ラプラスのジオラマ - Laplace's Diorama -
月圏
たゆたい
春は、嫌いだ。
春はなんでもかんでも生まれ変わろうとする。
草や花、昆虫もその時期に狙いを定めて生を受けることを選んだ。人間だってそうだ。入学式、卒業式、就職……人生のターニングポイントは全て春に集約されている。だからなのか、春が近づくにつれ、周囲の空気が
子どもの笑い声、カツカツと鳴る革靴、鳥のさえずり、車の振動、窓を叩く風。なんで春はこんなにもうるさいんだ?
ムカつく。悪意のない音を、窓越しに
『
寒い冬が来たなら、近いうちに暖かい春が訪れる。どんなに辛い時期が来ようと耐え凌げば、いずれ明るい日々が待っていることを表したことわざだ。
これがどんなに綺麗事か、今の俺を見れば明らかだろう。ボロボロの服、噛みちぎってガタガタになった爪、ギトギトの油髪。引きこもりの正装さ。
この部屋は、永遠に冬だ。外界とは隔離された俺だけの空間。カーテンをめくれば、そこにあるはずの窓の代わりに、蓋をするように何重にも固定されたダンボールが。ドアの前には、軽く開けられないように腰の高さくらいある本棚で、侵入をかろうじて
暖かさなんていらない。寒いくらいが身の丈にあってる。
自分から遠ざけた春を、それなのに外の人間はさぞ当たり前かのように受け止めている。気に食わない。その春は自分で勝ち取ったものじゃない。ただひたすら惰性な日常を送った余韻だ。その余韻を大義名分にして、お前らはまた新しい生活を漫然と過ごすんだろうな。全くおめでたいよ。
この季節になると、いやでも自分の惨めさを再認しないといけなくなる。だから嫌いなんだ、春は。
◇
目を開けると、外の煩わしさが少し減っていた。ちょっとだけしんみりとした雰囲気を感じる。夜か。
(…………少し寝てたみたいだ)
ドス……ドス……。
誰かが俺のいる二階へ上がってくる。きっと母だ。食事を
足音がドアの前で止まる。そして、カタンッという音が聞こえた。
そこに佇んだまま母は動かない。いま、どんな顔をしているんだろう。どんな感情を俺に向けているんだろう。哀れみ?怒り?憎しみ?
『シュレディンガーの猫』のように、この一枚板を開けない限り、その表情はわからない。
扉越しの動かない影。我慢比べでもしてるみたいだ。いつもならお盆を置いたらすぐに階段へ
やがて懲りたのか、母は何食わぬ足音で階段を下りていった。
「はあっ……はあっ……」
ドクドクドクドク────動悸が止まらない。
一体なんだったんだ。こんなこと、今までになかった。ふと頭をよぎった疑念は、やがて極端な思考に姿を変える。
もしかして、母は包丁を持っていたんじゃないか。女手一人で引きこもりを世話することに
いや、そうに違いない。そうじゃないとおかしい。
両手で包丁を抱えた母の姿が目に浮かぶ。ひょっとしたら、階段を下りる音を立てておきながら実は下りてなくて、俺が食事を部屋に運ぼうとドアを開けた隙を狙って襲撃してくるかもしれない。
そう考えたら、扉のすぐそばに母の気配を感じなくもない。いや、居る。
もし────、
トレーに手を伸ばした瞬間、待ち構えていた母が俺を廊下まで引きずり出して、まず足首を刺す。そして
「ひっ……!」
最悪のシチュエーションが脳裏をよぎる。
(いやだ、死にたくない……死にたくない!)
頭の中でこだまする生への執着。
(ごめんなさいああいやだ死にたくないやめて殺さないで!)
血の気がない自分の抜け殻を想像して、頭が恐怖で埋め尽くされる。早まる鼓動を抑えるために体を縮こませ、胸に手を当てながら、そこにいるはずの見えない母が堪忍するまで、ただ時が過ぎるのを待つしかなかった。
どれぐらい待っただろう。短針が何周したかわからないほど、体感ではかなりの時間を震えて過ごした。動悸もとっくに治まり、パニック的な症状も鳴りを潜めたが、依然として恐怖心は拭えなかった。
(さすがにもういないかな……)
ここ数時間、物音という物音を聞いていない。もしかしたら、最初からそこに母はいなかったのかもしれない。だが、念には念をと、被っていた布団をゆっくり剥がし、慎重に本棚をどかす。
キキッ……。
ドアノブを握る手に力を入れながら、ゆっくりと手前に引いていく。やがて糸のように細い隙間ができたので、外の様子を
(よし、誰もいない)
ゆっくりと扉を開け、反対側も確認。どうやら、俺の思い過ごしだったようだ。
「はあ…………」
安堵のため息が出る。これまでの警戒は骨折り損だったというわけか。急に力が抜けてきた。とにかく、食事を摂ろう。すでに冷めきった料理を部屋に運ぼうとトレーを両手で持つ。
(ん……?)
料理、箸、水の入ったコップのほかに、あるものが置いてあることに気づいた。俺宛ての郵便物だ。滅多にないが、広告みたいな形でさらさら興味もないハガキを飛ばしてくることがある。今回もそれだろう。だけどなんだか量が多いな。どれどれ……。
『新高校生になるあなたへ────』
『通学カバンの購入を控えている方へ』
『〇〇塾で大学受験へのスタートダッシュを決めよう!』
…………チッ。どれもこれもクソみてえなハガキばっかじゃねぇか。俺の気も知らないで。いちいち神経逆撫でしてくれるな。そもそもどうして俺がそのくらいの年齢だって知ってんだよ。気味が悪い。
ただ、高校生……か……。確か今日は3月31日。もし俺が“普通”だったら、次の月曜日には新しい制服を袖に通してただろうな。だが今は引きこもりの身。受験すらしてない俺に桜の花道を通る権利も意志も毛頭ない。
こんなハガキ、さっさと捨てよう。ますます惨めになるだけだ。
(あれ……)
取るに足らない顔ぶれのなか、最後尾にほかとは毛色の違う郵便物が姿を見せた。
『
表面にそう書かれたメッセージカードの封筒。妙なことに切手が貼ってない。裏面を見ると、
なんだか胸騒ぎがする。俺の直感が「見てはダメだ」とそう告げている。胸の辺りに
中から覗かせたのは、小さく折りたたまれた紙切れ一枚だった。恐る恐る封から取り出し、薄目越しにそれを開く。……暗くてよく見えない。意を決して目を開き、件の書物と向き合う。
「え…………」
そこに書かれてあったのは到底信じがたい文面だった。ドクッドクッ────再び胸の鼓動が早まりだす。部屋は寒いのに嫌な汗が止まらない。
意図は分からない。でも、そこには不吉な予感を裏付けるような言葉がたった一文だけ
『今夜9時、凌様をお迎えにあがります』
ラプラスのジオラマ - Laplace's Diorama - 月圏 @Gekken_Moon
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