第11話
嵐の翌朝は、快晴だった。
だが、ルシアンの気分はどんよりとした曇り空だった。
理由は二つある。
一つは、昨晩の「毛布事件」による強烈な気まずさと、変な体勢で寝たことによる首の痛み。
もう一つは、早朝に届いた一通の手紙だ。
「……はぁ」
ルシアンは食卓で、ため息をついた。
目の前には、焼きたてのフレンチトースト(キース作)があるが、フォークが進まない。
向かいの席では、キースがいつも通り無表情でコーヒーを飲んでいるが、彼もまた時折首をコキッと鳴らしている。
「……痛むか」
「ええ、少し。誰かさんが万力のような力で抱きしめて離さなかったせいです」
「……不可抗力だ」
キースは視線を逸らした。
「……それより、その紙切れはなんだ」
彼はテーブルの上に放置された、分厚い封筒を顎でしゃくった。
ヴァイオレット公爵家の家紋が入った、最高級の羊皮紙。
今朝一番で、早馬の使者が置いていったものだ。
「お父様からです。嫌な予感しかしません」
ルシアンはペーパーナイフを手に取った。
「もしかしたら『勘当だ』とか『二度と敷居を跨ぐな』とか、そういう嬉しい知らせかもしれませんけれど」
「……開けろ」
促されて、封を切る。
中から出てきたのは、父の達筆な文字が踊る手紙だった。
ルシアンは読み上げ始めた。
『親愛なる娘、ルシアンへ。
森での生活はいかがかな。
先日の週刊誌の記事を読んだぞ。「沈黙の令嬢」としての評判、誠に素晴らしい。
お前がこれほどまでに計算高い……いや、聡明な娘だとは知らなかった。
アラン殿下を無言で撃退したという武勇伝は、今や社交界の伝説だ』
「……誤解が加速しています」
ルシアンは頭を抱えた。
「続きを読みます。
さて、本題だ。
お前の株が急上昇したおかげで、我が家に釣書(つりがき)が殺到している』
「……釣書?」
キースの眉がピクリと動く。
「……結婚の申し込み書類のことです」
ルシアンの声が震え始めた。
『その中でも、特に条件の良い相手を選んでおいた。
隣国の富豪、ガルシア伯爵だ。
彼は「静かな女性が好みだ。飾り物のように座っていてくれればいい」と申しておる。
お前の希望とも合致するだろう?』
「合致しません!!」
ルシアンはバンッ! と机を叩いた。
「飾り物扱いなんてごめんです! 私は私の意志で静かにしていたいのであって、誰かのコレクションになりたいわけではありません!」
『よって、直ちに帰還せよ。
来週の夜会で、お見合いの席を設けてある。
拒否権はない。これは公爵家としての命令であり、お前の将来を案じての慈悲だ。
もし戻らぬ場合は、強制的に連れ戻す部隊を派遣する。
父より』
読み終えたルシアンの手から、手紙が滑り落ちた。
「……終わった」
彼女は椅子に崩れ落ちた。
「強制連行……。お父様は本気だわ。あの人は、一度言い出したら絶対に曲げない」
せっかく手に入れた静寂。
キースとの奇妙で穏やかな同盟生活。
それら全てが、一通の手紙によって粉砕されようとしていた。
「……嫌だ」
ルシアンの目から、涙が滲む。
アランに婚約破棄された時は一ミリも泣かなかったのに、この楽園を失うことへの恐怖は、彼女を容易に泣かせた。
「戻りたくない……。あんなうるさい場所へ……。見知らぬ男の飾り物になるなんて……」
「…………」
ガシャッ。
音がして、ルシアンは顔を上げた。
キースが、手に持っていたコーヒーカップを握りつぶしていた。
陶器の破片が散らばり、黒い液体がテーブルに広がる。
しかし、彼は熱さなど感じていないようだった。
「……キ、キースさん?」
「……ガルシア伯爵」
地獄の底から響くような声だった。
「……知っている。好色な豚だ。……すでに三人の妻を過労で亡くしている」
「えっ……」
「……飾り物にするんじゃない。……籠の鳥にして、精神を壊すのが趣味の男だ」
キースの瞳に、明確な殺意が宿っていた。
普段の静けさは消え失せ、嵐のような激情が渦巻いている。
「……行くな」
彼は立ち上がり、ルシアンの肩を掴んだ。
「……絶対に行かせない」
「で、でも……お父様は兵を送ると言っています。ここが見つかっている以上、逃げ場はありません」
ルシアンは絶望に首を振った。
「私は公爵令嬢です。家の方針には逆らえない……。貴方に迷惑をかけるわけにもいきません」
「……迷惑?」
キースが鼻で笑った。
「……俺を誰だと思っている」
「え? えっと、無口な隣人さん……あるいは、ストーカー気質の庭師?」
「……違う」
キースはルシアンの涙を、親指で乱暴に、しかし優しく拭った。
「……同盟者だ」
「…………」
「……お前の静寂を乱す者は、たとえ国王だろうと、実の父親だろうと、俺が排除する」
「排除って、貴方……戦争でも起こす気ですか?」
キースは答えなかった。
ただ、燃えるような瞳でルシアンを見つめ、低い声で囁いた。
「……待っていろ。……すぐに片付ける」
「え?」
「……今日はもう寝ろ。……泣き腫らした顔は、ブサイクだ」
「余計なお世話です!」
いつもの軽口。
しかし、キースはそれ以上語らなかった。
彼はルシアンを半ば強引に二階の寝室へ押し込み、「休め」と短く命じて扉を閉めた。
ルシアンは疲労と絶望で、言われるがままベッドに横になった。
(どうすればいいの……。逃げる? でもどこへ?)
思考がまとまらない。
窓の外では、また風が吹き始めていた。
いつの間にか、ルシアンは浅い眠りに落ちていた。
***
翌朝。
ルシアンが目覚めると、屋敷の中は奇妙なほど静かだった。
「……キースさん?」
呼びかけても、返事はない。
いつもなら聞こえるはずの、朝食を作る音も、薪を割る音もしない。
「まさか……」
ルシアンは一階へ駆け下りた。
リビングには誰もいなかった。
キッチンも、庭も、屋根の上も。
彼の姿はどこにもなかった。
「嘘……」
ルシアンは立ち尽くした。
昨日の今日で、私を見捨てて出て行ったの?
面倒になって逃げた?
(……ううん、違う。あの人はそんな人じゃない)
ふと、テーブルの上に一枚の紙切れが置かれているのに気づいた。
ルシアンは震える手でそれを手に取る。
そこには、彼の無骨な文字で、たった一行だけ書かれていた。
『ゴミ処理に行ってくる。すぐに戻る』
「…………は?」
ゴミ処理?
この森にゴミ収集車など来ない。
だとすれば、彼が言う『ゴミ』とは――。
「まさか……」
ルシアンの顔から血の気が引いた。
『お前の静寂を乱す者は、俺が排除する』
昨日の言葉が蘇る。
ゴミ=ガルシア伯爵? あるいは、お父様?
「……馬鹿な人!」
ルシアンは紙切れを握りしめた。
彼は一人で、公爵家と、そして伯爵家という巨大な権力に喧嘩を売りに行ったのだ。
たった一人で。
ただの「隣人」として。
「……どうしよう」
ルシアンの胸に、かつてない焦燥感が広がる。
自分のために、誰かが傷つくかもしれない。
あの無口で不器用な彼が、私のために罪を犯すかもしれない。
(……黙って見ていろってこと?)
静かに待っていれば、彼は全てを片付けて戻ってくるだろう。
そしてまた、平和な二人きりの生活が始まる。
それが一番楽だ。
それが一番『静寂』に近い。
だが。
「……じっとなんて、していられないわよ!」
ルシアンは叫んだ。
彼女はクローゼットを開け、一番動きやすい服(キースが作業用に貸してくれたズボン)に着替えた。
「待ってなさい、キース。……私が『止めて』あげるわ」
ルシアンは玄関を飛び出した。
向かうは王都。
悪役令嬢ルシアン・ヴァイオレット。
彼女が初めて、自分の意志で、静寂を捨てて「騒音」の中へと飛び込む時が来たのだ。
愛する(まだ認めていないが)隣人を、救うために。
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