第17話

『賢者マーリンの魔除け札』と『キース特製・濃霧結界』。


この二重の防壁により、ヴァイオレット公爵令嬢の別荘は、一時的な平和を取り戻したかに見えた。


だが、人類の歴史が証明している通り、最も強固な壁を破るのは兵器ではない。


『熱狂』だ。


ある晴れた(はずの)朝。


ルシアンは、地響きのような『声』で目を覚ました。


「聖女様ァァァ!! お姿をォォォ!!」


「沈黙をォォォ!! 我らに至高の沈黙をォォォ!!」


「ありがたやァァァ!! この霧もまた、聖女様の吐息なりィィィ!!」


ドンドコドンドコドンドコ!!


太鼓の音。


鐘の音。


そして、数百、いや数千の人々による合唱。


「……」


ルシアンはベッドの上で、無言で天井を見つめた。


時間は午前五時。


低血圧の彼女にとって、最も静寂が必要な時間帯である。


(……聞こえる。霧の向こうから、明確に聞こえる)


どうやら、巡礼者たちは霧を「聖なる試練」と解釈し、逆にテンションを上げてしまったらしい。


しかも、どこかの商魂たくましい業者が「聖女様の声を届ける拡声魔道具」なるものを持ち込み、現場の熱気を実況中継しているようだ。


『さあ、今、霧が動きました! 聖女様のお目覚めでしょうか!? 皆さん、もっと大きな声で祈りましょう! 届け、この想い!!』


「ワァァァァァァァッ!!!」


プチッ。


ルシアンの脳内で、何かが切れる音がした。


血管か、理性か、あるいはその両方か。


彼女は布団を跳ね除け、ゆらりと立ち上がった。


その背後には、修羅のようなオーラが立ち昇っている。


部屋の隅で待機していたキースが、ビクリと震えた。


「……ルシアン?」


「……キースさん」


ルシアンの声は、絶対零度よりも冷たかった。


「……おはようございます」


「……ああ。……うるさいな、外」


「ええ。とても賑やかで、素晴らしい朝ですこと」


ルシアンは笑顔だった。


ただし、目は笑っていない。瞳孔が開いている。


彼女はナイトガウンの上に、適当な上着を羽織ると、スタスタと部屋を出て行った。


「……おい、どこへ行く」


キースが慌てて追いかける。


「……散歩です」


「……外は危険だ。……狂信者どもがいる」


「ええ、知っています。だからこそ、挨拶に行かねばなりません」


ルシアンは玄関の扉に手をかけた。


「ルシアン、待て。……俺が追い払う。……実力行使で」


「いいえ」


ルシアンは首を横に振った。


「貴方の手は汚させません。それに、言葉が通じない相手には、言葉で分からせるしかありません」


「……矛盾しているぞ」


「いいえ。……『黙れ』という言葉だけは、世界共通ですから」


ガチャリ。


ルシアンは扉を開け放った。



霧の中。


屋敷の前には、見えない結界を前に立ち往生する群衆が溢れかえっていた。


先頭に立つのは、「聖女ルシアン教団・臨時代表」を名乗る怪しい男だ。


彼は拡声器を片手に、群衆を煽っていた。


「祈れ! もっと叫べ! 静寂の聖女様は、我々の情熱を試しておられるのだ!」


「静寂をくれェェェ!!(絶叫)」


カオスだった。


矛盾の極みだった。


その時。


ザッ……。


濃霧が、まるでモーゼの海割れのように、左右に分かれた。


「おっ? おおっ!?」


群衆がどよめく。


霧の奥から、一人の女性が姿を現した。


寝起きでボサボサの髪。


適当に羽織った上着。


そして、手にはなぜか『布団叩き』が握られている。


しかし、その全身から放たれる威圧感は、魔王のそれだった。


「せ、聖女様だァァァ!!」


代表の男が叫んだ。


「見ろ! あのお姿を! 寝起きという無防備な姿で、我々を迎えてくださったぞ!」


「ありがたやァァァ!!」


人々が押し寄せようとする。


ルシアンは、一歩も動かなかった。


ただ、ゆっくりと息を吸い込み、そして――。


カッ!!


目を見開いた。


「五月蝿い」


声量は、決して大きくなかった。


しかし、その声は拡声器の音量を遥かに凌駕し、人々の鼓膜ではなく、脳幹に直接響いた。


ピタリ。


群衆の動きが止まる。


太鼓の手が止まる。


鳥さえも落ちるような、強制的な停止。


ルシアンは布団叩きを指揮棒のように振り上げ、群衆を指し示した。


「貴方たち、今、何時だと思っているのですか」


「え、あ、ご、五時半で……」


代表の男が震える声で答える。


「そうです。五時半です。早朝です。常識ある人間が、睡眠を貪っている神聖な時間です」


ルシアンは一歩、前に踏み出した。


それだけで、最前列の屈強な男たちが「ヒッ」と後ずさる。


「百歩譲って、祈るのは勝手です。私の名前を勝手に使うのも、まあ、著作権の概念がないこの国では許しましょう」


彼女の瞳が、爬虫類のように冷たく細められる。


「ですが」


ドンッ!


ルシアンは布団叩きで地面を叩いた。


ただの土なのに、岩が砕けるような音がした(気がした)。


「私の半径五百メートル以内で、呼吸音以上のデシベルを出すことは許しません」


「は、はい……?」


「聞こえませんでしたか? 『黙れ』と言ったのです」


ルシアンの声が、一段低くなる。


「貴方たちのその汚い声が、私の安眠を妨げ、読書の集中力を削ぎ、紅茶の香りを損なうのです。それは万死に値する重罪です」


「し、しかし聖女様! 我々は貴女を崇拝して……!」


「崇拝? 笑わせないでください」


ルシアンは冷笑した。


「貴方たちが求めているのは『静寂』でしょう? ならば、まずは己が口を閉じなさい。それができない人間に、静寂を語る資格はありません」


正論の暴力。


ぐうの音も出ないとはこのことだ。


ルシアンはさらに畳み掛ける。


「いいですか。今後、この森に足を踏み入れる者は、以下のルールを厳守していただきます」


彼女は指を一本立てた。


「一、私語厳禁。筆談のみ許可します」


二本目。


「二、足音厳禁。忍び足、もしくは匍匐(ほふく)前進で移動すること」


三本目。


「三、私の視界に入らないこと。私は人間アレルギーです」


そして最後に、彼女は究極の宣告をした。


「もし、これらを破り、再び私に『うるさい』と感じさせたならば……」


ルシアンは背後のキース(呆然と立ち尽くしている)を親指で指した。


「そこの『黒いのが』が、貴方たちを物理的に『永眠(サイレンス)』させます」


「!?」


キースが「俺かよ」という顔をしたが、すぐに空気を読んで、わざとらしく指の骨をボキボキと鳴らした。


同時に、彼の『影の騎士団』としての本気の殺気を、ほんの少しだけ漏らす。


ゴゴゴゴゴ……。


空気が歪む。


群衆は悟った。


この女は、聖女ではない。


慈愛の女神でもない。


触れてはいけない、この森の『主(ヌシ)』だ。


「……わ、わかりましたァァァ!!」


代表の男が土下座した。


「静かにします! 死ぬほど静かにします! ですから命だけは!」


「……よろしい」


ルシアンは満足げに頷いた。


「では、解散。……静かに、帰りなさい」


彼女が踵を返すと同時に、数千の群衆は、まるで訓練された軍隊のように「音もなく」撤収を開始した。


悲鳴も上げない。


走り去る足音もしない。


恐怖が、彼らを真の『静寂の使徒』へと変えたのだ。



屋敷に戻ったルシアンは、ソファに倒れ込んだ。


「……ふぅ。スッキリした」


「……お前」


キースが恐る恐る声をかける。


「……怖かったぞ」


「あら、そうですか? いつもの貴方を見習っただけですけれど」


「……俺以上だ。……あんな殺気、初めて見た」


キースは本気で引いていた。


「……『聖女』の噂は消えるだろうが、代わりに『魔王』の噂が立つぞ」


「構いません。魔王の方が、人は寄り付きませんから」


ルシアンは紅茶を一口飲み、ふう、と息をついた。


「これでやっと、静かな朝が――」


その時。


窓の外で、小鳥が「チュン!」と鳴いた。


「……チッ」


ルシアンが舌打ちをした。


「……殺気立っているな」


キースが苦笑する。


「……当分、お前には逆らわないことにする」


「賢明な判断です。……さて、二度寝しますので、起こさないでくださいね」


ルシアンは自室へと戻っていった。


その背中は、以前よりも一回り大きく、そして頼もしく見えた。


こうして、「ルシアン、キレる」事件は幕を閉じた。


群衆は去った。


だが、この事件がもたらした効果は、ルシアンの予想を斜め上に裏切ることになる。


人々は恐怖したのではない。


『あの方こそ、言葉の無意味さを説き、恐怖によって我々を導く、真の支配者だ!』


と、信仰の方向性が『M属性』の方へ捻じ曲がってしまったのだ。


結果、屋敷の周りには「音を立てずに供物を置いていく」という、さらに高度で不気味な信者たちが現れるようになるのだが……。


今のルシアンは、ただ温かい布団の中で、束の間の勝利の夢を見ていた。


だが、地上での生活には限界がある。


ルシアンは夢の中で思った。


(……地下だ。地下しかない。地上の音など届かない、完全なる核シェルター級の地下室を作ろう)


その野望が、次なる物語の扉を開く。

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