正しい判断
空木 透(うつぎ とおる)
正しい判断
私は物語の中で、主役じゃなかった。
名前を呼ばれることも、クラスの中心に立つこともない、どこにでもいる生徒Cだった。
毎朝出席確認に担任が教壇に立ち、名前順に生徒の名前を呼んでいく。たとえ、私の名前だけが、まるですれ違った人がハンカチを落とし、
「すみません」
と声をかけるくらいの声量だったとしても、教室の外のセミたちの鳴き声に全てを葬られてしまうような。
それでもいい。いや、それでもよかった。それでも私には使命感という厄介なものがあって、どうしても書き残しておかなければならないと思った。忘れたふりをするのには、あまりにも静かに終わりすぎたのだ。
あの校舎を嫌という程見る日常に終わりを告げ、ずいぶんと時間が経った。今日のいま、もう先生の名前を呼ぶ理由すらない。それでも私は、あの文化祭を思い出す。私は何もしなかった。声を上げた記憶も、誰かを救った記憶もない。それでも、何もなかったとは言えない。
幕が閉じたあとに、ようやく始まった物語なのだから。
*
父といる時間だけが私の世界だった。町工場で働きながら、私を一人で育てた父を私は誇りに思っている。決して裕福ではないが、貧乏というほどでもない。父は決まって毎朝母の遺影に手を合わせ、愛する人を見つめる優しい声で、
「行ってきます」
と微笑みかける。まるで、母がそこにいるみたいに。もうそこには母も、誰もいないのに。父は、決められた時間に決められたことをする人だった。朝のこの恒例行事も、言ってしまえばルーティーンのようなものだ。それは間違っていることではなかったが、母は違ったな、と感じながら、もう誰も使っていない部屋をふと見てしまう。
私が父のように愛を知るまでには少しばかりの時間がかかった。昔から勉強も部活も、何一つ夢中になれるものがなかった。何かに必死になれるほど器用じゃなくて、かといって諦めきれるほど割り切れてもいなかった。それでも、先生だけは私を見てくれていた。
成績表を渡すとき。文化祭の準備で教室がざわつく中、廊下ですれ違ったとき。ほんの一言、
「最近はどう?」
ときいてもらえるだけで、私の一日は少しだけ救われた。
朝挨拶を交わすだけの上辺だけの友達しかいなくても、下校中話しかけた野良猫に引っかかれても、周りが家で友達やら恋人やらと通話やチャットをする時間に、公式からしか通知が来なくても。それでも先生の声を思い出すだけで頬が緩む。
家でも、学校でも、私は決める役じゃなかった。いつも、決まった後に従う側だった。大人の話し合いは、廊下の向こうで終わっていたから。
*
倫理の授業は、午後の一番眠い時間にあった。普段は私の心を救う先生の声も、この時間だけは睡魔には敵わない。周りがいびきをかいて寝ている中、私は先生の授業だけは寝るまいとペンを走らせる。
先生は『正しい判断』について話していた。「正しいことが誰かを傷つけることもある。でも、判断しないこともまた選択なのだよ。」
私はその言葉をノートに書き写す。綺麗に書こうとしたわけでもなく、ただ落とさないように書いただけだった。
チョークの音が一瞬止まる。気づいたのは私だけだと思うくらいだ。理由は分からなかった。
チャイムが鳴って、倫理の授業は終わった。私はノートを閉じて、何も考えないまま席を立った。
それから少しして、校内の空気が変わった。廊下には色紙が貼られ、教室の後ろに段ボールが積まれた。文化祭の準備が始まっていた。先生は、その様子をいつも通りの距離で見ていた。近づきすぎず、離れすぎず、私たちが決めるのを待つ人の立ち方だった。
文化祭の朝、私はいつもより早く学校に着いた。校舎はまだ静かで、廊下の電気も一部しか点いていなかった。教室に入ると、壁にはポスターが貼られ、床の隅に段ボールが置かれている。どれも前日に準備されたものだった。
私は、何をするでもなく教室の端に立った。いつもの場所より少しだけ前だったが、役割があるわけでもなかった。
クラスメイトたちが続々と教室に現れ、それぞれが挨拶を交わしている。私も合わせて
「おはよう」
と、ロボットのように返す。思えば家を出てきてから誰とも話していなかったので、口内が渇ききってしまった。うまく話せたかどうかは定かではない。
担任が教室へと足を踏み入れる。いつものように名簿を開いて出欠を取り始めた。名前を呼ばれ、返事が聞こえて、次の名前に進む。私の番が来て、過ぎた。文化祭当日とはいえ、何も変わらなかった。そのあとで、廊下にいた先生の視線が一瞬、止まった。何も言われなかった。でも確かに見られていた。見てくれていた。
クラスの発表は、予定通りに始まって予定通りに終わった。大きな失敗も、目立った成功もなかった。拍手に包まれながら、すぐに次のクラスの準備が始まった。私は、教室の端で片づけを手伝った。何をしたというほどのことはない。机を戻して、テープをはがして、ごみを集めただけだ。
先生も同じ場所にいた。指示は出さず、必要なところだけを手伝っていた。私たちが決めたことに、口を出すことはなかった。
その日、私は何も決めなかった。
*
文化祭が終わって、校内はすぐに元の静けさに戻った。片づけられた机と、剥がされたポスターの跡だけが残った。
次の日、担任から一枚の紙が配られた。文化祭の反省と、今後の進路について書く用紙だった。私はそれを空欄にしたまま、職員室へ向かう。書くことがなかったわけじゃない。ただ、何を書いても同じだと思った。先生はその紙を受け取るとき、少しだけ目を落とした。それだけだった。『正しい判断』という言葉が、ノートの中で別の重さになった。先生の口から言葉が出ることはなかった。
高校二年生の文化祭は、そうやって終わった。それから一年が経ち、教室も顔ぶれもほとんど変わらずそのまま三年生になった。三年生になっても、文化祭の準備は去年と変わらなかった。教室の机が動かされ、壁にポスターが貼られる。誰が何をするかも、大体決まっていた。
私は、去年と同じ場所にいた。中心にはならないけれど、いないと少しだけ困る場所。役割はあっても、名前が呼ばれるほどではなかった。先生は、教室の外から様子を見ていた。近づきすぎず、離れすぎず、私たちが決めるのを待つ人の立ち方だった。去年もこうして始まった。だから、今年も同じように終わるのだと思っていた。
そのとき、教室の外が少しだけ騒がしくなった。笑い声でも、怒鳴り声でもない。何かが擦れるような、落ち着かない音だった。誰かが廊下を早足で通り過ぎ、甘ったるい匂いが一瞬だけ教室に流れ込んできた。お祭りの匂いにしては、場違いだった。私は思わず顔をあげたけれど、クラスメイトたちはもう別の話をしていて、その違和感は私の中だけに残った。先生は、そのときも何も言わなかった。
私は教室にいられなくなって、理由もなく廊下に出た。教室のドアを閉めると、さっきまでのざわめきが少し遠くなる。代わりに、別の音が聞こえたような気がした。
廊下の奥のほうから、笑い声が波打つように届いていた。さっき教室で聞いたものとはまったく違う。近づくほど、声は大きくなるのに、どこか間延びして聞こえた。体育館の扉が、少しだけ開いていた。
中には、生徒より先に大人がいた。腕を組んで立っている人、壁にもたれて、靴を脱ぎかけている人。誰も止めようとなどしていなかった。そのとき初めて、これは生徒だけの問題じゃないのだと分かった。そこには先生の姿だけが、なかった。
体育館の空気は、やけに甘かった。近くで誰かが笑うたびに、床に座っている人たちが同じ方向に身体を揺らす。アルミ缶の開く音が、あちこちから聞こえた。
壁際には、保護者らしい人が数人いた。誰も怒っていない、誰も止めていない。ただ、見ているだけだった。先生は、まだ来ていなかった。それだけが、はっきりしていた。
私はどうしたらよいのか分からず、その場で立ちすくむことしか出来なかった。ふらふらになった別のクラスの認識のない人にぶつかられそうになった時、先生が体育館に現れた。先生の声は低くて、大きくも小さくもなかった。ただ、体育館の天井に当たって、真っすぐ戻ってきた。それだけで、笑い声が止まった。私は間一髪、ぶつかられずに済んだが、足の裏に冷たさを感じていた。さっきまで気づかなかったはずなのに。怖かったのだと思う。でもそれは、怒られたからじゃない。線が引かれた音を、聞いてしまったからだ。私は、その判断を見ていた。
体育館は、さっきよりも静かだった。床に残っているのは、倒れたパイプ椅子と踏まれて潰れた空き缶だけ。誰も、さっきの話をしなかった。先生が何を言ったのか、私は聴かなかった。ただ、あの声が怒っていたことだけは分かった。
私はその場を離れた。振り返ることなく。あの大好きな声が正しかったのかどうか、分からなかった。そしてこの時はまだ、知らなかったのだ。この名前を、大好きな先生の名前を、別の場所で思い出すことになるとは。
*
先生の提案で、三年生の終わりに学年劇をやることになった。文化祭で問題を起こした生徒も、何も起こさなかった生徒も、皆が同じ舞台に立つことになった。配役は決まっていて、目立つ役も声を出さない役も、どれも『必要だ』という説明が添えられていた。
私は、いなくても困らない役を与えられた。でも、いないと困ると言われる場所だった。先生は、全体を見渡していた。誰かを選ぶことも、外すこともなかった。
体育館の照明が点くと、床に白い線が浮かび上がった。舞台の立ち位置を示すテープだった。前に立つ人は、迷わず線の内側に入った。声を出す役、動きを作る役、中心になる役。説明がなくても、誰が何処へ行くかは分かっていた。
私は、線の外に立った。入ってはいけないわけじゃない。ただ、そこに立たなくても稽古は進む。台本が配られ、読み合わせが始まった。誰かの声が詰まると、別の誰かが自然に拾った。私の番は、拾われなくても成立する行だった。先生は、全体を見ていた。間違いは直したが、位置は動かさなかった。それが一番綺麗に収まると知っている人の目だった。
休憩の合図が出ると、前に立つ人たちは自然に輪になった。私は水を飲んで、壁に背中をつけた。壁は冷たくて、安心した。ここにいる限り、誰かの邪魔にはならない。私は、床の白いテープの端を貼りなおした。剥がれかけていたところだけを、踏まれないように。誰に頼まれたわけでもない。でも、そうしていると、稽古は滞りなく進んだ。
読み合わせは何度も繰り返され、動きは少しずつ揃っていった。立ち位置が変わる人はいても、私の場所は最後まで同じだった。先生はまた、全体を見ていた。直すところは直し、直さなくていいところはそのままにした。それが一番綺麗に収まると知っている人の判断だった。
本番の前日、照明が通しで入った。明るくなった舞台の中央で、前に立つ人たちの影が、はっきりと床に落ちた。私は、影の外に立っていた。台本はもう見なくても言えた。私の台詞は短く、間違えても流れは止まらない。先生が
「ここまで」
と言った。誰も反対しなかった。舞台はもう出来上がっていた。
本番の日、客席は暗くて舞台だけが明るかった。照明が入ると、白い線は見えなくなった。前に立つ人たちの声が順番に重なっていく。台詞は滞らず、動きも止まらなかった。私の番が来て、短い台詞を言った。誰かがそれを受け取り、物語は先へと進んだ。
幕が下りると、拍手が起きた。大きさはちょうどよかった。先生は、最後まで何も言わなかった。それで十分だと、分かっている人の立ち方だった。
客席が明るくなると、人の声が戻ってきた。
誰かが笑って、誰かが泣いていた。私は、舞台の端に残ったテープの跡を見た。照明が消えても、完全には消えなかった。先生は、それを剥がさなかった。そのままにして、体育館を出た。
*
母は、同じ職場で働いていた。教壇の位置も、使っていた資料の書式も、彼とほとんど変わらなかった。
忙しい人だった。書類の端が揃っていなかったのは、いつも誰かに呼ばれていたからだ。電話を切る前に一拍置く癖があったのは、言い忘れたことがないか確かめていたからだと思う。正しさより、名前を先に思い浮かべる人だった。
母が亡くなった日のことを、私は詳しく知らない。知っているのは、制度の中で必要とされた判断があり、その判断に彼の署名があったということだけだ。
死亡届の欄に記されていた名前を、私はしばらく見つめていた。見覚えのある字だった。後になって、その理由を思い出した。
あの人は、私の先生だった。
優しくて、生徒想いで、勉強も部活も中途半端な私をいつも気にかけてくれていた。セミの合唱会よりも私の声を聴いてくれる人だ。
母と彼は、同じ書類を読んで違う結論に辿り着いた。母は人を選び、彼は制度を選んだ。どちらが正しかったのか、今でもわからない。わかっているのは、彼が直接手を下していなくても、その選択がなければ母は生きていたかもしれないということだ。
それでも、あの教室で過ごした時間が嘘だったとは言えない。私は確かに、あの人に救われていた。その事実だけはどこにも置き換えられない。
私は今、あの名前を卒業アルバムとは別の場所で思い出している。そして、まだ決めていない。あの出来事を何と呼ぶのかを。
幕はもう、下りている。
それでもこの物語は、ここで終わらない。
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