渚のバルコ
辛口カレー社長
渚のバルコ
八月三十一日。この日付が持つ独特の重みを、かつて学生だった人間ならば誰もが知っているはずだ。
宿題が終わっていない焦り、明日から始まる規則正しい生活への拒絶、そして何よりも、「夏」という特別な季節が終わってしまうことへの、胸を締め付けられるような虚無感。
部屋の窓を開け放っても、入ってくるのは生温かい風だけだ。遠くで鳴いているツクツクボウシの声が、まるで僕の憂鬱を急かすメトロノームのように聞こえる。
机の上に広げられた数学のワークブックは、白いページが大半を占めていた。解かなければならないという理屈は理解しているが、シャーペンを持つ手は鉛のように重い。
ベッドに転がり、天井のシミを数え始めた時だった。枕元に放り投げていたスマートフォンが、ブブブ、と短い振動音を立てた。
画面には「大橋」の二文字。
嫌な予感がした。このタイミングでの大橋からの連絡は、ろくなことにならないと相場が決まっている。でも、無視をするわけにもいかない。
僕は深いため息をついてから、通話ボタンをスワイプした。
「おう、岡田。今何してた?」
相変わらずの、太陽をそのまま溶かし込んだような明るい声だ。こちらの気鬱などはお構いなしのそのトーンに、僕は少しだけ毒気を抜かれる。
「何って……数学のワークと睨めっこだよ。手付かずなんだ」
「ハハッ、お前もかよ! 俺なんか現代文も残ってるぜ!」
「笑い事じゃないだろ。で、用件は?」
「ああ、そうそう。ちょっとバルコの様子、見に行こうぜ」
――バルコ。
その単語を聞いた瞬間、僕の脳裏に潮の香りとペンキの匂いが蘇った。
「……行ってどうすんだよ。明日から学校なのに」
「だからこそだろ。夏休み最後の日を、俺たちの城で締めくくるんだよ。夕日が沈むのを見届けて、俺たちの夏を終わらせる。な? ロマンだろ?」
「ロマンって……」
呆れたが、不思議と悪い気はしなかった。数式と格闘して一日を終えるよりは、幾分か健全な時間の使い方かもしれない。それに、そこに行けば、何となく夏休みの宿題なんていう小さな悩みはどうでもよくなるような気がした。
「分かった。すぐに出るよ」
「オーケー、現地集合な!」
通話が切れると同時に、僕は跳ねるようにベッドから起き上がった。よれよれのTシャツを脱ぎ捨て、新しいTシャツに着替えてスマートフォンだけをポケットにねじ込む。
一階に降りると、台所から包丁がまな板を叩くリズミカルな音が聞こえてきた。夕飯の支度が始まっている。
「母さん、ちょっと海に行ってくる」
「はあ? もうすぐ夕飯できるんだけどー!」
予想通りの反応だ。母の少しだけ怒りを含んだ声が、換気扇の音に混じって響く。
「すぐ帰るからー!」
「あんた、宿題は終わったの!?」
「あとでやるー!」
それだけ叫ぶと、これ以上の追及を避けるために勢いよく玄関のドアを開けた。ムッとした熱気が全身にまとわりつく。夕方とはいえ、アスファルトは昼間の熱をたっぷりと溜め込んでいて、まるで巨大な蓄熱暖房機の上を歩いているようだ。
自転車置き場から愛車のクロスバイクを引っ張り出し、ペダルに足をかける。漕ぎ出しの数分は、生温かい風が不快だった。でも、住宅街を抜け、川沿いの道に出る頃には、風は少しずつ涼しさを運び始めていた。
僕たちが住むこの町は、海まで自転車で十分ほどの距離にある。潮風によって自転車のチェーンがすぐに錆びてしまうのが悩みの種だが、いつでも海に行けるという環境は、僕たち高校生にとっては捨てがたい魅力だった。
川沿いのサイクリングロードを全力で走り抜けて国道に出ると、視界が一気に開けた。目の前に広がるのは、オレンジ色に染まった海。太陽はまだ水平線の上にあるが、その光は昼間の仰々しさを失い、世界を黄金色こがねいろに包み込んでいた。
海岸線沿いの国道を西へ向かって走ると、数百メートル先に見慣れた人影が見えた。少し大きめのTシャツにハーフパンツ、そして頭には後ろ向きに被ったキャップ。大橋だ。彼は砂浜に立つ小さな木造建築物の前で、腰に手を当てて海を眺めていた。
自転車をガードレールの脇に止め、歩道橋を渡って砂浜へと降りる。砂に足を取られながら大橋の元へ近づくと、彼は振り返り、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「おっせーぞ、岡田」
「飛ばしてきたんだよ。これでも」
僕たちは並んで、目の前の建物を見上げた。西日に照らされ、長い影を落としているその小さな小屋。入口の上には、下手くそな文字で書かれた看板が掲げられている。
『渚のバルコ』
本来ならば「渚のバルコニー」となるはずだったその名前は、大橋がペンキで文字を書く際、大きさの配分を完全に見誤り、「渚のバルコ」まで書いた時点で板の余白がなくなってしまったのだ。無理やり書き足された小さな「ニー」は、遠目にはただの汚れにしか見えない。
僕は知らなかったが、「渚のバルコニー」というのは、昭和の時代にヒットした歌のタイトルらしい。大橋の親父さんがよく歌っていたそうで、彼なりのレトロなこだわりがあったようだが、結果としてこの珍妙な名前が定着してしまった。
「やっぱいいな。俺たちのバルコは」
「何だよ、その自画自賛は」
「事実だろ? 廃屋がこうして立派に生まれ変わったんだから」
大橋は愛おしそうに柱を叩いた。乾いた木の音が、波の音に混じる。
僕たちの夏の結晶が、そこに在った。
◇◇◇
時計の針を、夏休みが始まる少し前、七月の中旬まで戻そう。
僕は帰宅部であること以外に取り柄のない、ごく平凡な高校二年生だった。部活に打ち込む情熱もなく、かといって勉強に励むわけでもない。放課後は図書館で時間を潰すか、家に帰ってゲームをするか。そんな、ダラダラとした日々を送っていた。
一方、大橋はクラスの中心人物だ。サッカー部のエース候補だったが、春先に膝を痛めて退部していた。それでも彼の周りには常に人が集まり、その明るいキャラクターでクラスを牽引していた。
本来なら交わるはずのない僕たちだったが、席が前後だったことと、偶然同じオンラインゲームで遊んでいたことで意気投合し、いつの間にか昼飯を一緒に食べる仲になっていた。
事件が起きたのは、期末テストが終わった日の放課後だ。大橋は僕の机に身を乗り出し、真剣な顔で一枚のプリントを突きつけてきた。それは、市役所が発行している「地域環境美化ボランティア募集」のチラシだった。
「岡田、俺たちでここをリフォームしよう」
彼が指差したのは、チラシの裏面に小さく載っていた、海岸沿いの廃屋の写真だった。かつては海の家が屋台として使っていたらしいが、持ち主が廃業し、長年放置された結果、幽霊屋敷のような有様になっていた場所だ。近隣住民から「倒壊の危険がある」、「不審者がたまる」、「ゴミが捨てられている」と苦情が出ており、市も撤去を検討しているという代物だった。
「は? これ、廃屋だよ? あとは崩れるのを待つだけの」
「バカ、よく見ろよ。骨組みはしっかりしてるし、場所は最高だぞ? ここを直して、誰でも使える休憩所にするんだよ」
「誰が? 建築業者が?」
「俺とお前で」
僕は耳を疑った。リフォームどころか、DIYですら、学校の技術の授業で作った本棚が精一杯だ。しかもその本棚は、完成した翌日に歪んで崩れ落ちた。
「そんなの無理だよ。僕は不器用だし、そもそも勝手にそんなことしたら怒られるし」
「そこは任せろ。俺がプランを練って、学校と役所を説得してくる」
「いや、説得って……」
大橋の目は本気だった。膝の怪我でサッカーを奪われた彼が、その有り余るエネルギーをぶつける先を探していたのは知っていた。でも、まさか廃屋の修理だとは。
数日後、大橋は本当に許可を取ってきた。
どんな手を使ったのかは知らないが、彼は「高校生による地域貢献プロジェクト」と銘打った分厚い企画書を作成し、生活指導の鬼と呼ばれる体育教師を説き伏せ、その足で市役所の土木課に乗り込み、二時間にもわたる熱弁をふるって認めさせてしまったのだ。
僕がそれを知ったのは、全ての手続きが終わった後だった。
大橋が持ってきた書類には、「プロジェクトリーダー:大橋勝」、「サブリーダー:岡田賢一」と、僕の筆跡ではない文字で、しっかりと名前が記されていた。
「どうせ暇だろ? 帰宅部なんだから」
抗議しようとした僕に対し、大橋は悪びれもせず笑った。否定できなかった。確かに暇だったし、心のどこかで、何かに熱中できるきっかけを欲していたのかもしれない。
こうして僕の夏休みは、「渚のバルコ」の建設に捧げられることになった。
作業は過酷を極めた。七月の終わり、梅雨が明けたばかりの海辺は灼熱地獄だった。
まずは腐った板を剥がすところから始まった。錆びついた釘はなかなか抜けず、バールを握る手には二日目でマメができた。古い木材の下からは巨大なフナムシが這い出し、その度に僕は情けない悲鳴を上げた。
「岡田! そこはバールじゃなくて、ハンマーで叩いて外すんだよ!」
「わ、分かってるよ!」
大橋は意外にも器用だった。父親の趣味が日曜大工だそうで、道具の扱いに慣れている。
一方の僕は、足手まとい以外の何物でもなかった。釘を打てば曲がり、板を切れば寸法が合わず、ペンキを塗れば自分自身の服を塗ってしまう。それでも、大橋は決して僕を見捨てなかった。失敗して落ち込む僕に、「いい味出してるじゃんか」とか「これ、芸術的だな」と笑い飛ばし、根気強く作業を教えてくれた。
ある日、床板の張り替え作業中に、僕は大橋に尋ねた。なんで僕を誘ったのか、と。クラスにはもっと器用な奴も、力のある奴もいただろうに。
大橋は手を止め、首に巻いたタオルで汗を拭いながら言った。
「お前、文句言いながらも絶対に途中で投げ出さないだろ。そういう奴とじゃなきゃ、こういう面倒くさいことはできねぇんだよ」
その言葉は、妙に胸に響いた。不器用な自分を肯定されたような気がして、僕は黙って頷き、再び金槌を振り下ろした。
作業が進むにつれ、地元の人々も関心を持ち始めた。最初は「高校生がこんなところで何をやってるんだ!」と怒鳴り声を浴びせてきた散歩中のお年寄りが、次第に「ご苦労さん」とか「今日は暑いねえ」と声をかけてくれるようになった。近所の商店街のおばちゃんが、冷えたスイカやアイスを差し入れてくれることもあった。廃材の処分に困っていると、近くの工務店の親父さんがトラックを出してくれたり、余った塗料を譲ってくれたり、色の塗り方のコツなんかも教えてくれた。
僕たちの秘密基地作りは、いつの間にか町公認のプロジェクトになっていた。
そして八月の中旬、地元の新聞が取材に来た。翌日の朝刊には「高校生2人、崩れかけの廃屋を憩いの場に再生』という見出しと共に、ペンキだらけの僕たちの写真が掲載された。
夏休み明けの全校集会で表彰されることが決定し、いよいよ「勝手に名前を使われた」とは言えない状況になった。
完成したのは、八月三十日。つまり、昨日のことだ。
壁は爽やかなマリンブルーに、柱は清潔な白に塗り替えられた。屋根の穴は塞がれ、内部には廃材を組み合わせて作ったベンチが設置された。窓枠にはガラスの代わりに流木をあしらい、海からの風が心地よく吹き抜けるよう設計されている。歪んだ釘も、少し斜めになった棚も、全てが僕たちの汗と時間の結晶だった。
◇◇◇
「なぁ、誰か座ってんだよ、バルコに」
回想から意識を引き戻すと、大橋が目を細めてバルコの方を指差していた。西日が差し込むバルコのベンチに人影がある。逆光で顔まではよく見えないが、シルエットからして女性のようだ。
「え……誰?」
「分かんねぇけど、観光客かな」
「まぁ、休憩所なんだから、別に人がいても不思議じゃないけど」
僕たちは顔を見合わせた。
完成したばかりで、まだ誰も使っていないと思っていた自分たちの城。そこに最初の客がいる。嬉しさと同時に、自分たちのテリトリーに知らない人がいるという、若干の気まずさがあった。
「声かけてみようぜ」
「いやいや、やめようって。邪魔しちゃ悪いだろ」
僕は反射的に止めた。女性は一人で海を眺めている。何か考え事をしているのかもしれないし、そっとしておくべきだと思ったのだ。でも、大橋は聞く耳を持たない。
「せっかくのお客さん第一号だぞ? 感想聞きたいじゃんか」
「おい、待てって!」
僕の制止を振り切り、大橋は砂浜をザッザッと歩いていく。一切の迷いがないその背中を見て、僕は観念して後を追った。
「こんにちは!」
大橋の屈託のない声が響く。女性が驚いたように肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り返った。
その瞬間、僕は息を呑んだ。綺麗な人だった。
年齢は二十代後半から三十代前半くらいだろうか。白いノースリーブのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っている。肩まで伸びた黒髪が、海風にさらさらと揺れていた。
何より印象的だったのは、その瞳だ。夕日を反射して潤んだように見える黒目は、どこか遠くを見ているようで、吸い込まれそうな深さがあった。
「あ、こんにちは……」
女性は少し戸惑ったように微笑んだ。その儚げな笑顔に、僕は心拍数が上がるのを感じた。
「この休憩所、俺とこいつが作ったんです。座り心地、どうですか?」
大橋は臆することなく話しかける。そのコミュニケーション能力の高さに、改めて嫉妬と尊敬を覚える。
女性は目を丸くした。
「えっ、これ、君たちが作ったの? 高校生……だよね?」
「はい。夏休みの自由研究みたいなもんです。俺は器用なんで楽勝でしたけど、こいつは不器用で、指めっちゃ怪我してました。な?」
大橋が僕の肩をバシッと叩く。
――余計なことを……。
僕は真っ赤になりながら、絆創膏だらけの手を後ろに隠した。
「あ、どうも……岡田と言います」
「ふふっ、凄いわね。手作りなんて。手先が器用な人って羨ましい」
女性はクスクスと笑い、ベンチの表面を優しく撫でた。
「木の香りがして、すごく落ち着くわ。ずっと座っていたくなる椅子ね。海もよく見えるし、最高のロケーションよ」
「でしょ? ここからの夕日が一番綺麗に見えるように角度計算したんすよ」
「嘘つけ。適当に置いただけだろ」
僕が小声で突っ込むと、女性は声を上げて笑った。その笑い声は、風鈴のように涼やかだった。
「座ったら? せっかく作ったんだし」
女性に促され、僕と大橋は彼女を挟むようにしてベンチに座った。
左に大橋、真ん中に女性、右に僕。
妙な緊張感が走る。女性からは、大人の香水の匂いが漂ってきた。潮の匂いとは違う、都会的な香りだ。
なぜか「結婚しているのかな」と余計なことを考え、急いで左手の薬指を確認する。指輪はない。安堵した自分に気づき、僕はさらに顔を赤くした。
目の前には、刻一刻と色を変えていく空と海。波の音がBGMとなり、穏やかな時間が流れていく。
僕たちは他愛のない話をした。学校のこと、この町の美味しいラーメン屋のこと、バルコ建設中の失敗談。女性は聞き上手で、僕たちの拙い話に相槌を打ち、時折楽しそうに質問を挟んでくれた。
太陽が水平線に触れ、海面が真っ赤に燃え上がる。
もうすぐ日が沈む。夏が終わる。
夕食の準備をしているであろう母の怒り顔が脳裏をよぎったが、どうしてもこの場を立ち去ることができなかった。この不思議で美しい時間を、一秒でも長く引き伸ばしたかった。
「あ、もしかしてお姉さん、誰かと待ち合わせしてたとか?」
大橋が唐突に切り出した。僕も気になっていたことだ。観光客にしては軽装だし、地元の人にしては見かけない顔だ。こんな時間まで一人で海にいるのには、理由があるはずだ。
女性の表情が、ふっと曇った。夕日の影が落ちたその横顔は、先ほどまでの明るさが嘘のように寂しげに見えた。
「うーん……そうね。待ち合わせ、かな」
彼女は曖昧に答えると、視線を水平線の彼方へと向けた。
「だいぶ前にね、この海で待ち合わせの約束をしたんだけど……その人は来なかったの。で、遠くに行っちゃった。私に黙って」
僕と大橋は顔を見合わせた。大橋の目も泳いでいる。
波の音が、急に大きく聞こえたような気がした。風が冷たさを増し、肌を刺す。
――遠くに行った。
その言葉の意味するところを、僕たちは勝手に想像してしまった。
黙って遠くへ行った。約束を守らなかった。二度と会えない場所へ行ってしまった。死別か、あるいは酷い別れ方をしたのか。どちらにせよ、僕たちが軽々しく踏み込んでいい領域ではないことは明らかだった。
「あ、ゴメンゴメン! 変なこと言っちゃって」
沈黙を破ったのは女性の方だった。彼女は明るく振る舞おうとするように、パンと両手を叩いた。
「まぁ、来るなんて期待してなかったからいいのよ。ただ、この場所が懐かしくなって来てみただけ。そしたら、こんな素敵な休憩所ができてて、可愛い男の子たちとお話もできて……来てよかった」
彼女の言葉には、諦めと感謝が入り混じっているように聞こえた。
女性はゆっくりと立ち上がる。反射的に、僕たちも立ち上がった。
「楽しかったわ。ありがとう、二人とも」
風に乱れる髪を耳にかけ、女性は「じゃあね」と小さく手を振った。その笑顔は美しかったが、どこか透き通るように儚くて、今にも消えてしまいそうだった。
彼女は砂浜を歩き出す。夕闇が迫る砂浜に伸びる彼女の影。僕たちは黙ってその背中を見つめていた。
「……切ねぇな」
大橋がポツリと漏らした。いつもの元気な声ではない。
「そうだね」
「遠くに行ったって……つまり、そういうことなんだろうな」
「うん……」
夏休みの終わりに、こんなビターな体験をするなんて思わなかった。作ったばかりのバルコが、少しだけ大人の味がする場所に変わったような気がした。
「帰ろうか」
「だな」
僕たちが
国道から砂浜へ、誰かがすごい勢いで階段を駆け下りてくるのが見えた。スーツ姿の男性だ。転びそうになりながら、彼はなりふり構わず走っていた。そして、女性の数メートル手前で立ち止まり、何かを叫んだ。距離があるためよく聞き取れなかったが、多分、女性の名前だ。
その声に、女性が弾かれたように振り返る。彼女は男性の姿を見ると、両手で顔を覆った。
僕と大橋は、その場に凍りついた。
――あ!
声が重なった。
「え? 来たの? 待ってた人が、来たの?」
「そうに決まってんじゃねーか!」
男性は女性の元へ駆け寄り、彼女の肩を強く掴んだ。
波の音で言葉までは聞こえない。でも、男性が必死に何かを謝り、女性が何度も頷きながら涙を拭っているのが見えた。
そして二人は、強く抱き合った。夕焼けの中に溶け込むような、映画のワンシーンのような抱擁だった。
遠くに行ったというのは、海外赴任とか長期出張とか、そういうオチだったんだろうか。あるいは、喧嘩別れした彼氏が、必死に追いかけてきたとか。事情は分からない。でも、一つだけ確かなことがある。
――これは、ハッピーエンドだ。
テンションが急激に上がった僕と大橋は、顔を見合わせてニヤリと笑った。僕たちのバルコが、この再会を見守っていたのだ。
「おい、祝福してやろうぜ!」
「おう!」
僕たちは砂浜の上で、思い切り飛び跳ねた。
「おーい!」
「おーい!」
何度も飛び跳ねながら、大きく両手を振る。
抱き合っていた二人が離れ、こちらに気づいた。女性は涙を拭いながら、僕たちと同じようにぴょんぴょんと飛び跳ねて、こちらに向かって大きく手を振り返してくれた。男性も、何が何だか分からないという顔をしながらも、つられて手を振ってくれている。
「おーい!」
「おーい! お幸せにー!」
夕焼けの海に、僕たちの馬鹿みたいな、でも最高に幸せな声が響き渡る。
――夏休み最後の日に、渚のバルコが起こした奇跡。
そうに違いない。僕たちが汗水流して作ったあの場所が彼女を引き留め、彼が間に合うまでの時間を稼いだのだ。
あのボロボロの廃屋が、二人の縁を繋ぎ止めたのだ。
「帰るぞ、岡田!」
「おう!」
ドラマのような出来事に興奮が収まらない僕たちは、砂浜を駆け上がり、自転車に飛び乗った。もう足の疲れなんて感じない。ペダルを漕ぐ足に力がみなぎる。
夕日は沈みかけ、空は濃い紫色に変わりつつある。街灯がポツポツと灯り始めた国道を、僕たちは全力で疾走した。風が気持ちいい。
終わってしまう夏休みへの寂しさは、いつの間にか消えていた。代わりに胸を満たしていたのは、「何かを成し遂げた」という確かな手応えと、未来への根拠のない自信だった。
大橋が前を走りながら叫ぶ。
「明日、学校で自慢しようぜ!」
「誰も信じないよ!」
「構うもんか! バルコがあれば、不可能なんてねぇよ!」
僕も叫んだ。
「そうだな! 最高だ!」
僕たちの夏は、まだ終わらない。
この「渚のバルコ」がある限り、きっと何度でも、新しい物語が生まれるはずだ。
家に着き、玄関を開けた瞬間に落ちた母の強烈なカミナリすらも、今の僕にとっては青春の素晴らしい一ページとして許容できる――ような気がした。いや、やっぱり説教は長かったし、夕飯のハンバーグは少し冷めていたけど。
それでも、僕の心は熱いままで、ご飯は最高に美味しかった。
(了)
渚のバルコ 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou
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