アンサング

@ryuouzero

第1話 誉れなき稼業


 冒険者協会のロビーには、いつだって油と安酒、そして人いきれの匂いが沈殿していた。薄暗い石造りのホールで何かが動くたび、それらは煙のように立ち上り、執拗に鼻腔に絡みつく。

 レイガスは、そんな空気を散らすように、薄汚れた麻袋を放り出した。

 ドサリ。

 水気を吸った重い音が、古びた樫の天板を叩く。 

 一瞬、喧騒が途切れ、袋の底からにじんだ赤黒いものが、木目に沿ってじわりと広がっていく。

「素材の買い取りなら裏口――」

 受付の男が定型句を吐きかけ、顔を上げた瞬間に言葉を呑んだ。鼻を鳴らし、歪んだ視線を袋へ戻す。

「……何だ、その袋は」

「依頼品だ。支部長を呼べ」

 レイガスは短く告げた。石壁を擦るような低い声だった。

「依頼品だと?」

 男は怪訝に袋の口を指先でつまむ。途端に、血の鉄臭さと、不快な生ぬるさが弾けた。

 中身を確認し、受付の男は眉をひそめた。

「……奥へどうぞ」

 声がわずかに裏返る。

 レイガスは肩をすくめ、麻袋を引きずって応接室へと向かった。



 応接室の空気は、ロビーよりいくらか理性的だった。古紙とインク、そして微かな香料。支部長の趣味だろう。

 ソファに巨躯を沈めた当人が、ハンカチで額の汗を拭っている。苦々しく見つめているのはレイガスが持ち込んだ麻袋だ。

「……生きてはいまいな」

「生きてるとしたら大した行儀の良さだ。袋に詰めてから一度も文句を言ってねえ」

 レイガスは背もたれに体を預け、長い脚を組んだ。

 支部長はテーブルに乗り出した大きな足をひと睨みした。それから麻袋の口をわずかに開き、すぐさま顔をしかめる。

「茶化すな。生け捕りが条件だったはずだ、古巨人アルガーン

 その呼び名を、男はあえて強調した。

 黒髪黒目、骨格の太い巨躯。そして何より、狂暴な膂力。これらの特徴は、何もレイガスだけのものではない。

「こいつの後ろにいる連中を吐かせる算段だった。わかっていて殺したな」

「濡れ衣だ。俺の手に余る相手だった」

 レイガスはあくびを噛み殺すように、間延びした声で答えた。

「次はもっと賢い標的がいい。自分から剣に突っ込んで死なないようなやつだ」

 支部長の額の皺が深くなる。

「……死体では、使い道が限られる」

「生きてたところで、吐くのは安酒と減らず口くらいだろ」

 レイガスは視線を袋から外し、天井の染みを眺めた。

 沈黙がひとつ落ちたあと、支部長は諦めたように机の上の紙束をめくり、計算を始めた。

「依頼書にある通り、生け捕りの場合の報酬は金貨百枚。首級のみの場合、四分の一……二十五。これに、これまでの別件の遅延分を加えて」

「細かい話はいい」

 レイガスが手をひらひらと振る。

「依頼書どおりなら文句はねえ」

 支部長は、そこでようやく男の顔を正面から見た。

 大抵の冒険者は、この場面で食い下がる。「命を張ったのだから」と値切り交渉を仕掛けてくる。しかし目の前の古巨人アルガーンは、釣銭の受け渡しをするのと同じ顔で、報酬の減額を受け入れていた。

「……物好きなやつだ」

 支部長は小さく呟き、革袋を引き出しから取り出した。金貨が当たって鳴る音が狭い部屋に響く。

 レイガスはそれを受け取ると、袋越しに重さだけ確かめて腰袋へ放り込んだ。

「ほかになにかあるか?」

「ない。……首はこっちで処理しておく」

「ああ、勝手にやってくれ」

 レイガスは立ち上がり、椅子がきしむ音も気にせず部屋を出た。



 ロビーは先ほどと同じように騒がしく、同じように汚れていた。

 掲示板の前で揉める若い連中、酒臭い息を吐く中年冒険者、疲れた顔の職員。

 レイガスは習慣で、依頼書が張り出された掲示板へ向かう。

 その途中、受付のほうからしゃがれた老婆の声が聞こえてきた。

「お願いだよ……お願いだから、誰かあいつを殺しておくれ……!」

「婆さん、ここはそういう所じゃないって言ってるだろ」

 若い職員のうんざりした声が返る。

「うちは魔物退治と護衛が商売なんだ。人殺しは……」

「どう違うってんだい!」

 老婆の絞り出すような叫びが、ロビーの空気を少しだけ固くした。

「盗賊なんぞ魔物と同じだ。息子を殺されて、家を焼かれて……あいつだけは……!」

 レイガスは、コートの襟を少しだけ上げて歩いた。

 受付の横を通り過ぎるとき、老婆の顔が目に入る。骨ばった手。赤くなった目。首筋に浮かぶ青い筋。

 その前に立ち止まることも、足を速めることもなく、レイガスはぽつりと言った。

「そいつなら死んだぞ、婆さん」

 老婆の肩が震えた。

「……え?」

「あんたの息子のカタキだ。もう死んだぞ。この目で見た」

 ようやく老婆がレイガスの方を見上げる。

 薄く濁った瞳と、黒い瞳が一瞬、正面からぶつかった。

「……本当かい」

「ああ。証拠がいるなら、ここのお偉いさんに聞いてみろ」

 レイガスはそこで視線を外し、人混みの中へ歩き出した。

 背後で、誰かが椅子を慌てて引く音がした。

「おお……神さま……!」

 老婆の膝が床につく鈍い音。すすり泣きと、途切れ途切れの祈りの言葉。

 レイガスはそれに構わず、掲示板の前に立った。

 いくつもの依頼が並んでいる。魔物討伐、迷宮探索、隊商護衛……どれも報酬は高額だが、参加する口も多い。その分報酬は減るし、なにより面倒が勝る。

 めぼしいモノも見つからず、その場を離れかけた時だ。

 ふと。

 掲示板の端に、一枚の安紙が目についた。

「水源地の魔物調査。ロードニア領、山村オルヴェ。報酬:銀貨二十枚」

 紙にはインクのにじんだ手書きの文字で、「子ども多数罹患」と追記されていた。

 レイガスは少しだけ紙を眺め、べり、と剥がした。

 散歩ついでにはちょうど良い依頼だった。



 山村オルヴェは、地図で見るよりも小さかった。

 痩せた斜面に張りつくように、木と土で組んだ家がいくつか。真ん中に、申し訳程度の広場と井戸。

 井戸の水は、薄く茶色く濁っていた。

 村の入り口には、誰も見張りがいない。その代わり、村の中を走り回る足音と、泣き声と、咳き込む音が、あちこちから聞こえてきた。

「熱は下がらない?」

「ええ。今は薬草を薄く煎じて……」

 女の声がした。

 レイガスが足を向けると、井戸の側で桶の水に手を浸している女がいる。灰色の粗い修道服は、ひざから下が泥塗れだ。

 女は桶から引き上げた布を固く絞った。それを、横たわる子どもの額にそっと押し当てた。その両掌が、不意に蛍のような淡い光を放つ。

聖炎アピトル……霊術エレジー使いか)

 レイガスは足音を殺したまま観察した。こんな僻地には過ぎた才能だ。立ち居振る舞いからしても、村の者ではあるまい。

 女が気配に気づき、振り向いた。

「あなたは……冒険者協会から?」

「ああ。レイガスという」

「良かった! こんなに早く来ていただけるなんて」

 駆け寄る女の、修道服越しのしなやかな線から視線を外し、レイガスは村全体を眺めた。土の匂いに混じって、病人の汗と、湿っぽい藁の匂いがする。

「水源の魔物調査、オルヴェ村。依頼人は村長とあったが」

「村長は、病人の家を回っています。私は――通りすがりですが、少しはお役に立てるかと」

 女は、胸の前で簡単に印を結んだ。聖柱教セラ・クティルの祝祷だ。それも古式ゆかしい正確な所作。

「マトゥーヤの神官か」

「よくご存知で。ミルファ・ムーンと申します。この村には、三日前から」

 レイガスは、女が握っていた布に目をやった。布の端は赤茶に染まっている。井戸の水も、同じような色をしていた。

「通りすがりにしては、ずいぶん泥だらけだな」

「ここを通りかかる馬車は滅多にありませんから」

 ミルファは、少しだけ笑った。

「それに……泥を嫌っていては、こういう仕事はできません」

 彼女の背後の家屋の中から、子どもの咳き込む声が聞こえた。そのたびに、ミルファの視線がそちらへ泳ぐ。

 レイガスは鼻を鳴らした。

「魔物は山の上の水源にいるらしい。見てくる」

「私も――」

「来るな」

 レイガスの声が、思ったより強く出た。

「魔物の相手は俺の仕事だ。あんたは泥遊びでも続けてろ」

「泥遊びではありません。奉仕活動です」

 ミルファはむっとした顔で言い返したが、レイガスはもう背を向けていた。村の外れにある獣道を、無言で登っていった。



 山の上の水源は、淀んだ沼の臭いがした。

 腐った卵と、濡れた犬の毛が混じったような湿った臭気。 石積みの堰によってせき止められた水面は、油を流したように重く濁っている。

 その堰の側面に、不自然な膨らみがへばりついていた。

 苔と粘液にまみれた皮膚。濁った眼球。 水棲の中級魔物だ。石の隙間に爪を立て、じっと獲物を待ち構えている。

 レイガスは剣を抜かなかった。 音もなく歩みを速め、魔物との間合いを一足で詰める。

 気配に気づいた魔物が、奇怪な声を上げて飛びかかろうとした。後ろ足が、堰の石積を強く蹴る。

 その瞬間だった。

 ボロッ、と鈍い音がして、石積みの一部が崩れ落ちた。

 踏ん張りが効かず、魔物の体が空中でわずかに泳ぐ。レイガスはその隙を見逃さなかった。

 だが、その手は拳を握り込んでいない。

(崩れるか? 山で溺死は笑えん)

 瞬時の判断。

 彼は殴打の軌道を止め、開いた掌で魔物の顔面を鷲掴みにした。勢いを殺さず、そのまま手首を強引に捻る。

 グジュッ、と湿った音が響いた。

 魔物は痙攣し、四肢をだらりと投げ出した。

 レイガスは汚れた雑巾でも捨てるように、死骸を水流から離れた場所へ放った。

 異形を蝕んでいた禍々しい何かが解け、宙空に消えるように霧散していく。あとに残ったのは巨大なヒキガエルの死骸だ。

「……堰で魔力が澱んだか? 魔境ってほどじゃねえ」

 ともあれ堰を塞ぐ障害物もなくなり、水が流れ始める。

 水音が少しだけ明るくなる。腐臭も、流れる風に薄まっていく。

 レイガスは、自分の掌に残った粘液を無造作に振るい、それから堰の壁面に目をやった。

 さっき、魔物が蹴った場所だ。

 石片が剥がれ落ちた箇所は、蜘蛛の網の如く走った亀裂の一角だ。

 かつては強固だったであろう石積みも、今はぎっしりと苔むしてひどく頼りない。指先で亀裂の入った石を押すと、ぐらり、と頼りなく揺れた。


(寿命だ)


 レイガスは、そう結論づけた。

 限界まで水を吸い、歪んだ石積みは、吐息ひとつで崩れる砂の城と同じだ。

 堰の上、遠くの空に細い雲が浮かんでいた。今はまだ白く、薄い。

(まあ、よほどの雨がなきゃ崩れんだろう。そもそも俺は石工じゃねえ、冒険者だ)

 レイガスは手を引き、踵を返した。

 中級魔物一体を討伐。付近に魔境の気配は無し。

 ただし再発の恐れはあり。老朽化した堰の改修か建て替えが必要。

 冒険者協会に報告するまでが彼の仕事だ。その内容を頭で整理しつつ、レイガスは帰路についた。



 村に戻ると、ミルファが井戸の側で膝をついていた。

 桶の中に布がいくつも沈んでいる。どれも赤茶色だ。

「どうでしたか」

 立ち上がりながら、ミルファが問う。

「一匹いた。殺して流れを戻した」

 レイガスは簡潔に答えた。

「じきに水も良くなるだろう。しばらくは煮沸して飲めと伝えろ」

 ミルファは安堵したように息を吐き、それからすぐに頷いた。

「村長さん、聞きましたね?」

 奥から出てきた初老の男が、深々と頭を下げた。

「本当に……本当にありがとうございました。礼は薄いが、村でできる限りのことは……」

「構わない。報酬は協会から受け取る」

 レイガスは、村長の言葉を穏やかに断った。

「病人を見てやれ。俺は行く」

 ミルファが、少し名残惜しそうにレイガスを見た。

「お気をつけて、レイガスさん」

「……あんたも、体を壊すなよ」

 彼はそれだけ言って、村を出た。

 太陽はもう山の縁にかかっている。獣道は影の中に沈み始めていた。夜道を恐れる者は多いが、レイガスにとっては慣れたものだ。

 それでも、さすがに。

 日も傾きかけた山道の途中で、異質なモノに出くわせば足もとまる。

「……おいガキ。こんなところで何してる」

 それはほんの少年だった。

 岩に腰をかけ、足をぶらぶらさせている。痩せた体に、季節外れの薄手の上着。

 顔立ちはどこにでも転がっているようなものだが、どこか輪郭が曖昧に見えた。

 レイガスは思わず足を止めたが、少年はこちらに顔を向けようともしない。

「ちっ、暗くなる前に家に帰れよ」

 言い残し、立ち去ろうとしたときだった。

「雨が降るよ」

 少年が言った。抑揚のない声だった。

 レイガスは再び足を止め、少年に向き直った。彼はこちらを見ようともしない。ただ遠くの空を眺めている。暗雲の立ち込める山向こうの空を。

「……ああ、降るだろうな。臭いでわかる」

 湿った土の匂い。遠くで鳴る雷の、まだ音にならない気配。

「大した雨じゃないといいがな。山道がぬかるむ」

「大雨だ」

 少年は同じ調子で言葉を継いだ。

「きみも見ただろう。あの堰は保たない」

 レイガスはハッとして、反射的に村の方角へ振り返る。

 その背に少年の声が続く。

「決壊するよ。あと一時間もない。村はどうなるだろうね」

「だからどうしろって……!」

 舌打ちを堪えて少年の方に向き直ると、そこには誰の姿もなかった。

 あたりを見渡しても一緒だ。風に揺れる草の音しかしない。

 レイガスは目を細め、少年が座っていた岩肌を一瞥した。

(何者かは知らんが……)

 一瞬、思考が深く沈む。動揺はあるが、考えるべきは別のことだ。

「ここから村まで十分。説得に十分。高い場所へ移動するのに、二十――いや三十か」

 レイガスは独り言ちた。軽い計算の確認のようだった。

「……チッ」

 今度は抑えなかった。乾いた舌打ちが、狭い山道に響く。

(一時間もない)

 頭の中で、少年の言葉が繰り返される。目を閉じなくても、堰の亀裂が浮かぶ。

(タダ働きもいいところだが、寝覚めが悪くて敵わん)

 レイガスは、村へ向かって駆け出した。



 村の広場には、さっきよりも人が出ていた。病人を運ぶ準備をしている者。井戸の水を汲む者。泣きじゃくる子を抱いた母親。

 ミルファは、子供の額に湿布代わりの布を当てていたが、レイガスの姿を見るとすぐに立ち上がった。

「……戻ってきたんですね」

 息を切らした様子にも驚いたのか、瞳が少し大きくなった。

「何かありましたか?」

「ある」

 レイガスは村の入り口の方を一度見て、息を整えずに言った。

「村を捨てて逃げろ。堰が持たない。雨が来る。でかいのだ」

 村人たちのざわめきが、一瞬だけ止まる。

「何を……」

 村長が困惑顔で近づいてきた。

「今日は晴れてますよ。雨なんて……」

「空を見ろ」

 レイガスが顎で指した先、山の上空にはもう暗い雲がかかり始めていた。まだぽつりとも落ちてこないが、雷鳴の前の重苦しさが、村全体を覆い始めている。

「堰には亀裂が入ってる。あれで大雨を受けたら、ひとたまりもねえ」

「だからといって、村を捨てるだなんて……」

 村長の声は、恐怖ではなく、信じたくない気持ちで震えていた。

 レイガスは彼の袖をつかんだ。力は込めていない。それでも、村長の体は少し前につんのめった。

「ただの勘じゃない、この目で見た。さっさと逃げなきゃ、一時間後には水底だぞ」

「いや、しかし……」

「レイガスさん」

 ミルファが一歩前に出た。

 レイガスの顔をじっと見つめる。

「本当に危ないんですね」

 レイガスはその視線を受け止め、短く頷いた。

「絶対、とは言わん。だが命を張った賭けにしちゃ分が悪すぎる」

 ミルファはしばらく目を閉じた。祈っているのか、考えているのか、レイガスには判断がつかなかった。

 やがて彼女は目を開け、村人たちの方を向いた。

「皆さん、聞いて下さい!」

 その声は、さっき広場で見た時よりもずっと大きく、強かった。修道服の裾から滴る泥も、髪の乱れも、その瞬間には誰の目にも入らない。

「山の堰が持ちません! このままでは、水が村を飲み込みます!」

 村人たちの顔に、疑いと不安が混ざった色が浮かぶ。

「本当に……?」

「そんな話、聞いてないぞ」

「うちには寝たきりの婆さんがいるんだ、今すぐ逃げろって言われても……」

 いくつもの声が重なった。

「いいですか」

 ほつれた髪の奥で、強い光のこもった瞳が、村人たちひとりひとりを見据える。

「いま、何もせずに水が来なかったら、あとで笑い話にすればいい。『余所者の早とちりだった』と! でも、もし水が来たら――その時はもう、誰も笑えません!」

 朗々と澄み渡るような、しかし力強い声。

 雷鳴の代わりに、遠くで鳥が一声鳴いた。

「命は、家より重い! 倉庫より、家畜より、畑よりも重い! 今は、それだけを信じて下さい!」

 村長が、ゆっくりと息を吐いた。その肩が少しだけ落ちる。

「……高台の社がある。あそこなら、水は来まい」

「そこまで、どのくらいかかる」

「急いで、子供を抱えて行けば……二十五分か、三十分」

「なら、走れ」

 レイガスは言った。

「今すぐだ。荷物は要らねえ。布団も家具も置いてけ」

 誰かが抗議しかけたが、それを遮ったのはミルファだった。

「レイガスさんの言う通りです。荷物は後からでいい。今はとにかく、足を動かして!」

 最初の一人が走った。

 それにつられて、二人、三人と動き出す。寝たきりの老人を担ぐ若者。泣きじゃくる子を抱いたまま走る母親。戸を閉める暇もなく飛び出してくる者。

 ミルファは最後まで広場に残り、遅れる者がないか確かめていた。

 だが、不意にその表情が凍りついた。

「いない……!」

「何がだ」

「子どもがひとり、列にいないんです!」

「確かか?」

「治療の際に繋いだ魔力がまだ残ってます、間違いありません!」

 ミルファは躊躇なく、泥だらけの地面に片膝をついた。

 その両掌を青白い光が包む。聖炎アピトル霊術エレジーの鼓動だ。

「――〘血路〙」

 彼女の視界の中でだけ、光が走ったようだった。

 ミルファはバッと顔を上げ、村外れの納屋を指差した。

「あそこです! まだ反応がある!」

 レイガスは小さく舌打ちし、走り出したミルファの後を追った。

 納屋は、今にも倒れそうに傾いていた。中には高熱でうなされ、動けなくなった少年が一人。

 ミルファが駆け寄り、抱き起こそうとした瞬間。

 メリメリと音がして、頭上の梁が折れた。

 太い木材が、ミルファと少年の頭上へ落下する。

「危ない!」

 レイガスが踏み込もうとしたが、間に合わない。

 だが、ミルファは悲鳴を上げなかった。

 少年を抱きすくめたまま、片手を頭上へ突き上げる。

「〘聖盾〙!」

 ガガンッ! と硬質な音が響いた。

 空中に展開された半透明の光の盾が、数百キロはある木材を完璧に受け止めていた。

 幾何学模様の光列に亀裂が走るが、砕けない。その隙に、レイガスは彼女の襟首を掴んで強引に引きずり出した。

 直後、納屋が完全に崩落した。

「……その術が使えるやつを見るのは二度目だ」

 レイガスは少年の体をひったくり、小脇に抱えながら言った。

「前に見たのは、あんたの三倍は生きてるようなやつだったがな」

「付け焼き刃です……思ったより疲れるものですね」

 言葉に嘘はないのだろう。いまにも倒れそうな疲労が見て取れる。

「ち、動けるか?」

「はい、なんとか……」

 その時、轟音が背中を叩いた。

「来るぞ!」

 山の方角から、白く濁った壁が現れた。水だ。一気に村へと雪崩れ込んでくる。

 高台までは、まだ距離がある。

「チッ、足が遅え!」

 レイガスは空いているもう片方の腕で、ミルファの腰を乱暴にかっさらった。右脇に子供、左脇に神官。荷物としては最悪だ。

「ちょっ、レイガスさん!?」

「舌を噛むぞ、黙ってろ!」

 ぬかるんだ坂道を、全速力で駆ける。

 だが、背後の水音は秒ごとに近づいてくる。足元の泥が靴を掴み、体力を削っていく。

(間に合うか……?)

 レイガスの脚に、鉛のような疲労が溜まり始めた瞬間だった。

 ドクン、と心臓が強く跳ねた。

 いや、違う。全身の血管が焼き切れるような熱さと共に、泥の重みが消えた。筋肉が軋みを上げ、限界を超えた速度で地面を蹴る。

「……おい」

 レイガスは走りながら、低い声で唸った。

「勝手なことしやがって。俺の体に何をした?」

 脇に抱えられたミルファが、必死の形相で叫び返した。

「〘祝福〙と〘肉体強化〙です! 文句なら後で聞きます!」

「余計な真似だ、感覚が狂う!」

「私だって死にたくはありません! 急いで!」

 レイガスは獰猛に笑い、さらに加速した。人間離れした跳躍で、倒木を飛び越え、岩場を駆け上がる。

 濁流が、わずか数メートル後ろを通り過ぎていく。水飛沫がブーツの踵を濡らしたが、それだけだった。



 高台の社に到着すると、人々は白く濁った壁を眺めていた。

 無慈悲な水の暴力は、土と石と折れた木を巻き込みながら、堰のあったあたりを押しつぶし、そこから一気に村へと雪崩れ込んだ。

 家が一軒、音もなく持ち上がり、流された。その後を追うように、もう一軒。畑の低い垣根は、跡形もなく消えた。

 雨でぼやけた視界の中で、村が崩れていく。

 誰も言葉を持たなかった。泣き声も、怒号も、今はない。

 ただ、そこにあったはずの生活が、茶色い水の下へ沈んでいくのを、皆が黙って見ていた。

 やがて水は勢いを失い、流れが細くなり始める。

 雨音だけが残った。

「……助かりましたね」

 ミルファが誰にともなく言った。

「ここにいる全員が、助かった」

 彼女の言葉に、押し殺していた嗚咽があちこちから漏れ始めた。子どもが泣き、母親がそれを抱きしめる。

「畑も家も失って、これからどうやって生きていけば……」

 大男が巨体を縮こまらせ、顔面を覆っている。娘だろうか。傍らに寄り添う少女が父の太い腕をさすっている。

「南の石蔵は無事だぞ。当面は食える」

「あんなんはすぐ無うなる。森に入らにゃなるめぇ」

「なんだってあたしらがこんな目に……」

 徐々に、徐々に。村人たちの吐露がどよめきとなる。それは必ずしも悲嘆にくれるものばかりではない。

 だがその中で、低い声がひとつ、ぽつりと落ちた。

「……あいつが来たからだ」

 レイガスは、それを聞いた。

「何だって?」

 別の男が問い返す。

「あの古巨人アルガーンが来て、山に入って、戻ってきた途端にこれだ。堰を壊したのは本当はあいつなんじゃねえか」

「ばかなことを!」

 ミルファが振り向いた。

 顔に泥がついたまま、瞳だけが怒りで光っている。

「彼が知らせなければ、今ごろあなたたちは――」

 レイガスは、ミルファの肩に手を置いた。

「いい」

 一言だけ、それだけ言った。

 ミルファが驚いて彼を見上げる。

 レイガスの顔には、怒りも、悔しさもなかった。ただ、どこか遠くを見る目をしている。

「言わせておけ。腹が減るわけでもねえ」

 彼はこきこきと肩を鳴らし、あくび混じりに言った。

「仕事は終わった。ここから先は、村の仕事だ」

 振り返ることなく、社の石段を下る。雨脚は弱まっていなかった。

 ミルファが慌てて横に並ぶ。

「どこへ行くつもりですか」

「街に帰る。そして次の仕事を探す」

 細いため息が漏れた。

「今の言葉を、真に受ける必要はありません。彼らは……」

「真に受けちゃいない。余所者ってのは丁度いい的だからな」

「それは……いえ、それでも」

 ミルファは、唇を噛んだ。

「あなたがいなければ、彼らも私も、ここにいなかった」

「そうかもな。だから?」

 ミルファは答えに詰まった。

 山の下からは、まだかすかに水の奔流の音が聞こえていた。家を砕き、畑を流した破壊の音だ。

 だが、人の悲鳴はもう聞こえない。

「あなたは、それでいいんですか。誰からも――」

 レイガスは立ち止まり、片手を上げて、その先を遮った。聞き飽きた問いだ、と言わんばかりに。

「感謝なら神さまにでもしろ。それがやつらの仕事だ」

 レイガスは懐を軽く叩いた。チャリ、と硬い音が鳴った。

「俺は街で報酬を受け取る。美味い飯をたらふく食って、上等な宿でぐっすり寝る。それだけだ」

 いつの間にか、空の端には雲の切れ間。そこから細い月が覗いている。

「……そう、ですか」

 ミルファはふと目を伏せた。それで話が終わったのだろう。

「じゃあな」

 レイガスは再び歩き出した。懐の金貨が、歩みに合わせてかすかに鳴る。その重みは、いつもと同じだった。

 ミルファは去りゆく背に丁寧にお辞儀をした。レイガスは振り返らず山道を下っていく。

 その光景を、雲間の月が静かに見下ろしていた。

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