなかった。


 仕事帰りで疲れ、リビングへ腰かけた私に、妻は「部屋の電気つけっぱなし靴下脱ぎっぱなしトイレの蓋あけっぱなし、あなたって、っぱなし星人なの? それも、総理大臣クラスの大物。給料日楽しみね」と皮肉を浴びせてきた。


「勘弁してくれよ」私は取引先との新規契約の対応に疲弊しきっていた。正常な思考力もなく、ネクタイを緩める。妻がこうなると一、二時間は愚痴愚痴言われる。


 三十五年間そうだった。


 私は、リビングのローテーブルに飛び散った妻の血をタオルで拭う。

 拭きとるなか、ふと手を止めた。


 私の人生は家内の後始末を拭う日々だった。家内は近隣にあるゴミ捨て場やPTAで、何かと揉め事を起こした。その度に、私がぺこぺこ頭をさげ、場を収めた。


 だが、それも今日で終わりだと実感すると、心が軽くなった。深く息を吸えた。大量に物を詰め込んだリュックを下ろした時のように肩と胸から力が抜けていった。


 床に目をやる。頭から血を流した妻は、糸の切れた人形のように、手足をぐにゃりと放りだして倒れていた。焦点の合わない暗い瞳と目が合った。


「海に捨てよう」


 山に遺体を埋めた場合、雨や崖崩れにより死体が露見される例がある。また、行方不明者を警察犬が山で死体として発見した、というのを新聞で読んだことがある。


 警察や救急を呼ぶ考えは毛頭なかった。私が妻の死に関与したとなっては……営業部長という立場が終わる。今後のことしか頭になかった。回避するために一番合理的なのは、妻を行方不明にさせればよい。死体が発見されなければ、妻の死因に言及すらなくなる。


 妻から垂れた血を拭い、致命傷となった後頭部をタオルで覆うようにして頭に結ぶ。


「やるなら、夜中の今だな」


 幸い、親父から相続した小型船があった。家から十分で着く。死体が劣化しない内に海へ捨てれば、魚たちが骨になる勢いでくいつばんでいくだろう。


 妻を包むビニールシートがある廊下のほうへ足を伸ばす。触れた床はひんやりしていた。


 ぴん、ぽーん。


 全身に張り巡らされた血管を氷でなぞられたみたいに、身が固まった。右手で口を覆う。乾いていた目の横を汗がよぎる。玄関先の照明が明るくなっていた。


 誰かが、いる。


 誰だ。誰だ。高鳴る心臓の鼓動に煽られ、呼吸が荒くなっていく。


『おかあさ〜ん、東京ばな奈買ってきたよ〜』


 リビングのインターホンから娘の桂花けいかの声が聞こえた。


 頭の中が真っ白になった。喉に蛇が絡みつき、酸欠状態に陥っていく感覚だった。


『ちなみに、お父さんのは激辛ビビンバ味だけどね。すきでしょ?』


 揶揄う桂花の声で胸に広がるじわっとした温かさを、私は唇を噛み、打ち切った。


 やらねばならない。私は足の音を抑えて後退し、リビングへ戻る。


 死んだ妻の洞穴のような瞳が私を見ていた。肋骨が跳ね上がり、ひっ、と出そうな声を抑えるように私は歯をかみしめ、目を瞑った。生きているはずがない。生きてるはずが……重い瞼をゆっくりと押し上げていく。妻は先ほどと同じように天井を見上げていた。


『ねぇ〜まだぁ〜? 東京ばな奈ちゃん都会の子で冷え性だからかな、すごく寒いって〜』


 私は、妻と床の間へ手を滑り込ませ、背中と太ももを抱き上げる。驚くほど軽かった。久々に触れる妻の肌はすでに冷たく、皺が目立っていた。髪の毛も傷んでいる。


 私は2LDKのリビングを抜け、隣にある和室へと入った。畳を踏み進むたびに、静謐な和を穢すことへの躊躇いが生まれた。


 ぴん、ぽーん。


 私は押入れをあける。三分ほど前に隠したロープが布団の上にあったが構わず、妻を入れこんだ。振り返る。大丈夫、見られていない。


 畳に血が垂れていないことを確認しながら、リビングへ戻る。消臭スプレーを手に取り、散布する。血も、匂いも、問題ない。私は、念入りに辺りを見回した。


 リビングの緑のカーテンが微かに開いていた。縦長の細い空虚が亜熱帯の草むらの隙間のようで、その奥にある青い瞳の存在に、私は死を感じた。耳元で鳴っていた心臓の鼓動さえも遠のき、倒壊する足場のように私はぐらっと転んだ。尻の痛みは感じなかった。


 見られた。見られていた。


 どん、どん。窓が揺れた。風が揺らしたのではない。青い瞳の何かが、手を丸め、窓を何度も何度も叩いていた。小刻みに震えた唇の合間から短い息が犬のように漏れていった。


「早く開けてよぉ〜」桂花の声が窓の奥から聞こえた。「あっ、ごめん、驚かせちゃった?」


 私に似た青い瞳は桂花のものだった。あまりの動転にその可能性が頭から抜けていた。先ほど二度目のチャイムがした時には、桂花は玄関にいたはずだ。その時には既に、私は妻を和室へと連れて行っている。


 大丈夫だ、見られていない。


 腰をあげる。若干の立ち眩みを起こしつつ、カーテンをあけた。窓の外では、東京ばな奈の紙袋を掲げ、不満そうにじとっと顔を歪める桂花がいた。


「今、玄関行くから、ちゃんと開けてよね」硝子越しだからだろう、声がこもっていた。

「あぁ、すまない」


 私は背を反転させ、玄関へと向かった。鍵をあけると、扉が開く。桂花が入ってきた。

 桂花には悪いが、今日はすぐに帰ってもらおう。


「珍しいね。お父さんが出てくるなんて」

「そうか?」私は首を捻った。「珍しいといえば、桂花の方だろ?」


 桂花は大学が神戸ということもあり、そのまま兵庫県庁に入職。現在一人暮らしをしている。大型連休や年末年始でないと帰って来られないほどに仕事が忙しいらしい。桂花ともう一人の息子である健太郎は京大を卒業し、骨を埋める覚悟で東京の総合商社に勤務している。二人がこの田舎に帰ってくる機会は少なかった。


「それもそうだね」擽ったそうに笑う桂花が普段よりおめかししていることに気づいた。大人びた化粧に、白のニットの上を秋らしいステンカラーコートで纏っていた。


「お母さんには、今日帰るってLINEしたんだけどね」

「……母さんにか?」

 私は息ができなかった。

「お母さんは? 車、車庫にあるから、いるんでしょ?」


 桂花が玄関框に腰を下ろし、靴を脱ぎ始めた。綺麗な首筋が見えた。娘の後ろ姿が若い頃の家内に似ていた。その細い首に私は手を伸ばした。


「あっ、それより」

 顔を振り返えさせただろう桂花の声を後ろ手に聞きながら、私はリビングへ足を進めた。


 だめだ。私が桂花を家に入れさせなかった今日から、妻が行方不明になったとなれば、捜査関係者から疑われる危険がある。ここは家にあがらせた方が無難だ。


「なんで出てくるの遅かったの?」

「今、何時だと思ってるんだ」リビングと廊下の引き戸開けつつ、壁時計へ目をやる。「もう二十二時。寝支度を二階でしてたんだ」

「そっか」桂花がリビングに足を踏み入れ、見回す。生きた心地がしなかった。「でも、寝支度したにしては、パジャマじゃないんだね」


 ごく自然な問いだった。桂花は追及するつもりもないらしく、冷蔵庫へ向かっていく。


「東京ばな奈今日は食べないだろうから入れておくね。冷やしたら五倍おいしいんだから」

「母さんが言いそうなセリフだな」


 私は自分の発した言葉にはっとした。自分だけが妻の死を知っていて、偽装しようとしている。いま鏡を見れば、ひどく気味の悪い凶悪犯の面が映っていることだろう。


「だよ、ね」

 冷蔵庫の扉がぱたんと閉まり、こちらへ向き直った桂花は、頬を緩め、はにかんでいた。


「お父さん」

 冷蔵庫から離れ、歩いてくる。

「なんだ?」カーテンから覗いていた瞳がフラッシュバックする。


 桂花は妻が死んだ床へ正座し、両手を上品に膝の前へとついた。


「お母さんとお父さん、一緒に話すのは少し照れ臭いから一人ずつ話すね」


 待ってくれ、私は心臓に鎖が巻きつきだしたように息が苦しくなった。

 その姿は、桂花を初めて抱き上げた時から待ち望んでいた光景だった。

 喜ぶべき門出の姿だった。


「結婚することになりました」桂花は頭を下げた。


 私は流すべき涙を流さず、流すべきではない涙を流していた。冷たい、涙だった。

 鎖は私の心臓を緩めることなく締め付け、楔を押し付けていた。深く重い、楔だった。


「へへへ、そんなに泣かれるなんて思ってもいなかったな」

 照れ隠しで笑う桂花もまた、静かに泣いていた。やさしい、涙だった。


「ありがとう、ここまで育ててくれて」


 私と同じ青い瞳を持つ桂花を見ていられなくなり、背を向けた。袖で、涙を拭う。袖から出た皮膚の弛んだ細い指。私も歳を取った。先の短い自分の人生よりも、桂花と健太郎の幸せな人生を見届けたい。


 そのために、やるべきことを、やらねばならないことを、私はやるのだ。


 湿った空気に、がたっ、とノイズが混じった。和室からだった。


「お母さん、和室にいるの?」

 冷や汗が首から吹き出し、背中を伝っていく。


「まさか。母さんは和食と和室が嫌いなの、知ってるだろ?」

 妻のご両親から受け継いだ家だというのに、妻が和室へ入った所を見たことがない。


 桂花へ向き直ると、ふふっ、と口を閉じて笑っていた。笑い方が、大学で出会った頃の妻と似ていた。社会学部のマドンナと結婚できるとはあの頃は夢にも思っていなかった。


「まだ苦手なの治ってないんだ? 若いねぇ〜お母さん」

 生きている妻は和室にはいない。


「じゃあ、二階にいるの?」

 どう答えようか。桂花が廊下の方へ歩いていく背中を見つめながら思った。


 妻は自分の家でも必ず靴は玄関のシューズボックスへ戻す。玄関の方には俺の靴しか置いてなかったはずだ。妻は帰ってきていないと言っても、疑われる心配はない。


「あっ、二階じゃないか」

 桂花は振り返った。ちょうど照明の真下に居たからか、桂花の顔に影が差し込む。


「だってお母さん、お父さんの後にしかお風呂入らないからまだ寝てないだろうし。飲みかけの紅茶が入ったカップが二つテーブルの上にあるし」


 私の視界はぐにゃりと歪んだ。自分が立っているのか、それとも立たされているのか分からないほどに、現実味がなかった。


「どこにいるの?」

 桂花は一歩、二歩歩んでくる。


 白昼夢のような浮遊感に包まれながら、口を開いた。


「そのカップは両方とも私のだ」

「えっ?」桂花の眉が押し上がる。

「ティーはティーでもダージリンとセイロンだろ。私が二つ飲んでいた」


 話をすり替えた上での苦しい言い逃れだった。しかし、やむをえない。

 直接的に妻がいないと言って、後々に妻が必ず居たという証拠を桂花に指摘されては言い逃れできないので、妻がいたという証拠を間接的に潰すことにした。


「あっ、ほんとだ。でも、お父さんって、セイロン嫌いじゃなかったっけ? お母さんの正論攻撃にたじたじだったみたいに」

「まぁな。ただ、試しに飲んでみたんだ。あまり美味しくはなかったがな」


 私は日常を装うべく、ソファーに腰を下ろした。桂花はローテーブルの前に座り、じっとティーカップを見つめる。片付けておくべきだったな、と後悔した。


「明日も早い。私はもう寝ようと思うが、桂花__」


 私は唾を飲み込んだ。この位置だから気づいた。テーブルの下にある妻のスマホの存在に。妻は必ず通知音をオンにし、肌身離さず持っている。鳴れば、言い逃れができない。


 どうスマホを処理すべきか、どう桂花をテーブルから遠ざけるか。じっと見つめ悩んでいたが、桂花が顔を傾けさせ、私の視界に入ってきた。


「お父さん」


 桂花は顔を上げた。その瞳は天井にある照明を捉えていた。古い我が家には、円盤型のLEDは取りつけられず、天井から短く伸びた輪っかに吊るす古型ランプが四つあった。


「ここの蛍光灯だけ」四つのうちの一つが桂花の真上にあり、それを指差した。


 力尽く寸前の蛍のようにチカチカしだした。


「切れかかってる。違う……」


 私はランプを見つめ、妻がこの世から居なくなった瞬間を思い出していた。背筋の筋肉が炭酸のように溶けていき、骨だけが残ったような虚脱感を私は妻の死で感じていた。


 ソファーから立ち上がった私は桂花に近づく。一寸の気づきさえも与えたくなかった。


「どう、したの?」桂花の顔は強張っていた。


「ウチはこのとおり色んなところにガタがきてる。業者の方にも『リフォームでは厳しいかと』と言われてな。もうじき、立ち退く予定なんだ」


 嘘ではなかった。私たち家族の思い出が詰まったこの家を解体する予定だった。妻は死ぬ直前まで反対していた。しかし、床や柱がシロアリにより沈み、家全体の老朽化に歯止めが効かない状態だった。


「そんな……」桂花は瞼をぱちぱちさせた。目の縁から涙を滲ませている。


 あと、もう一押し。我が家で寝ることの危険性を説き、桂花に幾らか金を持たせホテルで寝泊まりしてもらう道筋が整った。これで__てぃろてぃろてぃてぃとっとん、とっとっるてぃてぃとんてぃてぃとん__弾んだ音がリビングに響いた。スマホの着信音だった。


「電話だ。わたしのじゃないけど」桂花は自分のスマホを確認してから、床に視線を落とした。「下から聞こえる」腰を下げ始めた。


 私は、ポケットからスマホを取り出す。着信音はどうやら私のスマホからで、画面には『健太郎』と表示されていた。


「すまない、健太郎からだ」左手にスマホを持ち替え、右手を立てて桂花に謝る。

『あっ、父さん? まだ寝てなかった?』

「あぁ。どうしたんだ?」


 私は桂花から距離を取り、壁に背中をあずける。桂花がテーブルの角にある凹みを指でなぞっている。妻が後頭部を強打した場所だった。


『いや、大した用じゃないんだけどさ』健太郎の声音はどこかぎこちなかった。『一ヶ月ぐらい前に、俺が営業部長になったって話、したじゃんか』

「あぁ、小規模支社だけどってな」


 勤勉な健太郎は三〇代半ながらにして営業部長になった。万年係長だった私とは月とスッポンだな、と自虐めいた電話をしたのを今でも覚えている。自分の息子が誇らしかった。


『母さんにも話したんだけど、俺その時、舞い上がってたから、その……父さんは桂花から……話聞いたか?』


 床に座っている桂花へ目をやった。視線を感じたのか、こちらに向いた。そしてちらりと、私の隣にある白銀色の脚立を、見た。


 健太郎と電話をしていなければ、声が出そうだった。脚立を片付けるべきだった。

 早く通話を切りたい。そう思うほどに、生きた心地がしなかった。


「結婚の話か? 詳しい話はまだだが、今ほど聞いたぞ」

 スマホ越しにいる健太郎が動揺したのが、息遣いで分かった。


『結婚の話を俺、一ヶ月前に知ったんだけどさ、それを営業部長に昇進した話の際にポロッと口から出ちゃったんだよ。桂花からまだ黙ってて言われたのにさ。母さんあの時すごく取り乱しててさ。……母さんって桂花が県外の大学に行く時も結構やばかっただろ?』


 私は、まぁな、と頷く。実は健太郎の時も大変だったのだけれど、それは言わないでおく。妻は自分から何かが奪われたと感じた時に、ヒステリックになった。在るべき所に無いのが、ひどく不安に駆られるのだ。だから私が靴下や便座などを元通りにしないことに我慢ならない。私としても直そうと試みていたが、仕事に忙殺され、気を抜くとやらかしてしまう。「脚立がぐらぐらするから直しおいて」と言われたのも……。


 妻の死に際が脳裏をよぎり、私は瞼を閉じた。



 二階で自室の整理をした私は階段を降り、リビングの扉を開いた。


 視線の先では天井に吊るしたロープの先端を、妻は脚立の天辺に立ちながら触っていた。ぼんやりとした表情の妻はロープで輪っかを作っているようだった。後ろ手で閉めた扉が音をたてた。妻はこちらを向き、顔を小刻みに震わせた。脚立が沸騰した水のように揺れた。妻の前身がぐらりと弧を描く。指先が宙を掻いた。


 私は海へ飛び込むように前傾になった。手を伸ばした。指が近づいた。

 だけど、だけれど、届かなかった。


 それは、私と妻にあった心の距離のように、もう遅かったのだ。

 瞼を閉じて、開けた時には、もう、妻は死んでいた。


 目の奥へ差し込む陽光のように、瞼を閉じても、妻の死が私の頭の後ろにある気がした。


『母さん大丈夫か? だって、きょう__』私は電話を切った。


 桂花が私の目の前に立っていた。目尻を僅かに下げ、口を真一文字に引っ張っていた。

 見つめてくる瞳は私に似ていて、綺麗な顔立ちは妻に似ていた。

 両方から発される娘の機微に、私は悟った。


「お父さん」

 ただ一つの言葉を呟き、桂花は、私を抱きしめた。

 私が、初めて桂花を抱き上げたように、優しい抱擁だった。


「帰るね」


 それ以上の言葉はなく、桂花は玄関から出ていった。


 残された私は、静まり返ったリビングで、一人、顔を上向けていた。もう湧いてくることもないはずの涙を堪えようとしていた。


 妻のスマホを手に取り、和室へ向かう。扉を開くと、妻の体は傾き、目を閉じていた。布団の上にいるからか寝ているようだった。


 私は妻を布団で包み、持ち上げる。歩き、足で戸を開け閉めしていく。玄関の扉を少しあけた。誰もいない。星もない暗闇がひっそりと佇んでいた。小雨が肌にあたった。


 アルファードのトランクに布団で包んだ妻を入れ込む。車体が小さく揺れた。

 私は運転席へ回り込んでは乗り込み、エンジンをつける。

 ルームミラー越しにトランクの方へ目をやってから、車を走らせた。

 音のない車内のなか、私は、妻を初めて車に乗せた日を思い出していた。




『人はね、二種類に分けられるの』妻は昔から唐突に持論を展開する。

『君は何でも分けたがるね。カレーライスも絶対にぐちゃぐちゃにしないからカレーとライスが最後まで海と陸みたいになってる。君そのうち、雨を無くそうとか言い出すんじゃない?』

 助手席の妻は口を閉じてふふっと笑った。笑顔を見るだけで私は幸せだった。


『惜しいけど、少し違う』

『否定しないのが怖い。僕、雨男なんだけど』

『人はね、最初から整える人と、後から整える人がいるの』

『君が前者なのは、言うまでもないね』

『あなたが後者なのは、ぐうの音も出ないわよね』


 私は左手でお腹を摩っていた気がする。お腹が空いていたから、ぐぅ〜と鳴るかと思ったのだ。


 ふたりでどんな景色を見ていたかは覚えていないけれど、次に彼女が言った言葉を私は鮮明に覚えていた。


『わたしは、壊れたものは直せないのを知ってる。一度歪みを与えたら、いずれ崩壊する。在るべきところに在るべきものがなくなる。わたしはね、自分の知らない世界が怖いの。でも、あなたみたいな、知らない世界を良しとする人もいる。なんでなの?』




 気づけば、小型船の近くまで辿り着いていた。

 ドリンクホルダーに置いてある小型船の鍵を掴み、車から降りた。


 トランクを開ける。妻の顔は見えていないが、布団が膨らんでおり、いるのが分かった。布団を抱き上げ、小型船へと運んでいく。海は夜を怖がることもなく、漣をたてていた。 

 妻を小型船の簡易ソファーへおろす。頭を括っていたタオルを取る。血は固まっていた。


「……君の人生に、なぜ私を関わらせてくれたんだい?」

 返ってくる言葉はなかった。彼女の唇はもう、動かない。


 古い型の船だったが、しっかりエンジンは動いた。音を立てながら進んでいく。

 ぴろん、ポケットから音が鳴った。自分のスマホを見る。通知は何もきていない。


「……」私は、妻のスマホを開いた。


 一通のLINEが届いていた。文面は見えない仕様だった。


 このままスマホごと海に捨てようと考えていたけれどどうしてかそのLINEが気になった。画面をタップする。四桁のパスワードが求められた。試しに、妻の誕生日である0410と打ち込む。解除されない。次に桂花の誕生日を入れたが開かなかった。


 夜の海でライトを灯しているのは目立ちすぎる。しかし家に持ちかえるのには、抵抗感があった。残り一回間違えれば制限がかかり、十分は開かなくなる。一度きりだった。


 __結婚することになりました。

 正座をして頭を下げた桂花の姿が頭をよぎった。 妻の顔へ視線を落とす。


 私は今日の日付を打ち込む。メッセージはそっと開いた。

『結婚記念日、今日だったよね? おめでとう』

 桂花からだった。おめでとう、の後に()があった。『(履歴を遡って)』。


 私は画面をスクロールさせた。とある文面で私は指を止めた。


『絶対喜ぶよ! お父さん、サプライズとか人生でされたことないだろうし笑』

『サプライズと言っても、天井から『HappyWeding』って書かれたバルーンを吊るすだけよ? あの人、喜ぶかしら?』

『喜ぶ喜ぶ! お母さんが面倒ごと起こした時はお父さんやれやれって顔するけど、お母さんが居ない時に酔っ払ったら、『あいつの尻ぬぐいは私の特権なんだよ。誰にも渡さない』って意味不明なこと言ってるぐらいお母さんのこと大好きだよ』

『なによそれ笑』


 スマホを持つ手が震えた。画面がぼやけていく。とどまることを知らない雨は、私が嗚咽を漏らす中も降り注いだ。妻に逢えないことが、苦しかった。


 私は妻を抱き抱え船の先端へ向かう。

 雨に濡れた彼女の顔は老いていたが、綺麗だった。




『僕はね、人が好きなんだ。適当で、面倒くさがりなみんなが。もちろん、僕も適当だけどね。不完全な僕らは、散らかしたものを何らかのきっかけで整える。その時に大切だと再確認する。僕はね、不完全なこの世の中が大好きで、でもそれを、真剣に整えようとする君もまた大好きなんだよ』

『あなた、変わってるわ。でもそうね……もし私が、何か大変なことをやって散らかした場合は、あなたが整えてくれるのよね』 

『もちろん。僕はね、完全であろうとする君の不完全さもまた、好きなんだから』




 眼下に広がる海の一滴は海流によってもっと遠くの大西洋やインド洋とかを放浪するかもしれない。そして蒸発して、陸へと降り注ぎ、この田舎町の港へやってくるかもしれない。静かに今も降る雨のように、陸と混じり合う一瞬を求めて。


 妻の白い肌に雨がぽたりと当たる。私の体温は雨で奪われていたが、胸は冷えていなかった。左腕で抱えた妻の顔へ右手を伸ばす。


 妻の前髪を、私は整えた。


                                                        

               (了)

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不完全な君が【カクヨムコン11短編】 あけち @aketi4869

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