『ガクチカ』がないので、異世界で働いてきました ~父の就活ノートと内定へのクエスト~
宮城マコ
第1話 何もない私と、意識高い系の友人
一月の大学のカフェテリアは、独特の湿り気を帯びている。
テスト前の気だるさと、冬の乾燥した空気。それらが混ざり合い、そこに数百人の学生たちの話し声がBGMとして重なる。
けれど、私の目の前に座る彼女の周りだけは、まるで夏の日差しのようにまぶしく、暑苦しいほどの高気圧に覆われていた。
「やっぱりさ、これからの時代に求められるのって、圧倒的な『オーナーシップ』だと思うんだよね」
カツカレーを前にして語られる言葉にしては、ずいぶんと壮大だった。
私の向かいに座る
「オーナーシップ?……う、うん、そうだよね。大事だよね」
私は曖昧に頬を緩め、手元のきつねうどんを啜った。
熱い汁が喉を通るが、胃のあたりはなんだか冷たい。
オーナーシップ。所有者意識。当事者意識。
言葉の意味は分かる。けれど、それを自分の人生に重ねると、私には何も浮かんでこない。私の人生のオーナーは私のはずなのに、私はいつも助手席に座って、流れる景色を眺めているだけ。
「でしょ? この前のインターンでもさ、メンターの人に言われたんだ。『星野さんの強みは、課題に対して自らコミットする姿勢だ』って。正直、学生レベルでここまでPDCA回せる子いない、って評価もらっちゃった」
莉奈は決して嫌味な子ではない。むしろ、明るくて、行動力があって、サークルでもムードメーカーとして頼りにされている。
今だって、こうして私みたいな地味な子をランチに誘ってくれているのだ。悪意なんて微塵もない。
だからこそ、タチが悪いのだ。
彼女の言葉は、鋭利な刃物ではなく、明るすぎる太陽光だ。あまりに真っ直ぐで強烈な光は、日陰にいる私の輪郭を容赦なく焼き尽くしてしまう。
「すごいね、莉奈は。……もう、内定とか出そうな勢いじゃない?」
「んー、まあね。ベンチャー界隈だと早期選考始まってるし? でも私としては、もうちょっと解像度上げてから決めたいっていうか? ファーストキャリアって大事じゃん?」
「うん……解像度、大事だよね」
私はうどんの中の油揚げを箸で突きながら、心の中でため息をつく。
私の将来の解像度なんて、モザイクだらけのボヤボヤだ。いや、モザイクの下に何かあるならまだいい。私の場合、モザイクを外しても、そこには真っ白なキャンバスがあるだけなんじゃないかとすら思えてしまう。
Cランク大学、文学部二年。
成績は平均よりちょっと下。サークルは文芸サークルに所属しているけれど、幽霊部員に近い。
アルバイトは、コンビニやファミレスを転々としたけれど、どこも「向いていない」と思って辞めてしまった。
特技、なし。趣味、ネットサーフィン。
そして何より致命的なのが――。
「繭はさ、どうなの? 最近」
不意に話を振られ、私はビクリと肩を震わせた。
「え? あ、私?」
「そうそう。そろそろ三年生だし、サマーインターンの準備とか始めてる? 自己分析とか」
「あー……えっと、一応、見てはいるかな。求人サイトとか……」
嘘ではない。見てはいる。
スマホの画面をスクロールして、並んでいる企業ロゴを眺めて、そのキラキラした募集要項にめまいを覚えて、そっと閉じる。それを繰り返しているだけだ。
「求人見るのもいいけどさ、やっぱりガクチカ固めとかないと厳しくない?」
「……ガクチカ」
――学生時代に力を入れたこと。
――就職活動における最強の呪文。
莉奈はカツカレーの最後のひとくちを頬張りながら、また横文字の弾丸を装填した。
「エピソードの掘り下げやっとかないと、
ぐうの音も出ないとはこのことだ。
莉奈の分析は残酷なほど正確だった。
私には、エビデンスがない。私がこの二十年間、確かに生きてきたという証拠が、履歴書に書けるような形では何一つ残っていないのだ。
私は、テーブルの下でスマホを握りしめた。
画面には、メモアプリが開かれたままになっている。タイトルは『自己PR案』。
そこには、昨夜の私が必死にひねり出した言葉が並んでいた。
『人の話を聞くのが得意なほうです』
『争いごとが嫌いです』
『……』
指先が震える。
私は意を決して、入力画面をタップした。
何か、あるはずだ。私だって、何もせずに生きてきたわけじゃない。
母子家庭で、お母さんに心配かけないように、いつも顔色を見て、空気を読んで、波風立てないように生きてきた。それだって、立派な処世術じゃないの?
私はフリック入力で、『くうきを』と打ち込んだ。
『空気を読む力があります』
画面に表示された文字列を見る。
途端に、恥ずかしさがこみ上げてきた。
空気を読む力。なんて受動的で、なんて曖昧で、なんて弱々しい言葉だろう。
莉奈の言う「オーナーシップ」や「コミット」という言葉の輝きに比べたら、それはまるで道端の石ころだ。
面接官がこれを見て、「おお、すごい!」となるビジョンが全く浮かばない。
むしろ、「で? それで何か成し遂げたの?」と聞かれたら、私は何も答えられないだろう。
――だめだ。
私はバックスペースキーを連打した。
文字が消えていく。私の二十年間が、なかったことになっていくみたいに。
「……私も、この前――」
気づけば、声が出ていた。
スマホから顔を上げると、莉奈が「ん?」と小首をかしげている。
何か言わなきゃ。私だって考えてるんだって、私だって戦ってるんだって、言わなきゃ。
例えば、この前のコンビニバイトで、廃棄になりそうなお弁当を常連のおじいちゃんのために取っておいてあげたこととか。店長には怒られたけど、おじいちゃんは喜んでくれたこととか。
――でも、それってガクチカなの?
――ただのルール違反じゃない?
――数字で成果出せる話?
脳内で、もう一人の冷徹な私がツッコミを入れる。
喉まで出かかった言葉は、喉仏のあたりで渋滞を起こし、やがて空気に溶けて消えた。
私の唇はパクパクと金魚のように動き、結局、出てきたのは愛想笑いだけだった。
「……ううん、なんでもない。私も、いろいろ考えてるよって、言おうとしただけ」
送信ラグ。
私の悪い癖だ。相手の反応をシミュレーションしすぎて、結局何も発信できなくなる。
莉奈は不思議そうな顔をしたが、すぐに興味を失ったように「そっか」と頷いた。彼女にとって、私の沈黙は「特に言うべきことがない」という意思表示として処理されたのだろう。そしてそれは、悲しいけれど事実だった。
「ま、繭のペースでいいと思うけどさ」
莉奈は食器を持って立ち上がると、私を見下ろして、とどめの一撃を放った。
「やらなかった後悔って、あとから一番響くらしいよ? 失敗してもいいから、バッターボックスには立たないとね」
その言葉は、あまりにも正論で。
あまりにも鋭利で。
私の胸の、一番柔らかくて痛いところを、深々と刺し貫いた。
「……うん。ありがとう、莉奈」
私は精一杯の笑顔を作ったつもりだったけれど、頬の筋肉がひきつっているのが自分でも分かった。
莉奈は「じゃ、私これからセミナーあるから!」と手を振り、颯爽とカフェテリアを出て行った。その背中は、自信と希望に満ちていて、同じ大学生とは思えないほど大きく見えた。
取り残された私は、冷めきって伸びたうどんを見つめる。
バッターボックスに立て。
分かっている。そんなことは、痛いほど分かっているのだ。
でも、バットの握り方も分からなければ、そもそも自分がスタジアムのどこにいるのかさえ分からない人間は、どうすればいいんだろう。
周囲の学生たちの笑い声が、遠く聞こえる。
私はスマホの画面を消した。真っ暗な画面に、情けない顔をした自分が映っていた。
「……帰ろ」
誰に言うでもなく呟いて、私は席を立った。
逃げるように食器を返却口に置く。
この時の私はまだ知らなかった。
家に帰れば、私の人生を強制的にバッターボックス――それも、ドラゴンが空を飛ぶデッドボール必至の打席――に立たされることになる、運命の『片道切符』が待っていることを。
次の更新予定
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