闇に祈れど

海原望(うみはら・のぞむ)

第1話-満ちた月


 お手紙ありがとう。エアメールなんてはじめて貰いました。

 異国語のリターンアドレスにも、見慣れない切手や消印にも、はるばる海を越えてあなたの思いが届いたという事実にさえも、御伽噺めいた不思議を感じます。

 なによりも、あなたの言葉の優しさに驚きました。上辺だけのいたわりなんて要らない、とふてくされて封を開けたはずだったのに、却って自分の心の汚らしさに気づかされたくらいでした。

 冷たいだけの人ではないと信じていたけれど、あんなにもあたたかく、まっすぐに、私を案じてくれていただなんて。


 あなたの手書きの文字を見るのも本当に久しぶりでした。あんなにかわいらしい筆跡だった?

 でもよく見れば、強い筆圧が頑固そうで、太いペンの書き味がぶっきらぼうで、あなたらしい気もします。

 ひと文字ひと文字、精一杯丁寧に書いてくれたのが伝わってきて、せっかちなあなたにとっては神経のすり減る作業だったんじゃないか、なんて想像しました。

 私の思いも、ちゃんとあなたに届くのかしら。

 遠い国のあなたの生活に、一通の手紙がそっと割り込むところを想像すると、なぜだか涙が出てきます。


 まず、旅立つあなたに投げた数々の言葉について、謝らなければなりませんね。

 卑怯なすがり方でした。取り返しのつかない深い傷を負わせてしまうことはわかっていましたが、そうせずにはいられなかったのです。こんな時に、大切な仕事のためとはいえ、遠くへ行ってしまうなんて。

 逃げられた、見捨てられたと思ってしまうのも、仕方ないことでしょう?

 私にだって、自分自身がどれだけ重く、痛々しく、背負いきれない存在であるか、充分にわかっていました。でも、だからこそ、あなたを潰してしまってもいいから、背負われたかった。

 死を宣告されるというのは、そういうことです。


 人間は誰しも死ぬというのは最初からわかっていて、ただ期限を明確に切られただけなのに、どうしてこんなに胸苦しく、人恋しくなってしまうんでしょうか。

 診断を下された瞬間から、自分がこの世で最も弱い、みじめな存在になった気がしました。

 ちょうど夏の終わり、アスファルトの上に転がって震える蝉の腹を見るたび、得体の知れない恥じらいと苛立ちで、頭が真っ白になったものです。

 急に優しくなった家族や友人たち。私もありとあらゆる甘やかしを受け入れました。どうせすぐに死んでしまう、この世で一番儚い存在なのですから、うんとわがままを言うことにしました。

 だから、一番強く願ったわがままが叶わないと知った時、私はあんなにも取り乱したのです。

 なにもかぐや姫じみた無理難題ではありません。あなたにとってはたやすい、それどころか当たり前のことだとすら思っていました。

 できる限り恋人のそばにいる、なんて、命と引き換えの最後の望みとしては、あまりにささやかだと思いませんか。それなのに、どうして叶えてくれないの?

 私は死ぬまでのたった数ヶ月、我慢なんて一切したくなかった。ささやかな幸せというやつにくるまれて、心安らかに旅立ちたかったんです。そんな思いが、行き場を失ってあなたを傷つけました。


 でも、今の私は、あなたにすがってしまったのは仕方のないことだとも思う一方で、自分の死という大きな悲劇を利用して束縛した汚らしさも自覚しています。

 あなたは、私の誇りを愛してくれたからこそ、死を盾にして依存する姿を見たくなかったんでしょう。

 私たちの間には、いつだって信頼と尊重があったし、必ず本音で語りあってきました。

 でも、こんなときにそばにいたら、きっとお互いたくさん嘘をつかなくてはならない。

 悲しみや不安を押し隠したり、ひどい八つ当たりに大丈夫だよと微笑んでみせたり、たいしてつらくない時に苦しんで、ケアを要求したり。

 そんなの、疲れるだけよね。それどころか、これまでの美しい思い出が台無しになってしまうかも。

 きっとあなたは逃げたわけでも見捨てたわけでもなく、別れを惜しむのにちょうどいい距離をとってくれただけ。

 あなたはあなたらしく振る舞ったのに、私は、私らしくなかった。

 そういうことなんでしょう。

 本当に迷惑をかけましたね。でも、もう大丈夫です。


 あなたの手紙を読んだ昨日は、満月でした。

 あなたの優しい言葉がわだかまりをほどいてくれたせいか、真ん丸い月が、あたたかい思いではちきれそうな自分自身のように思えました。

 この手紙を書いている今夜も福々しい月が浮かんでいますが、当然それはほんの少しだけ欠けたものなのでしょう。明日の月は目にわかるほどいびつなものだろう、明後日の月はもはや丸くはないのだろう

 そう何気なく想像した時、私は本当に自分の「死」がはじまったのだと悟りました。

 ちょうど、余命はあと半月ほどなのです。

 私はあの月といっしょに、ゆっくりとやせ細り、闇に呑まれて、やがて新月の静けさにかき消えることでしょう。

 これまでは、ドラマでよく見るような悲劇の一種が自分に訪れた、くらいの認識でした。だから取り乱すなんて無駄なことができたのでしょうけど。

 まるで、はるか高みから落下している人が、ようやく見えてきた地表に、これは「浮遊」じゃなくて「墜落」だと気づいて息を呑むような。でも、まだまだ地上は遠いから、焦りや恐怖はどこか遠い、みたいな。

 今はそんな間の抜けた、空っぽな気分です。


 怖くないと言えば嘘になるけど、大丈夫。

 幸い、まだ時間はあります。まだまだ新月の夜は遠い。覚悟を固めるには、十分な猶予です。


 最後に優しい言葉をくれて、本当にありがとう。

 遠い国での生活が、あなたにたくさんの幸せを与えることを祈っています。

 それでは、さようなら。



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