天翳なき瞳 ――禊の旅路を歩む者――

@etu0815

第1話「銀月の下、少年は歩く」

月が、濁った雲の裂け目からわずかに顔を覗かせた。

朽ちた街並みに銀色の翳りを落とし、腐臭と鉄錆を混ぜた風が軋む扉を鳴らす。割れた窓硝子が震え、風に紛れてかすれた呻きが闇に消えていく。


ここは〈アノヴェス〉。

澱影の国〈エイジウェイ〉の辺境、行政すら放棄した無法地帯。

犯罪と貧困の澱が溜まり、影と死が交わる場所。生者と死者の区別が曖昧な、夜の底。


そして今宵、その暗がりの底に、新たな“死”がまた一つ、重なろうとしていた。


──


少年は歩いていた。


まだ十二、三に見えるその身体には、不釣り合いなほどの沈黙と空白がまとわりついている。

頬はこけ、腕は骨ばっている。だが、目は濁っていない。

ただ、その視線はどこにも焦点を合わせていなかった。


まるで人の姿をしながら、人の生を歩んでいないような足取り。

舗道の隙間に咲く名もなき花にも目を向けず、路地裏の影に横たわる亡骸にも怯えを見せない。

無表情のまま、足音を立てず、ただ歩く。


歩く理由も、向かう先も、少年の中にはない。

けれど、足は止まらない。


“歩き続けろ”──その命令だけが、身体の奥深くに染みついている。

命令の主はもういないのに。


胸の奥は、冷たい。

感情は削がれ、思考は曇り、ただ“生きること”すら忘れたまま、少年は夜を彷徨っていた。


──


そのとき。


路地の奥で音が弾けた。

乾いた破裂音。鉄の軋み。短く潰れた悲鳴。


街の闇に、ひとしずくの死が落ちた音だった。


少年は足を止めた。

しかし、目の奥には光はない。心の表面すら波立たない。


ただ、音の方向を認識し、機械のように身体を向けた。


──


同時刻。


アーデンは、夜の帳を裂いていた。

滑るように屋根から屋根へと跳躍し、月光に身を晒すこともなく、風すら欺く静寂の中を走る。


彼は〈ルフ=アルヴェス〉──闇のギルドの一角に属する熟練の暗殺者にしてその名を知る者は少ない。

だが、知る者の多くは、すでにこの世にいない。


今宵の標的は、赤封筒に記された者たち。

裏薬物と奴隷売買で成り上がった夫婦。

命の値は金で買えると信じたその代償が、まさに今、払われようとしていた。


──


目指す家に着いた時、アーデンの気配は影すらも感じさせなかった。

絢爛な絨毯、琥珀色の燭台、過剰な香料。

外観の粗末さとは裏腹の虚飾は、彼らの成り上がりの浅さを如実に物語っている。


護衛の気配を壁越しに察知しながらも、彼の手は迷わない。

刃が一閃する──音すら許さぬ速さで、男と女は崩れ落ちた。


血の匂いが立ち昇り、部屋の中から命の気配が消える。任務は、完遂した。


──その刹那。


「……だれ?」


か細い声が、扉の向こうから漏れた。

震えているようで、震えていない、不思議な声。


アーデンの背が僅かに強張る。

無音のまま扉を押し開けると──


一人の少年が立っていた。


痩せた身体に、布切れのような寝間着。

命令されるまま、部屋の隅に置かれたまま、ただ生き延びていた存在。


だが、その瞳だけが異質だった。


怯えも、涙も、怒りもない。

静かに澄んだ青が、真っ直ぐにアーデンを見据えている。


まるで、すべてを受け入れているかのように。


一瞬、アーデンの心に亀裂が走る。

その瞳に見られた瞬間、己の“人間性”が暴かれる気がした。


赤封筒の命令は、「家族皆殺し」。

ならば──この子も、殺さねばならない。


だが、刃が動かない。


無数の命を断ってきた手が、いまだけ震えている。


──


「……お父さんとお母さん、悪いこと……してたの?」


それは、誰かを責めるでもない。

ただ夜に向けて投げられた言葉。


だが、アーデンの胸を刺した。


この子は、知っている。

大人の罪も、自分の運命も。

それでも、責めない。泣かない。

ただ、受け入れている。


その姿が、あまりにも──壊れすぎていた。


背後から気配。

護衛の一人が踏み込む。


アーデンは刃を振るい、何の迷いもなく血を散らした。

だが、少年は動かない。ただ、その青い瞳で彼を見ていた。


その目が問いかけている。


──お前は、それでも「人間」か?


──


「……名前は?」


意図せず、言葉がこぼれた。


「……アーロン。」


その瞬間、アーデンの中で何かが崩れた。


懐から、封印札を取り出す。

血の魔紋が刻まれた、《沈影の結界》。

痕跡抹消の禁術。

だが今、それは“保護”のために使われる。


「──《沈影の結界》。」


淡い光が部屋を包み、音も、気配も、空間そのものが封じられていく。


──


「来い、アーロン。」


少年は小さく頷き、裸足のまま男の背を追った。


名もなき裏通りで交わされた出会い。

それが、やがて世界の均衡を揺るがす“禊の旅”の始まりになることを、

このとき、誰も知らなかった。


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