ESCAPE FUND

喜多殿

第1話 逃避準備

スマートフォンが震えたのは、朝の通勤電車の中だった。


――知らない送信元。


無視しようとして、画面に表示された一文で指が止まる。


【ESCAPE FUND ご参加のご案内】


心臓が一拍、遅れた。


冗談だろ、と思った。

いや、冗談であってほしかった。


相馬は吊革を握ったまま、通知を開く。


この度は、金融娯楽企画〈ESCAPE FUND〉に

ご応募いただき、誠にありがとうございます。


抽選の結果、あなたはプレイヤーとして選出されました。


頭の中が、すっと冷える。


数週間前、深夜テンションで応募した記憶が、ようやく蘇った。

「逃げ切れば賞金がもらえる」

そんな、動画企画みたいな募集ページだった。


――まさか、本当に当たるとは思っていなかった。

奨学金の返済通知は、今月も容赦なく届いていた。

一括で返せるほどの金があれば――

そんな妄想を、一度もしたことがないわけじゃない。


次の文面を読んだ瞬間、背中に汗がにじむ。


開始日時:8月20日 午前10時

集合場所:別途通知


※本企画は、賞金獲得を目的としたゲームです。



電車が駅に滑り込む。

ドアが開き、人の流れに押されながら、相馬は通知を閉じた。


逃げ切れば、賞金。


悪くない話だった。


電車を降りたあとも、通知の文面が頭から離れなかった。


集合場所は、都内のイベント用スタジオだった。

受付を済ませると、黒い箱を手渡される。

中身は、無骨な腕時計が一つ。


「こちら、ESCAPE FUND専用端末です」


説明役の女性は、やけに明るい声で言った。


「この腕時計に、皆さんの現在の所持金が表示されます。

ゲーム期間中のミッション報酬の付与、ペナルティの徴収、支払い――

すべて、この端末を通して行われます」


相馬は腕時計を装着する。

画面が点灯し、数字が表示された。


残高:¥0


スタジオには、すでに数人の参加者が集まっていた。


落ち着きなく辺りを見回す男。

やけに余裕そうな中年。

スマホで自撮りをしている女性。

そして、場の空気を楽しむように笑っている若い男。


――こいつらと、一週間。


相馬は、喉の奥が乾くのを感じた。


そのとき、スタジオの照明が一段階落ちる。

正面のモニターが点灯し、ロゴが映し出された。


ESCAPE FUND


その下に、明るい文字が踊る。


1週間逃げ切れば賞金ゲット


場違いなほど、軽いコピーだった。

誰かが、小さく笑った。

誰かが、息を呑んだ。

相馬は、自分の腕時計にもう一度目を落とす。

残高は、まだゼロのままだ。


モニターに映る軽いコピーと、

手元の無機質な数字。


その落差が、ひどく現実的だった。


――ここから増えるのか。

それとも、何も手に入らないまま終わるのか。


答えを知るには、

一週間、逃げ切るしかない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る