学園の王子様がリップクリームをなくしてしまう話

羽間慧

学園の王子様がリップクリームをなくしてしまう話

 唇が乾燥してきたかな。

 僕はいつもリップクリームを入れているポケットに手を伸ばす。


「弱ったな。確かに入れていたはずなんだが」


 スラックスのポケットにはなかった。机の横にかけた鞄から、ポーチを出してみる。鏡やくし、ヘアピンはあっても、探し物は見当たらない。


 今日も登校前に使っていた。スラックスのポケットに入れたことも記憶に新しい。何かの拍子に、道で落としたのだろうか。


 十八歳のお祝いに母から贈られたリップクリームは、使い始めて一ヶ月も経っていない。シャンパンゴールドのケースに「KANATA」の刻印が施された、世界に一つだけのリップクリーム。なくしたことを母に知られたくなかった。


「どうしたものかな」


 僕の呟きにクラスメイトが集まってくる。


「王子町くん、何か忘れてしまわれましたの?」

「お貸しできるものなら、何でもお貸しいたしますわ。ハンカチでも筆記用具でも」

「体操服も予備があります。もちろん洗濯しているものですから、汗や匂いの心配はございませんわよ」

「冷房の風が王子町くんに直撃しているのでしたら、こちらのブランケットを使ってくださいな」

「生理用品や痛み止めのお薬もご心配なく」


 リップクリームをなくしただけなのに、気遣われてしまった。誕生日のときもケーキやプレゼントを用意してもらったが、何でもない日に大事にされるのも同じぐらい嬉しい。


「みんな、僕のためにありがとう。実は、母が贈ってくれたリップクリームをなくしてしまって。途方に暮れてしまったんだ。でも、みんなのおかげで元気が出たよ。SHRまで時間があるから、校内を探してみる」


 教室を出ようとした僕に、クラスメイトもついてくる。


「王子町くんの大切なものが見つかるまで、協力いたしますわ!」

「どのリップクリームを使われていたか、わたくし達は覚えておりますもの。手分けした方が早いですわ」


 初等部からともに成長してきたレディ達は、なんて素敵なんだ。


「感謝してもしきれないよ。無事に見つかったら、放課後にお祝いのアイスをごちそうするよ。手伝ってくれたみんなにね」

「まぁ!」

「頑張りますわ!」


 分担する場所を決め、それぞれの区域にちらばっていく。二人一組で探すことになったのだが、僕のペアは教室から出ようとしなかった。


「姫川。僕らも行こうか」


 学園のお姫様をエスコートしようとしたが、姫川は首を振った。


「誰かが教室にいなければ、せっかく見つかっても情報を共有できませんわ。わたくし達は校内で電子機器を使えないのですから」

「みんなが僕のために動いてくれているんだ。ただ待っているなんて、僕にはできないよ」

「王子町くん……」


 姫川はハンカチを出し、僕の目の前で広げた。中にあったものは、僕が使っているものと同じリップクリームだった。持ち上げてケースを見れば、僕のものだと証明してくれる刻印が光った。


「どうして、これを姫川が?」

「廊下に散らばったノートを拾っていた生徒がいたでしょう? 王子町くんは膝をついて、拾うのを手伝ってあげていました。リップクリームはそのときに落ちたのですわ。ただ、落ちたリップクリームは、ほかの生徒が拾ってしまって。あろうことか……」

「あろうことか?」

「ご自身の唇に塗ろうとしたのです! 憧れの王子様が使ったリップクリームだと知っていながら!」


 女の子同士、リップクリームを貸すことはよくある。そこまで目くじらを立ててしまっては、可愛い顔にしわがついてしまうよ。


「わたくしが声をかけたとき、驚いた生徒はリップクリームを落としてしまいました。口紅のように折れることはありませんでしたが、床に触れてしまったところを王子町くんに使わせる訳にはいきません。一応、ティッシュで表面を拭きましたわ。返しそびれたのは、さり気なく返すときを見計らっていただけで、他意はありませんのよ」

「そうか。戻ってくれたのならよかった」


 僕はリップクリームのケースを外した。クランベリー色のリップクリームは、色つきリップのように鮮やかだ。初めて見た人が唇に色がつかないと聞かされたら、信じないだろう。

 ほんの少しだけ、姫川をからかってみたくなった。


「でも、中身だけすり変わっていたらいやだな。色つきリップは僕の唇に合わないものが多いから、すぐに荒れてしまうんだ」


 リップクリームの表面を人差し指でなぞる僕に、姫川は動揺した。


「間違いなく王子町くんのものですわ。すり替えなんてありえません。わたくしの唇をご覧くださいませ。何も塗っていないことが一目瞭然でしょう?」


 唇を尖らせた姿も可愛らしい。潤い不足ではないものの、ケアしてあげたくなった。僕は人差し指で姫川の唇をなぞる。一周した輪郭は悪目立ちせず、肌によく馴染んでいた。


「品のある血色だ。僕が塗ってあげる前と、色味は変わっていないようだね。僕のリップクリームで間違いない」


 ウインクした僕に、姫川は消え入りそうな声で言った。


「お戯れが過ぎますわ。こんなにいいリップクリームを知ってしまったら、つけない生活には戻れません」


 つけ心地に感動してもらえてよかった。嬉しさが僕の記憶を呼び覚ます。


「姫川の誕生日は来月だったよね? 僕が使っているリップクリームが気に入ったのなら、同じものを贈るよ。『HIINA』の名前を入れてもらおう」

「最高のプレゼントですわ。放課後のアイスも楽しみにしていますわね。わたくしが最初に見つけたのですから、お祝いのアイスはわたくしから選ばせてくださいませ」

「お望みのままに。お姫様」


 ダブルがいいと言い張るお姫様によって、三十三人分のアイスの値段が予想以上に高くなったのは、また別のお話。

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