第19話
地下要塞――もとい、ルシアンの『執筆ルーム』が完成して数日。
彼女の生活は劇的に改善されていた。
朝、目覚めるとそこは完全防音の地下寝室。鳥の声も風の音もしない。
キースが運んでくる朝食を食べ、優雅にコーヒーを飲み、そのまま隣の『執筆室』へ移動してペンを走らせる。
疲れたら天然温泉で汗を流し、サウナで整う。
「……天国ね」
ルシアンは羽ペンを置き、ふぅと息をついた。
地上の『聖女騒動』がどうなっているかは知らない。
たまにキースが「……供物が増えた」「……賽銭箱が設置された」と報告してくるが、地下にいれば対岸の火事だ。
「この静寂さえあれば、私は一生ここで暮らせるわ」
ルシアンが満足げに伸びをした、その時だった。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
突如、部屋の壁にある赤いランプが点滅し、警告音が鳴り響いた。
「な、なに!?」
ルシアンが飛び上がると、壁のスピーカーからキースの緊迫した声が聞こえてきた。
『……ルシアン、緊急事態だ。……第一防衛ラインが突破された』
「敵襲!? お父様の私兵団ですか!?」
『……違う。……もっと厄介な奴だ』
キースの声に、珍しく焦りが混じっている。
『……ピンク色の、音波兵器だ』
「あ」
ルシアンは全てを悟った。
その瞬間、重厚な鉄の扉の向こうから、微かに、しかし確実に、あの声が聞こえてきたのだ。
「おぉぉぉぉねぇぇぇぇさぁぁぁぁまぁぁぁぁ~~~!!!」
「ヒッ!?」
地下深くなのに。
何重もの防音壁があるのに。
ミナの声は、物理法則を無視して鼓膜に届いた。
「開けてくださいましぃぃぃ! アラン様への『愛の賛歌(自作・全18番)』が完成しましたのぉぉぉ! ぜひ一番最初に聴いていただきたくてぇぇぇ!!」
「嫌です! 死んでも嫌です!」
ルシアンは扉に向かって叫んだ。
『……奴め、換気ダクトから声を送り込んでやがる』
キースが舌打ちする。
『……ルシアン、ここも危険だ。……最終シェルターへ退避しろ』
「最終シェルター?」
『……例の、「完全無音室」だ。……あそこなら、換気口も特殊フィルター付きだ。……奴の声も届かない』
「わ、わかりました!」
ルシアンは原稿を抱えて部屋を飛び出した。
廊下に出ると、換気口からミナの歌声(ジャイアン級)が響き渡っている。
『ア~ラ~ン~様~♪ 貴方の瞳は~ ブラックホール~♪(不協和音)』
「ぐっ……! 頭が……!」
ルシアンは耳を塞いで走った。
廊下の向こうからキースも走ってくる。
「……こっちだ!」
彼はルシアンの手を引くと、一番奥にある白い扉を開け、二人で転がり込んだ。
バタンッ!
カチャリ。
重いロックがかかる音がして、密閉される。
その瞬間。
シーン……。
世界から、音が消滅した。
ミナの殺人級の歌声も、警告音も、自分たちの足音さえも。
全てが吸音材に吸い込まれ、完全なる『無』になった。
「…………」
「…………」
ルシアンは肩で息をしていたが、その呼吸音さえ聞こえにくい。
ここは、本来『執筆用』に作られた部屋だが、今は『避難所』として機能している。
広さは四畳半ほど。
その狭い空間に、ルシアンとキース、二人きり。
「……助かった……」
ルシアンは口パクで言ったつもりだったが、この静寂の中では、囁き声でもクリアに聞こえた。
「……ああ。……危ないところだった」
キースが壁に背を預け、額の汗を拭う。
「……奴の『愛の力』は、俺の結界をも凌駕するらしい。……まさか、換気扇の排気口から逆流してくるとは」
「ゴキブリ並みの生命力ですね……」
ルシアンは床に座り込んだ。
まだ心臓がバクバクしている。
だが、不思議と恐怖は去っていた。
この部屋の静けさが、荒ぶる神経を急速に鎮静化させてくれる。
「……静かですね」
「……完全無音室だからな」
キースもルシアンの隣に腰を下ろした。
距離が近い。
肩が触れ合う距離だ。
普段なら「近い」と文句を言うところだが、今はその体温が心地よかった。
「……外では、まだ歌っているのかしら」
「……おそらく。……十八番まで歌うと言っていたから、あと二時間は続くだろう」
「二時間、ここに缶詰めですか……」
ルシアンは苦笑した。
密室。
無音。
そして、頼れる(ストーカー気質の)騎士様。
状況だけ見れば、恋愛小説のワンシーンのようだ。
「……キースさん」
「……ん」
「貴方、心臓の音がうるさいですよ」
ルシアンが指摘すると、キースはビクリとして胸を押さえた。
「……聞こえるか」
「ええ。ここ、静かすぎますから。……ドクンドクンって、早鐘のように」
「……お前もだ」
キースがルシアンを見つめる。
「……お前の心音も、聞こえる」
「ッ……」
ルシアンは顔を赤くした。
自分の緊張が、音として筒抜けになっているなんて。
恥ずかしい。
でも、嫌じゃない。
音のない世界で、お互いの『命の音』だけが響き合う。
それは言葉よりも雄弁で、どんな愛の言葉よりも親密なコミュニケーションのように思えた。
「……不思議ね」
ルシアンは膝を抱えた。
「私は一人が好きなはずなのに。……貴方の音が聞こえると、ホッとするわ」
「…………」
キースは何も言わなかった。
ただ、そっとルシアンの手の上に、自分の手を重ねた。
大きく、温かい手。
「……俺もだ」
彼は静かに言った。
「……戦場は、いつも騒がしかった。……悲鳴、爆発音、命令の声。……静寂なんて、死ぬ時以外にはないと思っていた」
彼の手が、ルシアンの指を優しく絡め取る。
「……だが、お前との静寂は、生きている心地がする」
「…………」
ルシアンの胸が高鳴る。
心拍数が上がり、その音がまた部屋に響く。
「……うるさくなりましたね、私」
「……いい音だ」
キースはルシアンの方へ体を向けた。
その瞳が、熱を帯びて至近距離で見つめてくる。
「……キスしても、いいか」
「!!」
直球すぎる確認。
ルシアンは真っ赤になって俯いた。
「……ここは、神聖な執筆室ですよ?」
「……今は、シェルターだ」
「……ミナの声が聞こえるかもしれない場所ですよ?」
「……聞こえない。……俺たちしかいない」
逃げ場はない。
それに、逃げたくもなかった。
ルシアンはゆっくりと顔を上げ、小さく頷いた。
「……一回だけですよ。……心臓がうるさくて、恥ずかしいから」
キースがふわりと微笑んだ。
そして、ゆっくりと顔を近づけ――。
ドンッ!!
突然、部屋全体が大きく揺れた。
「!?」
二人の唇が触れる寸前で、お互いの額がゴチンとぶつかる。
「いっ……!」
「……なんだ!?」
警報ランプが激しく点滅し、スピーカーからノイズ混じりの音声が流れた。
『……警告! 警告! 地下空調システムに異常発生! 外部からの過剰な音圧エネルギーにより、フィルターが破損! 爆発の恐れあり!』
「音圧でフィルター破壊!?」
ルシアンは絶句した。
ミナの歌声は、物理攻撃力を持っていたのか。
「……チッ、いいところだったのに」
キースが本気で悔しそうな顔をして立ち上がった。
「……ルシアン、ここにいろ。……俺が止めてくる」
「止めるって、どうやって?」
「……口を塞いでくる。……物理的に」
キースは般若のような形相で、扉のロックを解除した。
プシュウゥゥ……。
扉が開いた瞬間、轟音が流れ込んでくる。
『ア~ラ~ン~さ~まぁぁぁぁぁ!!(クライマックス)』
「うるせぇ!!」
キースが叫びながら飛び出していった。
残されたルシアンは、額をさすりながら、深いため息をついた。
「……本当に、ムードのない人たち」
でも。
ルシアンは自分の唇にそっと触れた。
あと数センチだった。
その距離感が、悔しいような、でも少し安堵したような。
「……次は、もっと静かな時にね」
誰にともなく呟き、彼女は小さく笑った。
この地下室も、どうやら完全な安住の地ではないらしい。
だが、彼となら、どんな騒音の中でも『二人だけの静寂』を作れるかもしれない。
そんな予感を抱きながら、ルシアンは爆音のする廊下へと、彼を追いかけて走り出した。
二人の奇妙な同棲生活――もとい、騒音との戦いの日々は、まだまだ続くようである。
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