珈琲とアップルパイ

星野奏

カップの淵

カフェのドアを開けた。

いつものように決まって同じ匂いがする。

焙煎された豆の香り、砂糖やチョコレートの甘い香り、茶葉の芳しい香り。

雑多でいてどこか落ち着く匂いがする。

どこの店も大して変わらないはずなのにここだけは覚えている。

深く息吸い込んだ。いつもの大学生気分に戻る気がするから。

講義も終わり、遊びやバイトにはまだ少し早い時間、何かを始めるには短く何かをやりきるには余るような時間。学校から徒歩10分圏内の普通のチェーン店のこのカフェで半端な時間を過ごしていた。


君は僕より先に着いていていつもの窓際の席に座っていた。

両手でカップを包み小雨の降るガラスの向こうをぼんやりと眺めている。


「早かったね」

声をかけると君は顔を上げた。

「うん、たまたま」


そう言って少しだけ笑う。

約束よりも早くついてしまう所も、それを理由付けしないしないところも君らしく思える。

君を好きになってから僕はそんなところにさえも魅力だと思い、ひとつづつ覚えてしまう。


カウンターでいつものブラックコーヒーを頼む。

サイズもミルク、砂糖の有無もいつも同じ。

特段ブラックにこだわりがあるわけじゃないし、ブラックよりもカフェオレが好きだった時もあるけど君と来る日が増すごとに自然とこうなっていった。


提供されたカップとソーサーを持って席に戻ると君の前にはアップルパイが置かれていた。先ほど焼きあがったばかりなのだろう立ち上る湯気とともに香ばしい匂いと甘いカスタードがコーヒーに負けないほど僕の鼻をくすぐる。

てらてらと輝くパイはフォークを入れるとサクッと音を立てそうに見えた。


「今日もそれ?」

アップルパイを指で刺しながら聞く。

君は宙でフォークをそっと揺らし一言だけ答える。

「うん。好きだから」

そう言った君はためらわずフォークで先端を掬い口に運んだ。

美味しい、と確かめるように言う君を見て僕は少し羨ましかった。

好きなものを好きだという事に迷いがなく理由を探さずに居られることが心底羨ましかった。


僕は感情を抑えるように黒い水面に口をつけた。

苦い。当たり前のように。

でも、嫌ではない。むしろこの苦さが僕を、この時間を保ってくれている気がした。


「苦そう」

僕の少しひそめた眉を見てか君は声をかけてくる。

僕は君を見もせず

「もう慣れたかな」

ぶっきらぼうに答えた。

「大人だね」


君はからかうように笑った。

君に言われた大人という言葉がカップの底に沈んでいった気がした。

18歳。いや、僕はもう19歳、か。

大人として扱うにはまだ若く、子供と呼ぶには成長しすぎた曖昧な枷でどこまで行けば大人になれるのかそんなことは誰も教えてくれない。

だからか大人と言う言葉に人一倍反応してしまうのだろう。


「今日の講義どうだった?」

アップルパイを頬張りながら君は僕を見る

「ひたすら眠かったよ」

眠気覚ましのように一口づつ僕はコーヒーを啜っている。

「だよね、寝てたから何もわかんなかった」


薄い内容の言葉のキャッチボールは自然で、間も丁度いい。

流れる沈黙も心地よくそんな会話が一頻り続いた。


君はまた一口を頬張り「美味しい」と感想を述べる。

その声は少し弾んでいてなぜか僕は安心した。

同じものを見て、同じ時を過ごしている。

そう思えることが、ここでは簡単だった。

何か特別な事をしなくても、確かめなくても一緒にいられる場所。


僕は減っていくカップを見つめたまま。

君は嬉しそうにパイを減らしていく。

少しのペースの違いを僕はぼんやりと眺めていた。

こんな時間はいつまで続くのか。

そんなことを考えているのは少なくとも今は、僕だけでいい。


今はなら先は?

僕はカップを呷り、君の食べ終わるのを待った。


舌には苦みと、飲み干したカップには残り滓があった。

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