パンスペルミアの宇宙枕(3)
キリール・カラマーゾフは、ズヴェズダ・サービス・モジュールから、はるばる第3結合部まで移動した。青色と金色が眩しいエクササイズ装置を展開して、トレーニング項目の相撲スクワットをこなす。無重力環境では、股関節に負荷をかけるのが大事なのだ。ロスコスモスで働いて二十年になる。ISSの遠征クルーに選ばれたこと自体はこの上ない名誉だったが、まずい時期に宇宙空間に来たものである。
なにしろ、地球はエイリアンとのファースト・コンタクトに湧いていた。世界の十一テレビ局が同時にジャックされ、地表に不発爆弾を落としたゼリー人間が、スタジオから蒸発したのだ――せっかく宇宙飛行士になった途端に、入れ違いになるとは!
だが、この事件が本当に宇宙人の仕業なのかは、NASAとロスコスモスで意見が割れていた。ロシア連邦宇宙局長官の補佐官は、事件背後に大掛かりな諜報作戦の気配を察知し、こうした国際的な深謀遠慮に不慣れに決まっているカナダ宇宙庁の乗組員たちを、異常にコクのある宇宙食のラッソーリニク・スープで味方に引き込めと十三ページ半にわたる極秘指令を送ってきた。
キリールは体幹を半回転させて、ベンチプレスに移行した。そのとき、眼前にきたキューポラの七枚の窓のなかで、燃えるような赤い描線が、地球との狭間を横切った。
それは髪の毛だった。燃えるような赤毛だ。
EVAではない! 宇宙服も着ていない人間が、いや、人間であればだが――ISS外殻の金色の把手を掴んで、宇宙空間に浮かんでいる。赤毛の女は(若い女性に見えた)、トラックジャケットの下に履いているぶかぶかのショートパンツからメモ帳と鉛筆を出した。キリールは窓に接近した。赤毛の女は、把手にスニーカーをねじ入れ、どうにか両手で文字を書きあげ、窓越しにメモ帳を押しつけた。
――〝Hello. My name is Experion.〟
キリールもメモ帳を持っていた。
返事を書いて、窓越しに文字を見せた。
――〝Hello. My name is Kirill Karamazov. Where are you from?〟
赤毛の女はすこし考え、続きのメッセージを書いた。
――〝Do you know where my sister and my pet went?〟
八禍本透が跳ね起きたとき、部室には制服姿のゼリー人間・ピュモリがいて、三上先生と囲碁を打っていた。ピュモリは武宮正樹ばりの宇宙流で大模様を展開しており、三上先生はカタツキから敵地を大きく消しにかかったところである。
「黒崎先輩」八禍本がいった。「頬をつねってもらえませんか」
黒崎先輩は、八禍本と、部屋隅の少年掃除機の頬を同時につねった。
「ふええ」
「僕は関係ないじゃないですか?」と掃除機。
「対照実験でさ」
「夢ではない!」八禍本がいった。「でも……どうしてピュモリが部室に? さっき、私の夢には出てきましたけど……どうして実在しているんですか?」
炬燵でパソコンをいじっていた速水傾城が、怪訝そうに顔をあげた。
三上先生も眉をしかめる。
「三上先生、黒崎先輩、速水さん」八禍本は一同を見回した。「奇妙に聞こえるでしょうが――このピュモリさんを、いつから知っていますか?」
先輩たちが、顔を見合わせた。やがて、黒崎先輩がスマホで歓迎会の写真を見せてくる。八禍本透が、ドクターペッパー道部に入部した日の写真だ。八禍本の隣で、ピュモリが肩を組んでいる。
「ピュモリさんは、八禍本さんと一緒に、この部活にお入りなすったんで」
おかしい。決定的におかしい。私はこの部活に、ひとりで入部したのだ。だが――必ずしも奇妙だとは言い切れない気分もあった。ピュモリはずっと、私の隣にいたんじゃないだろうか? 両親が海洋機構から帰るなり、急にホームステイ相手を紹介したような。一緒に皿洗いをしたり、靴べらを渡されたり、鳴海岳に爆撃地帯の調査に行くときも同行していた……気が、しないでもない。
「でも、やっぱりおかしいですよ。それだと――ピュモリ星人の侵略が始まる前から、ピュモリが部活にいたってことになりますよね?」
「確かにそうなるね」速水がいった。「なにか変だ」
「そのことを、誰も疑問に思わなかったんですか?」
「通常、人間は過去の整合性など考えない」三上先生が腕組みをした。「それが起こったということは、起こりえたということだ。過去に矛盾などないはずじゃないか?」
「その点は、私から説明します」ピュモリがいった。「さっき八禍本さんは、この枕で寝たとき、夢を見たでしょう――夢で私に会いましたよね?」
「ええ」
「そのとき、この世界に私を印刷したんですよ。私は虚数次元の情報生命体で、みなさんのいる実次元に投射印刷されたときに、実体としての生命をもちます。つい二二〇秒ほど前、私は八禍本さんの思考により産まれました。過去にわたって印刷が行われたことで、過去が改変されたように感じているのでしょう。しかし、記憶の混濁は一時的なもので、やがて馴染んでくると思います」
「つまり――ピュモリは、私が夢で見たから、現実にやってきたの?」
「元々の世界に存在が上書きされたんです。多重露光の写真のように」
「では、この枕は」三上先生がいった。「夢で見たものを現実化できるのか?」
「たぶん」
「それが、潜性パンスペルミア文化爆弾の威力なんだな?」
「ぜんぜん違います」
ピュモリは部員一同を連れて、文化棟の非常階段から屋上に登った。
爆心地の鳴海岳は、なにやら様子が変貌していた。直径4㎞にわたる水色の霧が山頂一帯を覆っている。速水傾城がブラウザのタブを遷移させて、世界のニュースを確認した。パンタナル湿地でも、フリーステイト・スタジアムでも、ゴビ砂漠でも……様子は同じだった。
水色の霧が、世界各地の爆心地を覆っている。
ポケットのやけに多いアースカラーの多機能ジャケットを着た海外特派員たちが、のちに人類がアルカナ・アーティファクトと総称するものの続報を、徐々に伝えはじめた。
それらは、ぶかぶか錫杖、落ち着きのない真菰、うちわ、チェックシート付き単語カード、バナナの皮、保温済み寿司桶、バイシクル・カード、幻獣の島の南部に見られる水、飲み忘れた薬、忘れがたいフォーク、救済とその詩学、儀星球セレミスフィア、『月曜日の友達』(全2巻)、使い勝手のある消しゴム――などと各地の言葉で呼ばれた。まだまだ沢山あった。
爆心地から発見された特筆すべき物体群のうち、ドクターペッパー道部の部員を増やした枕は、もっとも平凡なものといってよかった。
「いったい、なにが始まるんですか」八禍本がいった。
「ヴィスィフローズは、アルハザード銀河団で得体の知れない実験ばかりやっています」ピュモリがいった。「一般市民には、たいして情報は開示されません」
八禍本透は、恐竜柄のフード付きパジャマに袖を通した――なぜパジャマの恐竜は決まって黄緑色なのだろう? 三上先生は甚平風の紺色、黒崎先輩は目が死んでいるうさぎの耳付き、速水傾城は蓄光プリント付きのボーダー柄で、パジャマの上からもやはり白衣を着ている。
マヤ文字がびっしりと記されたモノトーンのパジャマに着替えた、ソンブレロ姿のピュモリが、煙草サイズの円筒機器でAC/DCのアルバムを流しはじめたので、つられたドクターペッパー道部の一同は、〈サンダーストラック〉を高らかに熱唱しはじめた。歌い終えた頃には息もぜいぜいだったが、選曲者について議論になることはなかった。普段通りのピュモリのセンスだったからだ。
パジャマに着替えた部員たちは、めいめいが枕を持った。蕎麦殻、低反発ウレタン、冷却ジェル入りもちもち素材、マイクロビーズ、そして――八禍本透が、問題の宇宙枕を構えた。
「悪夢ひとつで人類史が終わるかもしれん」三上先生がいった。「宇宙枕は、潜在的に核兵器なみの危険性がある。潜性パンスペルミア文化爆弾の爆心地は、おそらく日本政府の管理化におかれる。そこに枕が置かれるのが、将来的にはもっとも安全だろう。そういうわけで――われわれは、鳴海岳の春原天文台に枕を戻しにいく」
「どうしてパジャマ姿に?」八禍本がきいた。
「ハイキングに枕を持っていったら不自然だろう。全員がパジャマに着替えることで、宇宙枕の存在が相対的に目立たなくなるのだ。木を隠すなら森の中だな」
鳴海岳のハイキング・コース手前の道路は、即席の検問ブースに交通コーンが連ねられ、陸上自衛隊の73式中型トラックがずらりと構えていた。パジャマの五人組が水色の霧にまぎれて蔦を登り、山裾のコンクリート擁壁から侵入する。行軍中の小隊をピュモリが枕投げで薙ぎ払ったせいで、89式小銃が掃射される一幕もあったが、どうにか春原天文台まで辿りついた。
「帰り道のほうが大変そうだな」と三上先生。
「姉さんのペットを呼んでみます」ピュモリが口笛を吹いた。「来てくれますかね?」
天文台のドーム屋根が崩落して、ペットが出現した。その腐爛した触手に覆われた、奇怪きわまる下半身を見たとき、八禍本はあっさりと気絶した。だが、持っていた宇宙枕が丁度いいクッションになってくれた。観測床に昏倒した八禍本は、淡い夢を見始めた。部員たちが八禍本を起こそうと右尻を執拗に蹴りはじめたせいで、その夢は明確に悪夢と化しつつあった。ペットが申し訳なさそうに頭を垂れる。硬化した頭蓋の天辺には、燃えるような赤毛の女があぐらをかいていた。
「姉さん!」ピュモリがいった。「どうしてここに?」
「ピュモリ!」エクスペリオンがいった。「どうして私のペットを勝手によその星に放つの?」
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