盲愛の色彩
アーレ
第1話聖母の箱庭
その部屋は、音のない雪原に似ていた。
蓮にとって、世界は「白」という概念で塗り潰されていた。それは恋人である実里が、毎日彼の耳元で、祈りのように注ぎ込み続ける色彩だ。
「蓮、おはよう。今日も外は綺麗な冬の白よ。あなたのパジャマも、今新しく乾いたものに取り替えたわ」
実里の指先が蓮の頬をなぞる。その指は驚くほど冷たく、けれど同時に、壊れ物を扱うような震えるほどの慈しみがこもっていた。
蓮は事故で光を失って以来、このマンションの一室から一歩も外に出ていない。外界の喧騒も、汚れた空気も、実里という名の聖母によって完璧に遮断されていた。彼は、彼女の消え入りそうなほど澄んだ声だけを道標にして、底のない暗闇を泳いでいた。
「実里……、君の声を聞くと、ここがどこよりも安全なんだって思えるよ」
「そうよ、蓮。あなたはここで、ただ無垢に咲いていればいいの。私が、あなたの世界のすべてを完璧に整えてあげるから」
実里は蓮の膝に顔を埋め、深く、甘い息を吐いた。彼女にとって、外界を拒絶し、自分なしでは呼吸をすることさえままならない今の蓮は、完成された一幅の絵画のように美しかった。
しかし、その静謐な均衡は、不意に訪れた神経の疼きによって音を立てて崩れ始める。
朝食のスープを口に運んでいた時だ。蓮のまぶたの裏で、どろりとした闇とは異なる、強烈な閃光が弾けた。
「……っ!」
蓮はスプーンを落とした。陶器の砕ける鋭い音が、静かな部屋に不吉に響き渡る。
「どうしたの、蓮?」
「……見えたんだ。今、一瞬だけ。真っ白なんかじゃない。もっと、こう、熱くて、どす黒い……」
蓮は自分の目を押さえた。網膜の奥で、鮮烈な「赤」が尾を引いて残っている。それは実里が教え続けてくれた「清らかな白」の世界を
実里の呼吸が止まった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、床に散ったスープと陶器の破片を見つめる。そして、表情を一切変えないまま、自らの足でその鋭利な破片を、深く、躊躇なく踏み抜いた。
白いソックスが瞬く間に赤く染まっていく。だが、彼女はその痛みさえも陶酔に変えるような、歪んだ笑みを浮かべていた。
「それは、あなたの可哀想な目が流している『血の涙』よ、蓮」
彼女は蓮の背後に回り込み、その目を両手で深く、重く覆った。
「外の世界はね、あなたが思うよりずっと汚くて、残酷なの。だからあなたの身体が拒絶反応を起こしているのよ。そんな幻影を信じてはダメ。もっと深く目を閉じて……私だけを感じて」
実里は、破片で切れた自らの足を、蓮の足元にそっと寄せた。蓮には見えない。自分の真っ白な寝間着の裾が、彼女が流した鮮血でじわじわと汚染されていることに。
「……怖いよ、実里。何も信じられなくなる」
「いいのよ、それで。私だけを信じていれば、あなたは永遠に美しいままでいられるわ」
実里は薬を混ぜたハーブティーを、優しく、けれど拒絶を許さぬ強さで蓮の唇に押し当てた。
蓮の意識が朦朧としていく中、実里は彼の耳元で囁き続ける。
「大丈夫、蓮。もし本当に目が見えるようになっても……私がまた、あなたを正しい暗闇に戻してあげるから」
蓮が眠りに落ちた後、実里は彼に重なり、自分の血で汚れた彼の衣類を愛おしそうに撫でた。
白と赤。
この完璧なコントラストこそが、彼女が夢見た「保存された愛」の形だった。
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盲愛の色彩 アーレ @Aren252518
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