冷めた苦み

ドアを押す。

ちりんとベルの音に君は顔を上げた。

いつもの匂いに包まれたいつもの窓際の席。

君の手には紅茶の入ったカップ、そしてフォークが握られていた。


「今日は早かったね」

君はそう言うが僕よりも早く来ている事実に変わりはない。

「たまたま早めに講義終わったからね」

僕は肩をすくめて笑って見せる。


軽やかだけど何か遠く感じる会話。

昨日と何ら変わらないはずの空間にいるはずなのに胸の奥には何か違和感を感じていた。


僕はカウンターでいつもの様にコーヒーを頼む。

成れた動作で、何も入れずに。

今日はどこか緊張していた気がして、カップの暖かさに少し和らいだ。


席に着くと君はまたアップルパイを食べている。

りんごの甘い匂いが今日は少しだけ強い気がした。


「今日もそれ?」

僕はいつもの様に席について聞く

「うん、やっぱり好きだし美味しいからね」

当たり前と言わんばかりにさらっと答える君の笑う顔を僕は見れなかった。

言葉にならない感情が少しづつ芽生えていくのをコーヒーの苦さの中に感じていた。


「レポート、進んだ?」

当たり障りのない会話を続けた。そうでもしないとこの苦みに耐えられなかったから。

「まあね」

君の声はいつも軽やかで肯定も否定もない。

でも僕には少し遠くに響いた。

「まあね、って……どっち?」

思わず口をついて聞いてしまったことを後悔するよりも早く君は肩をすくめ、笑う。

「どっちでもないってことかな」

進んでもないし、かと言ってやってないわけでもない。

そんな曖昧な答えが、僕の胸に小さな棘を残した。

棘は痛くないけれど、確かに違和感としてそこに存在していて、意識せずにはいられない。

その棘が僕にとってなんの棘なのかわからなかった。


「授業、面白かった?」

昨日と同じ質問を昨日と同じように繰り返す。

ページをそのままなぞるように。

「眠かった」

僕は今うまく話せているのだろうか。

「そっか」

いつものように会話は噛み合っている。

でも昨日よりも、距離を感じる。

内容は同じでも、感じる重みが違うことに気づいてしまったからだ。


君はフォークでアップルパイを切り、ひと口食べる。

「甘い」とだけ言った。

僕はその言葉に反応して頷く、けれどいつも変わらないものに甘さを感じているのはなぜなのか。

小さな疑問が湧いた。


外の景色が少しずつ夕方に傾き、光が窓ガラスに反射する。

通りを歩く人々の足音や、店内のざわめきが背景になる。

反射する僕と角度と光で窓には反射しない君。

その雑音の中で、君と僕の立っている場所の違いを実感する。


「そういえば、明日のゼミは?」


「行くよ、いつも通り」


「そうか」


「でも、君は行かないの?」


「うん、ちょっと用事があって」


君の声は平らで、何も詮索しない。

でも僕はその「ちょっと」が、意外と重く響く。

僕は行きたい理由を探すでもなく、ただ胸の中で温度差を感じていた。


僕はコーヒーを少し傾け、苦さを味わう。

昨日と同じものなのに、今日の苦さは少し鋭い。

目の前のアップルパイは温かく、香りも甘い。

同じ空間にいるのに、感覚の中心が少しずれている。


「最近、よく会うね」


「うん、会うと落ち着く」

君は軽く笑い、フォークでパイを押さえる。

僕はその表情を見ながら、まだ違和感を整理できない。

「落ち着く」と言われたとき、僕の心臓は早くなる。

もう少し未来を見たいと思った僕はおかしいのだろうか。

でも君は今に満足している。

同じ言葉でも、思う重さが違う。


このままでいいのかな


心の中で呟いた。

声には出さない。

それを口にすると、きっと壊れてしまう気がした。

たった一つの小さな疑問だった。

一息で飲み干せるくらいの。


言葉は成立している。

でも、その裏にある温度は、噛み合っていない。

僕はそれを知っている。

だから少し、切ない。


君はパイを食べ終わると、カップを置き、外を見た。

僕はコーヒーを少し飲んで、ゆっくりと息を吐く。

この空間にいる間は、噛み合わなくても問題はない。

でも帰る時間が近づくたび、僕はこの微妙なズレを感じてしまう。


僕たちは笑った。

何でもない会話の途中で、自然に笑った。

でも笑いながらも、心の距離は少しずつ広がっている。

その違和感を、まだ口に出さない。

それが、僕たちのこの関係の温度なのだと思った。

いや、僕だけが勝手に期待したからだ。


外の街灯がつき始め、空が少しずつ青黒くなる。

店内の音は柔らかく、遠くの話し声やカップの触れ合う音がBGMになる。

僕は窓の外の街の光に目をやりながら、君の笑顔を思い浮かべた。

笑っているけれど、手の届かない場所にいるような、そんな距離感。

今日も、明日も、同じ空間にいても、届かない何かがあることを知った。


僕は少し冷めたコーヒーを飲み干し、カップを置く。

君はアップルパイを小さく切って、最後のひと口を口に入れる。

その瞬間、空間は静かに呼吸をしているようだった。


僕たちは黙ってしばらく座る。

お互いの存在は確かだけれど、感情は少しずつずれている。

その違和感を認めたまま、今日も時間は過ぎていく。


窓の外の光が暗くなると、帰る時間が近づいたことを告げる時計の音が店内に響く。

僕は立ち上がり、君も同じように動く。

カップの縁に少し残ったコーヒーの香りと、アップルパイの甘い匂いが、今の僕たちをそっと包む。


扉を開けると、外の冷たい空気が入り込む。

光と影が交差する街を歩きながら、僕は今日の違和感を心に抱えたまま、また明日も明後日も来週も来月もその次もきっと同じ時間にまたここへ来るだろう。

届かない距離を意識しながらも、噛み合わない感情を抱えたまま。


それでも君と同じ場所に座るために。

言えない言葉を飲み干すように微笑んだ僕の顔がショーウィンドウに映る。

まるで自虐のような、苦みに耐えた顔をしていた。


冷めたコーヒーはとても苦かった。

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2026年1月16日 08:00 毎週 金曜日 08:00

珈琲とアップルパイ 星野奏 @star_kanade

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