法廷のペテン師と、透明な証言者たち

不思議乃九

第1話『記憶の著作権と、作家の密室』

第一章:煉獄の吸い物と、混沌の摩天楼


 東京都、新宿区歌舞伎町のはずれ。

 再開発の槌音から完全に取り残され、都市の汚点のように鎮座する築五〇年の雑居ビル、「九龍クーロン会館」。

 その外壁は長年の煤煙と酸性雨でどす黒く変色し、無数に張り巡らされた配管と室外機が、まるで寄生植物のように建物を覆い尽くしている。一階には看板の文字が剥げ落ちた中華料理屋、二階には極彩色のネオンが点滅する怪しげなマッサージ店、三階より上は国籍不明の貿易事務所や、何の商売をしているのかも判然としない「探偵」や「便利屋」の表札がひしめき合っていた。

 そんな、現代の魔窟とも呼べるビルの屋上に、その「ペントハウス」は存在した。

 錆びついた鉄扉を押し開け、屋上に出ると、七月の猛暑が物理的な質量を持って全身にのしかかってくる。

 アスファルトの照り返しと、下の階から吹き上げてくる排気熱、そして換気ダクトから漏れる中華油の臭い。ここは東京で最も空に近い場所でありながら、最も地獄に近い蒸し風呂でもあった。

「……暑い。もはやこれは気象現象ではないな。都市に対するテロリズムだ」

 屋上の真ん中に置かれた、不釣り合いなほど高級なル・コルビュジエの寝椅子に深々と座り込み、その男――御御御付 傑おみおつけすぐるは呻いた。

 仕立ての良いスリーピース・スーツ。イタリア製の生地は滑らかで、そのシルエットは完璧だ。だが、この気温三十八度を超える灼熱の中で、ベストまで着込み、さらに首元までボタンを留めたその姿は、狂気以外の何物でもない。

 さらに異様なのは、彼の手にあるものだ。

 湯気を立てる漆塗りの椀。

 中身は、ドロリと濃厚な赤出しの味噌汁である。

「センセー、またそんなもん飲んでるアルか。死ぬヨ?」

 屋上の給水塔の陰から、派手なチャイナドレスを着た中年女性が顔を出した。二階のマッサージ店の女主人、ワンさんだ。彼女は屋上で干していたタオルを取り込みながら、呆れたように御御御付を見下ろしている。

「死なんよ、王さん。これは生きるための儀式だ。……おい、シロ。ソースだ」

「はいはい、わかってますよ」

 御御御付の背後から、真っ白な麻のブラウスに身を包んだ少女――白 紬しろつむぎが現れた。

 彼女の色素の薄い髪と肌は、この煤けた屋上において、そこだけ切り取られたように浮いて見える。シロの手には、ドクロのイラストが描かれた小瓶が握られていた。

 『サドンデス・ソース』。

 世界一辛いとされる香辛料の一つだ。

 シロは慣れた手つきで、その危険な液体を、御御御付の味噌汁の中にポタ、ポタ、と垂らした。一滴、二滴……五滴。味噌汁の表面に禍々しい赤い油膜が広がり、鼻をつく刺激臭が立ち昇る。

「……よし」

 御御御付は満足げに頷くと、その劇物を一気に啜った。

 喉が焼け、胃が悲鳴を上げる感覚。額から噴き出す汗。血管が浮き出るこめかみ。

「ぐ……っ、かはッ! ……これだ。この痛みこそが、俺がまだこの腐った世界で生きているという唯一の証明だ」

「相変わらずマゾヒスティックですね、所長。胃粘膜がただれますよ」

 シロは涼しい顔で、氷の入った麦茶を自分用のグラスに注いだ。彼女の視線は、御御御付の苦悶の表情に向けられているが、そこには心配というよりは観察に近い色が宿っていた。

「所長の声、いつもより半音高いです。……寝不足ですか?」

「余計な詮索をするな、ポンコツ。昨夜は合衆国憲法の修正条項について思考実験をしていただけだ」

 御御御付は荒い息を吐きながら、空になった椀をサイドテーブルに置いた。

 このビルの住人たちは、御御御付のことを「センセイ」と呼ぶ。

 それは彼が弁護士資格を持つ法律家だからという尊敬の意味も多少はあるだろうが、それ以上に、この無法地帯で起きるあらゆるトラブル――不法滞在の手続き、ヤクザとの揉め事、闇金の取り立て――を、法という名の凶器を使って鮮やかに(そして悪辣に)解決してくれる「用心棒」への、畏怖に近い感情が含まれていた。


 御御御付傑。

 彼は、正義の味方ではない。法のバグを利用して黒を白に変える、現代の錬金術師だ。

「センセー、今度ウチの店にガサ入れ来るらしいネ。どうにかしてヨ」

「王さん、それは業務妨害排除の仮処分申請ではなく、単に店を閉めて逃げた方がいい案件だな。……だがまあ、警察が令状を持ってくる前に、令状の記載ミスや手続きの不備を指摘して、任意捜査の限界まで粘って時間を稼ぐくらいならやってやる。報酬はいつものアレでいい」

「アイヨ、極上のプーアル茶と、裏ルートの紹興酒、用意しとくネ」

 王さんはケラケラと笑って階段を降りていった。

「……所長。雑務で恩を売るのはいいですが、本業の方もお願いしますよ。サーバーの電気代、滞納してます」

 シロはタブレット端末を起動し、御御御付の目の前に突きつけた。

「今朝のニュース。これ、うちに来そうな案件です」

 画面には、『速報:ベストセラー作家・夢野幻太郎、刺殺される』という見出しが踊っている。

「夢野幻太郎……? ああ、あの『宇宙エレベーターで密室殺人』とか書いてた、設定倒れの三流SF作家か」

 御御御付はハンカチで額の汗を拭い、興味なさげに画面を一瞥した。

「犯人は現行犯逮捕。熱狂的なファンの青年だそうです。しかも、取り調べで『先生の新作プロット通りに殺した』と詳細に自白しているとか。凶器の指紋、防犯カメラの映像、そして本人の自白。……役満ですね。弁護の余地なんて一ミリもありません」

 シロが淡々と事実を読み上げる。

 しかし、御御御付の反応は違った。彼は「自白」という単語を聞いた瞬間、爬虫類のように目を細めたのだ。

「弁護の余地がない? ハッ、素人が」

 御御御付は鼻で笑った。

「いいか、シロ。この世に『絶対』なんて言葉があるのは、宗教と数学の中だけだ。法廷に絶対はない。あるのは『解釈』と『編集エディット』だけだ」

 彼は立ち上がり、ペントハウスの中へと歩き出した。

「行くぞ。金になる匂いがする。……それも、とびきりドス黒い、インクと血の混じった匂いがな」

 錆びついた鉄扉をくぐり、空調の効いた室内に入る。

 ペントハウスの内部は、外のカオスとは隔絶された異空間だった。

 壁一面には巨大なホワイトボード。床にはサーバーの冷却ファンが唸りを上げ、部屋の中央には、イタリアのデザイナーズソファが鎮座している。

 そして、部屋の奥にあるウォークインクローゼット。

 御御御付は、その扉を開け放った。

「……壮観ですね、いつ見ても」

 シロが呆れたように呟く。

 そこには、数百本、いや千本に近いネクタイが吊るされていた。

 色も柄も素材もバラバラ。ペイズリー、ドット、ストライプ、そして幾何学模様。中には、目がチカチカするような蛍光色や、誰が買うのかわからないような前衛的な柄のものもある。

「報酬はすべてネクタイに消える……って噂、あながち嘘じゃないですよね。首は一つしかないのに」

「ネクタイは男の履歴書だ。その日の気分、戦略、そして敵へのメッセージを込める。法廷という戦場において、唯一許された『武装』だぞ」

 御御御付は、指先でネクタイの列をなぞりながら、一本を選び出した。

 深い紫色の地に、不規則な銀色のラインが走る、複雑怪奇な幾何学模様の一本。

「今日はこれだ。『迷宮ラビリンス』。……入り組んだ論理で、検察の脳みそをショートさせてやる」

 彼は鏡の前で、慣れた手つきでウィンザーノットを作り上げる。

 キュッ、と結び目が締まる音。

 その瞬間、彼の纏う空気が変わった。

 だらしない「屋上のセンセイ」から、冷徹な「法のペテン師」へ。

 御御御付にとって、ネクタイを締めることは、人間であることを辞め、論理の悪魔へと変身するためのスイッチなのだ。

「依頼人は?」

 鏡の中の自分を睨みつけながら、御御御付が問う。

「容疑者・模木もぎの母親です。都内でも有数の不動産王の未亡人。……『息子はあんなことをする子じゃない。いくら積んでもいいから無罪にしてくれ』とのことです」

「素晴らしい。母の愛は偉大だが、それ以上にその資産が偉大だ。……よし、拘置所へ向かうぞ。ポンコツ、車を出せ」

「はいはい。……あ、所長。口の周り、味噌汁ついてますよ」


第二章:あまりに美しい自白 


 東京拘置所。

 荒川の河川敷沿いにそびえ立つその巨大なコンクリートの塊は、都市の排泄物とも呼ぶべき罪人たちを飲み込み、消化するための胃袋だ。

 面会受付の重い空気を抜け、長い廊下を歩く。靴音が無機質な床に吸い込まれていく。

 御御御付は不機嫌そうにネクタイの結び目を触っていた。

「……空気が悪い。ここには『論理』がない。あるのは『諦め』と『後悔』という名の湿ったカビだけだ」

「文句を言わないでください。これから会うのは、そのカビに侵された文学青年なんですから」

 シロは淡々と返し、面会室の番号を確認した。

 番号3。

 鉄扉が開き、アクリル板で仕切られた狭い部屋に入る。

 向こう側に座っていたのは、幽霊のように色のない青年だった。

 模木 圭介。二十二歳。

 名門私立大学の文学部に在籍し、夢野幻太郎のファンクラブ会員番号一桁を持つ、筋金入りの信奉者。

 彼は痩せこけた頬に無精髭を生やし、焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。その手は、手錠こそされていないものの、膝の上で祈るように組まれている。

「……先生、ですか」

 模木が、か細い声で呟く。

「初めまして。君の母親から依頼を受けた弁護士、御御御付だ。隣にいるのは飾りのシロ」

「飾りじゃありません。記録係です。……初めまして、模木さん」

 シロがムッとして訂正するが、模木は気にした様子もなく、また視線を宙に戻した。

「……母さんには、申し訳ないことをしました。でも、無罪なんて無理ですよ。僕は、やったんですから」

「ほう。やってないと言うのが、この部屋での定型句だがな」

「覚えているんです。……何もかも、鮮明に」

 模木は、まるで美しい夢の続きを語るように、静かに口を開いた。

「あの夜、満月がとても綺麗でした。僕は吸い込まれるように、先生の世田谷の邸宅へ向かいました。裏口の鍵が開いていることは知っていました。……いいえ、知っていたというより、『そうあるべきだ』と直感していたんです」

 彼は恍惚とした表情で、天井の染みを見上げる。

「書斎に入ると、窓からは月光が差し込み、部屋の中央にあるアンティークの執務机を、まるで舞台照明のように青白く照らし出していました。……先生はそこに座り、万年筆を走らせていました。カリ、カリという音だけが、静寂の中でメトロノームのように響いていました」

 シロは、背筋が寒くなるのを感じた。

 彼の語り口は、事実を報告する被疑者のそれではない。まるで、何度も読み返した小説の一節を朗読しているようだ。言葉の選び方、間の取り方、すべてが整いすぎている。

「机の上には、書きかけの原稿がありました。『アンドロイドの遺言』。……そのタイトルを見た瞬間、僕の中で何かが弾けました。この物語を終わらせるのは、僕しかいない。そう、天啓を受けたんです」

 模木は自分の両手を目の前に掲げ、じっと見つめた。

「僕は、先生の背後に立ちました。先生は執筆に没頭していて、僕の気配に気づかない。……僕はポケットからナイフを取り出しました。バタフライナイフの冷たい金属の重みが、手のひらに心地よかった。それは、物語を終わらせるための『ピリオド』のような冷たさをしていました」

 御御御付は、組んだ足の上で指を組み合わせ、爬虫類のような目で模木を観察している。

 口は挟まない。ただ、その表情には冷ややかな嘲笑が浮かんでいた。

「先生が振り返った瞬間、僕はその喉元に切っ先を突き立てました。……抵抗はありませんでした。肉を裂く、ゴリッという硬い感触。そして、噴き出す鮮血の、生温かい奔流。視界が真っ赤に染まり、鉄の匂いが充満しました。先生は最期に、崩れ落ちながら僕を見て微笑みました。『……美しい』と、そう呟いて」

 模木は、頬を伝う涙を拭おうともしなかった。

「完璧なシーンでした。先生が書こうとしていた物語を、僕が完成させたんです。……だから、後悔はありません。僕は、先生の一部になれたんですから」

 重苦しい沈黙が、狭い面会室を支配した。

 シロは、メモを取る手が一瞬止まってしまった。あまりに完成された告白。これを聞けば、誰だって彼が犯人だと確信するだろう。情景、動機、殺害の手順。すべてが矛盾なく繋がっている。


 パチ、パチ、パチ。

 乾いた拍手の音が響いた。

 御御御付だった。

「……素晴らしい。実に文学的だ。君、作家志望だろう?」

「は、はい。夢野先生に憧れて……。でも、僕には才能がなくて」

「いやいや、才能あるよ。これほど美しい『情景描写』ができるならな」

 御御御付はニヤリと笑い、身を乗り出した。

「だがな、模木君。君のその完璧な記憶には、一つだけ致命的な欠陥がある」

「……欠陥?」

 模木が怪訝そうに眉を寄せる。

「ああ。『リアリティ』がありすぎるんだよ」

 御御御付はアクリル板を指先でコンコンと叩いた。

「人はね、本当に人を殺した時、そんな詩的なことは覚えちゃいないんだ。『月光が舞台照明のように』? 『物語のピリオド』? ハッ、笑わせる。極限状態の脳が記録するのは、もっと断片的なノイズだ。『息が詰まる音』とか、『エアコンの駆動音』とか、『自分の手が汚れる不快感』とか、『靴の中の小石の違和感』とか……そういう、どうでもいい『雑音』だけが残るもんだ」

 御御御付の声が、低く、鋭くなる。

「君の記憶は、あまりに整理されすぎている。起承転結があり、伏線があり、クライマックスがある。……まるで、プロの作家が推敲を重ね、校正まで済ませた原稿のようにな」

 模木は戸惑ったように瞬きをした。

「何を……おっしゃっているんですか。これは僕の体験です。僕の……大切な記憶です」

「俺が言いたいのは一つだ。君は殺していない。……君は、誰かが書いた『殺人シーン』という脚本を、脳内にインストールされただけの哀れな読者だ」

 模木は絶句した。怒るでもなく、否定するでもなく、ただ「理解できない」という顔で御御御付を見つめている。彼にとって、その記憶は絶対的な真実なのだ。

「帰るぞ、シロ。こいつからこれ以上聞くことはない。こいつの脳みそは、すでに他人の著作権で汚染されている」

 御御御付は席を立ち、背を向けた。

 帰り道、拘置所の長い廊下を歩きながら、シロはずっと手元のメモ帳を見つめていた。

 彼女の歩調が、わずかに遅れる。

「……所長」

「なんだ、ポンコツ。俺の華麗な洞察に惚れたか?」

「違います。……あの人の、手」

 シロは立ち止まり、自分の両手をこすり合わせて見せた。

「模木さん、話している間ずっと、こうやって手をこすり合わせていました。指先が白くなるくらい強く。……まるで、凍えた手を温めるみたいに」

「ふむ?」

 御御御付が足を止め、シロを見下ろす。

「彼の口は『鮮血の生温かい奔流』と言っていました。でも、彼の身体は『冷たい』と訴えていました。……あの震え方は、冬の日に冷たい水で洗い物をした時のような、あるいは氷水に手を突っ込んだ直後のような、芯から冷える感覚を思い出している動きです」

 シロは、自分の指先をさすった。

 彼女の「絶対感覚」は、模木の言葉ではなく、肉体が発する微弱なシグナルを受信していた。

「記憶は熱っぽいのに、身体は冷え切っている。……変です。人間は、強烈な記憶を思い出す時、無意識に身体感覚も再現します。熱いものを思い出せば汗ばむし、痛いものを思い出せば顔をしかめる。でも、彼は逆でした」

「……」

 御御御付の目が、怪しく光った。彼はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をタップした。

「……でかしたぞ、アナログレコード。その『ノイズ』こそが、今回のアリバイ崩しの鍵になる」

 御御御付はどこかへ電話をかけながら、早足で歩き出した。

「もしもし、王さんか? ……ああ、頼みがある。夢野幻太郎の担当編集者について、裏の情報を洗ってくれ。……特に、夢野との金銭トラブルや、著作権絡みの揉め事がないか、徹底的にな。……報酬? わかってる、極上の紹興酒を追加だ」

 電話を切った御御御付は、シロに向かってニヤリと笑った。

「行くぞ、シロ。裁判の準備だ。……まずは、この『美しすぎる脚本』を書いたゴーストライターを、法廷という舞台に引きずり出してやる」


第三章:開廷、あるいは著作権侵害の主張


 東京地方裁判所、第101号法廷。

 天井の高い空間には、独特の重苦しい空気が澱んでいる。それは何千もの人間が裁かれ、その人生を断罪されてきた歴史の堆積だ。

 今日の傍聴席は満員だった。有名作家殺しというスキャンダルに加え、犯人が「狂信的なファン」であるというセンセーショナルな図式が、マスコミや野次馬たちの好奇心を刺激していたからだ。

 カメラのフラッシュこそないものの、無数の視線が、被告人席に座る痩せた青年に突き刺さっている。

 模木圭介は、小さく身を縮めていた。その顔色は蒼白で、時折、何かに怯えるように視線を泳がせている。

 弁護人席には、御御御付傑とシロが座っていた。

 御御御付は、まるで歌舞伎町のキャバクラで品定めでもするかのように、足を組み、ふんぞり返って検察席を眺めている。その胸元には、複雑怪奇な幾何学模様を描くネクタイ『迷宮ラビリンス』が、法廷の無機質な照明を反射して妖しく光っていた。

「……所長、態度が悪いです。傍聴席の記者がスケッチしてますよ」

「構わんよ、シロ。悪役には悪役の流儀(スタイル)がある。それに、これから俺が語る『真実』は、善良な市民には毒すぎる」

 御御御付はニヤリと笑い、対面の検察席に顎をしゃくった。

 そこに座っているのは、狩野検事。

 東京地検のエースと目される男だ。銀縁眼鏡の奥の瞳は冷徹で、感情の揺らぎを一切感じさせない。彼の手元には、整理された証拠書類とタブレット端末が、幾何学的な美しさで整列していた。

「開廷します」

 裁判長の木槌が、乾いた音を立てて空気を割った。

 冒頭陳述。狩野検事は立ち上がり、よく通る声で事件の概要を語り始めた。

「本件は、極めて単純かつ残酷な、自己陶酔型の殺人事件です。被告人・模木圭介は、被害者・夢野幻太郎の未発表の新作プロットを盗み見し、その内容に心酔するあまり、自らの手で『物語の再現』を行いました」

 狩野はタブレットを操作し、法廷内のモニターに証拠リストを表示させた。

「凶器のバタフライナイフから検出された被告人の指紋。防犯カメラに映った被告人の姿。そして何より、彼自身の『詳細すぎる自白』。……被告人は犯行の様子を、被害者の最期の言葉に至るまで、極めて具体的に記憶しています。これら全ての客観的証拠が、彼が犯人であることを疑いようもなく示しています」

 法廷中の空気が「有罪」一色に染まる。

 誰もが思った。これは時間の無駄だ。さっさと判決を下して終わらせるべきだ、と。

 そんな「常識」という名の圧力が最高潮に達した時、弁護人席の男が、気だるげに立ち上がった。

「弁護人、冒頭陳述を」

「はいはい。えー、弁護側としましては……」

 御御御付は、裁判長、検察官、そして陪審員たちをゆっくりと見回した。その視線は、獲物を前に舌なめずりをする捕食者のそれだった。

 彼は両手を広げ、朗々と宣言した。

「被告人の『無罪』を主張します」

 法廷がざわめいた。傍聴席から失笑が漏れる。これだけの証拠があって無罪? 精神鑑定でも要求する気か?

 しかし、御御御付の次の言葉は、誰の予想も斜め上に裏切るものだった。

「理由は単純。彼が語った『鮮明な殺害の記憶』は、事実の記録ではありません。

 それは、彼の脳が創作した『著作物』フィクションだからです!」

 一瞬の静寂の後、法廷中が爆笑と困惑に包まれた。

 裁判長さえもが、眼鏡をずらして御御御付を凝視している。

 狩野検事が、呆れたようにため息をついた。

「著作物? ……弁護人は何を言っているのですか。被告人は現実に人を殺したと言っているのですよ? それがフィクションだと言うなら、ここにある被害者の遺体は何だと言うのです」

「異議あり! 検察官は人間の脳を過信しすぎです」

 御御御付は、模木の自白調書を掴み上げ、パラパラと捲ってみせた。

「『月光が舞台照明のように』? 『物語のピリオド』?

 ……ハッ、三文小説だ。検察官、あなたは昨日の昼食の『咀嚼の回数』を覚えていますか? 今朝、歯を磨いた時の『ブラシの回転数』は? 覚えていないでしょう。人間は、重要なことほど忘れる生き物です!」

 御御御付は、証言台の前に歩み出た。

「人は極限状態において、詩的な表現など思い浮かべません。脳が記録するのは、生存に必要な情報か、あるいはどうでもいいノイズだけだ。

 これほど起承転結が整い、伏線が回収され、情景描写まで完璧な記憶……。

 これは『事実の記録』ではない。誰かが書いたシナリオを、彼が『暗記』インストールしたに過ぎない!」

 御御御付は、被告人席で小さくなっている模木をビシッと指差した。

「この男は殺していません。彼はただ、誰かが書いた『殺人シーン』という脚本を演じさせられた、舞台上の役者に過ぎない。

 もし彼がナイフを突き立てたとしても、それは『演技』であり、殺意という主観的構成要件を欠いている。

 よって、この裁判の争点は殺人罪の有無ではない!

『誰がこの記憶シナリオを書いたのか』という、著作権の帰属問題です!」

 法廷内が騒然となった。「ふざけるな」「詭弁だ」という野次が飛ぶ。

 だが、シロだけは静かに御御御付の背中を見つめていた。

 彼の論理は滅茶苦茶だ。だが、その滅茶苦茶な論理こそが、今の膠着した「完璧な有罪」を打ち砕くための、唯一のハンマーなのだ。

 シロは手元のメモ帳に、小さく書き込んだ。

 『記憶=著作物。被告人=演者。真犯人=脚本家。』


「……静粛に! 静粛に!」

 裁判長が木槌を連打する。

「弁護人、法廷を混乱させないでください。記憶が著作物などという法解釈は存在しません。具体的な反証がないなら、審理を進めます」

「具体的な反証なら、これから出しますよ」

 御御御付はニヤリと笑い、ネクタイの結び目を直した。

「この『美しすぎる脚本』を書いた真の作者を、この場に引きずり出して証明して見せましょう。……証人尋問をお願いします」

 彼の視線が、傍聴席の最前列に座っていた一人の男に向けられた。

「検察側の証人、夢野幻太郎の担当編集者・赤坂氏を」

 指名された男、赤坂は、一瞬だけ驚愕の表情を浮かべたが、すぐに能面のような無表情に戻り、ゆっくりと立ち上がった。

 黒縁の眼鏡。神経質そうな痩せた体躯。

 彼こそが、この「著作権裁判」のキーマンだ。

「……面白い」

 狩野検事が、眼鏡の奥で初めて感情の色を見せた。

「弁護人がどのようなショーを見せてくれるのか、付き合いましょう。ですが、法廷は劇場ではありませんよ」

「いいえ、検事さん」

 御御御付は、悪魔のように囁いた。

「法廷こそが劇場だ。……そして、脚本家ライターが誰か、これから決めるんだよ」


第四章:ゴーストライターの誤算


 証言台に立った男、赤坂は、上質なスーツを着こなしてはいるが、その背中はどこか頼りなく丸まっていた。

 黒縁眼鏡の奥にある瞳は、常に落ち着きなく左右に揺れている。額には脂汗が滲み、彼は頻繁にハンカチでそれを拭っていた。

 法廷の空調は快適なはずだが、彼にとってここは灼熱の砂漠なのかもしれない。

 狩野検事が、自信たっぷりに尋問を開始する。

「証人、あなたは被害者・夢野幻太郎氏の担当編集者ですね?」

「は、はい。十年以上、先生の担当をさせていただいておりました」

「今回、被告人が殺害の動機、および手口として語っている未発表の新作プロット『アンドロイドの遺言』についてお聞きします。このプロットの内容を知っていたのは、誰ですか?」

 赤坂は、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。

「先生と、私だけです。先生は極度の秘密主義で、プロット段階の原稿は決して外部に見せませんでした。データもクラウドには上げず、書斎のオフラインPCと、紙のプリントアウトだけで管理していました」

「ありがとうございます」

 狩野検事が、陪審員席に向かって大袈裟に頷いてみせる。

「つまり、被告人が供述した『プロット通りの犯行』は、彼が何らかの方法で書斎に侵入し、そのプロットを盗み見たことの、何よりの証明になるわけです。第三者が知り得ない内容を知っていたのですから」

 法廷内には納得の空気が流れた。

 秘密の暴露。犯人しか知り得ない情報の吐露。それは刑事裁判において、有罪を決定づける王手チェックメイトだ。

 だが、その盤面をひっくり返すために、紫色のネクタイを締めた悪魔が立ち上がった。

「反対尋問!」

 御御御付の声が、鋭く空気を切り裂く。

 彼は獲物を見つけたハイエナのような足取りで、ゆっくりと証言台に近づいていった。

「赤坂さん。あなたは先ほど『私と先生しか知らない』と言いましたが、本当にそうですか?」

「は、はい。間違いありません」

「ふむ。では、少し視点を変えましょう。……このプロットを書いたのは、本当に夢野先生ですか?」

 赤坂の表情が強張る。眼鏡の奥の目が、大きく見開かれた。

「な、何を……当然でしょう。先生の新作です」

「夢野先生はここ数年、極度のスランプだったと聞いています。原稿の遅れは常習化し、作風も変わり、ファンの間では『劣化』が嘆かれていた。……本当は、あなたが書いていたんじゃないですか? ゴーストライターとして」

 法廷がどよめく。傍聴席の記者が身を乗り出した。

「い、異議あり! 憶測に基づく証人への侮辱です!」

 狩野検事が顔を真っ赤にして立ち上がる。

「憶測じゃありませんよ。状況証拠ならある」

 御御御付は、一枚のメモ用紙を指先で弾いた。それは先ほど、シロが拘置所の帰りに渡したメモだ。

 『記憶=熱い。身体=冷たい。』

「赤坂さん。被告人・模木の自白には『噴き出す鮮血の、生温かい奔流』という描写があります。……これは、プロットにも書かれていますか?」

「……ええ、はい。確か、『生命の熱を帯びた赤』という表現がありました」

 赤坂は、自分の記憶を探るように答えた。その額から、また一筋の汗が流れる。

「なるほど。プロット通りだ。……ですが、ここに奇妙な矛盾がある」

 御御御付は、弁護人席に座るシロの方を振り返った。

 シロは緊張した面持ちで立ち上がり、証言台を見つめる。その色素の薄い瞳が、赤坂を射抜く。

「……模木さんは、接見の時、ずっと手をこすり合わせていました。指先が白くなるくらい強く」

 シロの声は小さいが、静寂に包まれた法廷にはよく通った。

「人間は、強い身体感覚を伴う記憶を語る時、無意識にその感覚を再現します。彼が本当に『温かい血』を浴びたなら、手のひらについた粘り気や熱を払うような動きをするはずです。……でも、彼は凍えていました。まるで、氷水の中に手を突っ込んだ直後のように」

 シロは自分の両手を胸の前で握りしめた。

「彼の言葉は『熱』を語っていましたが、彼の身体は『冷たさ』を覚えていました。……その矛盾は、彼が嘘をついているからではありません。彼の脳内の『設定』と、肉体の『体験』が食い違っているからです」

 御御御付が引き取る。彼の口元に、凶悪な笑みが浮かぶ。

「つまり、こういうことだ。

 模木君が実際に現場でナイフを突き立てた時、そこにあったのは温かい血を流す生きた人間ではなかった。

 ……すでに死後硬直が始まり、冷たくなった**『死体』**だったんだよ!」

 赤坂の顔から、完全に血の気が引いていく。唇が震え、言葉が出ない。

「模木君は、あなたが事前に殺しておいた死体に、ナイフを刺させられただけだ。

 あなたは、模木君が狂信的なファンであり、催眠感受性が高いことを利用した。

 彼に『お前が主人公だ』と吹き込み、プロットの内容を繰り返し刷り込み、トランス状態で現場に行かせた。

 彼は『小説の再現』をしているつもりで、実際には『死体損壊』という汚れ仕事をさせられていたんだ!」

 御御御付は、証言台に両手をつき、赤坂に顔を近づけた。その距離、数センチ。

「だが、あなたは脚本家として致命的なミスをした。

 プロットには『生命の熱を帯びた赤』と書いてしまった。だから模木君の脳内記憶ちょさくぶつでは『温かい』ことになっている。

 しかし、現実の彼の肉体は『死体の冷たさ』を覚えていた。

 ……この『設定のバグ』こそが、あなたが殺人計画ものがたりの作者である動かぬ証拠だ!」

 赤坂はガタガタと震え出した。視線が泳ぎ、助けを求めるように狩野検事の方を見るが、検事もまた唖然として立ち尽くしている。

「ち、違う……私はただ、先生が……先生が私の原稿を自分のものにして、私を切ろうとしたから……!」

 瞬間、法廷内の時間が止まった。

 赤坂自身も、自分の口から漏れた言葉の意味を理解し、ハッと口を押さえた。

 だが、もう遅い。覆水は盆に返らず、吐いた言葉は議事録に残る。

「……おっと、口が滑りましたね?」

 御御御付が、勝者の笑みを浮かべて小首を傾げた。

「今、『私の原稿』と言いましたか? 『プロットは先生と私しか知らない』はずでは?

 ……やはり、あなたが書いていたんですね。この三流小説を」

 赤坂はその場に崩れ落ちた。

 それは、著作権法違反の裁判でも、殺人事件の裁判でもなく、一人のゴーストライターが自らの完全犯罪さくひんの「矛盾バグ」を指摘され、作家としてのプライドごとへし折られた瞬間だった。

「……裁判長!」

 御御御付が高らかに叫ぶ。

「真犯人は自白しました。被告人・模木圭介は、殺人を犯していません。

 彼はただ、この男が書いた『悪趣味な脚本』の上で踊らされた、哀れな被害者です。

 ……さあ、判決を。この『編集された真実』に、正しい修正リライトを!」


第五章:エディタブルな真実

 法廷は、脚本家を失った舞台のように混乱していた。

 自らの口で罪を告白してしまった赤坂は、崩れ落ちたまま立ち上がることもできず、駆け寄った廷吏たちによって両脇を抱えられ、引きずられるように退廷していった。

 その背中は、もはやゴーストライターとしてのプライドも、完全犯罪の計画者としての狡猾さも失い、ただの抜け殻のように小さく見えた。

「……閉廷します!」

 裁判長が、逃げるように木槌を叩く。

 傍聴席からはどよめきが収まらない。マスコミたちが我先にと出口へ殺到し、新たなスクープ――『ゴーストライターの殺人』という見出しを打つために走り去っていく。

 喧騒が遠ざかる中、被告人席には模木圭介だけが取り残されていた。

 彼は手錠を外された手を見つめ、呆然と立ち尽くしている。

 殺人罪の疑いは晴れた。彼が刺したのはすでに死んでいた肉塊であり、それさえも赤坂による洗脳下での行為であったことが証明されれば、死体損壊罪についても執行猶予、あるいは心神喪失による無罪が勝ち取れるだろう。

 法的には、彼は救われた。

 だが、その魂は救われていなかった。

「……先生」

 弁護人席で書類を片付けていた御御御付に、模木が声をかけた。

 その瞳は、涙で濡れているというより、何かが壊れてしまったように空虚だった。

「僕の記憶は……あの美しい月光も、先生の最期の言葉も、全部偽物だったんでしょうか。僕の、夢野先生への愛も……この身を焦がすような情熱も、全部、あの男が書いた筋書き通りだったんでしょうか」

 模木の声が震える。

 彼にとって、夢野幻太郎という作家は神であり、その作品の一部になれたという感覚こそが、彼のアイデンティティの全てだった。

 それが、単なるゴーストライターの使い捨ての駒としての役割だったと知らされた今、彼は自分という存在の核を失いかけていた。

 御御御付は、書類を鞄に放り込み、ネクタイを緩めながら振り返った。

 その表情には、同情の色など微塵もない。

「ああ、駄作だったな」

 御御御付は、吐き捨てるように言った。

「あんなご都合主義のプロット、ブックオフの百円コーナーでも売れ残るぞ。『月光が舞台照明のように』だ? 笑わせるな。あの日、東京は曇りだった。気象データくらい調べてから書けと言いたい」

 模木の顔が歪む。

 御御御付の言葉は、事実という名のメスで、模木の傷口を容赦なく抉っていく。

「君の愛も、情熱も、すべては赤坂の演出だ。君は、三流作家のオナニーに付き合わされただけの、哀れなエキストラに過ぎない」

 残酷な真実。

 模木は膝から崩れ落ちそうになった。

 だが、その時。

「……違います」

 静かな、しかし凛とした声が響いた。

 シロだった。

 彼女は、御御御付の背後から歩み出ると、模木の震える両手をそっと包み込んだ。

 シロの手は温かく、模木の氷のように冷え切った指先を溶かすように包み込む。

「全部が嘘じゃありません。……これだけは、本物でした」

 シロは、模木の手を見つめた。

「あなたの手の震えです。

 あなたは、ナイフを握った時、怖かったはずです。冷たい遺体に触れた時、悲しかったはずです。

 赤坂の脚本には『恍惚』や『美しさ』しか書かれていなかったかもしれない。でも、あなたの身体は、ちゃんと『人を傷つけることの重さ』を感じて、拒絶していました」

 模木が、ハッとして顔を上げた。

 シロの色素の薄い瞳が、彼を真っ直ぐに見つめている。

「洗脳されていても、心神喪失状態にあっても、あなたの身体だけは嘘をつけなかった。

 その『冷たさ』の記憶は、誰の著作物でもありません。

 あなた自身が、痛みを感じる人間であるという、たった一つの証明です」

 模木の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは、先ほどの空虚な涙とは違う。人間としての感情を取り戻した、熱を持った涙だった。

「……怖かった。……本当は、怖かったんです」

 模木が、子供のように泣きじゃくる。

「先生が冷たくて……硬くて……。僕は、あんなことしたくなかった……!」

 シロは何も言わず、ただ彼の手を握り続けた。

 御御御付は、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「……フン。エキストラにしては、まあまあの『アドリブ』だったな」

 そう呟いて、彼は一人、法廷の出口へと歩き出した。その背中は、いつもより少しだけ、足取りが軽いように見えた。


   *


 新宿の夜景を一望する、九龍会館の屋上。

 昼間の殺人的な暑さは鳴りを潜め、ビル風が湿った熱気を運び去っていく。

 ネオンの海を見下ろすデッキチェアで、御御御付はだらしなくネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンを開けていた。

 彼の手には、いつもの漆塗りの椀がある。

「……マズい」

 一口すすって、彼は顔をしかめた。

 今日の味噌汁は、湯気を立てていない。完全に冷え切った、冷製味噌汁だ。

 しかも、いつものサドンデス・ソースが入っていない。ただの、しょっぱい冷や汁だ。

「マズいなら飲まなければいいじゃないですか。作り直しましょうか?」

 シロが、呆れたように麦茶のグラスを揺らした。

「いいや。今日はこの『冷めた味』でいい」

 御御御付は、椀の中の黒い液体を見つめた。

「あの文学青年の、凍えた手の味だ。……熱すぎる情熱フィクションで火傷した後は、このくらいの冷たさがちょうどいい」

 彼は椀の中身を一気に飲み干すと、満足げに息を吐いた。

 シロは、そんな彼の横顔をじっと見つめた。

 この男は、悪徳弁護士だ。金のためなら黒を白と言いくるめ、法律を玩具のように弄ぶ。

 でも、彼は知っていたのだ。

 模木を救うためには、法的な無罪を勝ち取るだけでは足りないことを。

 彼が囚われている「物語」そのものを、「駄作」として徹底的に破壊してやらなければ、彼は一生、夢野幻太郎の亡霊に憑りつかれたままだっただろう。

 御御御付は、模木のために「夢」を殺したのだ。

「……所長」

「なんだ、ポンコツ」

「今回の弁護料、お母様から振り込まれていましたよ。相場の三倍です」

「ほう! さすが不動産王の未亡人、話がわかる」

 御御御付が、現金な反応で身を乗り出す。

「で、その金で何を買うんです? また悪趣味なネクタイですか?」

「失敬な。あれは芸術だ。……そうだな、次は『矛盾パラドックス』という柄のネクタイを注文してある。表と裏で柄が逆転している特注品だ」

 御御御付は立ち上がり、新宿の夜空を見上げた。

 そこには星など見えない。あるのは人工的な光と、欲望の澱だけだ。

「真実は編集可能エディタブルだ。記憶も、記録も、いくらでも書き換えられる」

 彼は、夜風に髪をなびかせながら言った。

「だが、お前が拾ったあの『冷たさ』だけは……書き換え不可リードオンリーのデータだったな」

 シロは少し驚いて、それから小さく微笑んだ。

「……珍しいですね。所長が私の感覚を認めるなんて」

「勘違いするな。アナログレコードも、たまにはデジタルデータより良い音を出すというだけの話だ。……ノイズ混じりの、不器用な音をな」

 御御御付は背伸びをして、ペントハウスへと戻っていく。

「さあ、店仕舞いだ。明日はまた別の客が来る。……この街には、まだ編集されるのを待っている『真実』が山ほど転がっているからな」

 シロは、空になった麦茶のグラスを傾けた。

 氷がカラン、と涼やかな音を立てる。

 その音は、あの法廷で聞いた模木の涙の音と、どこか似ている気がした。

 

 法廷のペテン師と、透明な証言者。

 論理と感覚。嘘と真実。

 水と油のように混じり合わない二人の、奇妙な共犯関係は、まだ始まったばかりだ。

 シロは夜空に向かって、小さく呟いた。

「……ごちそうさまでした」

 ビルの下の繁華街から、パトカーのサイレンが聞こえてくる。

 それは、次の事件の幕開けを告げるファンファーレのように、眠らない街に響き渡っていた。


(第一話 了)

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法廷のペテン師と、透明な証言者たち 不思議乃九 @chill_mana

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