なめらかな泥濘にて

峰さそり

なめらかな泥濘にて

 ホームに足を踏み入れると、綾美は忌々しいほどに強い土の匂いを嗅いだ。辺りに広がっている田園には植えられたばかりの稲の苗が、まだ風に揺れることもできない背丈でまっすぐに伸び、田の合間、起伏の少ない地の上に一軒家が点在している。その奥にある石造りの鳥居は、山を背に控えているせいで呆けて開いた口のように見える。聳え立つ山々だけでなく、すべてを燃やし尽くしてしまいそうなほどの西日が町全体に染み込んで、まるで太陽に報いるように土の匂いが立ち上る。

 綾美は去っていく電車の音と、幼少の時分からまったく変わりのない風景に添えられた湿っぽい踏切の音を聞いて、何もかもが想像通りであることがもはや可笑しくすら感じられて薄ら笑いを浮かべた。額には汗が滲んでいたが、梅雨入り前の晴天がもたらした蒸し暑さのせいだろうとハンカチを押し当てる。

 改札を出ると、ロータリーに一台だけ停まっているシルバーの車を見つけた。その前で煙草を吸っている父の首元に巻き付けられているタオルが、浅黒い肌から色移りしたように所々汚れている。綾美の存在に気がつくと、どこか悲しみ混じりの笑みを浮かべて右手を上げた。指の先から昇っていく煙は霧散し、父はズボンのポケットから携帯用灰皿を取り出して吸い殻を押し込んだ。綾美はもう一度父の顔に目を遣ったが、そこには先ほどの薄暗い気配はすっかり見当たらず、柔く目を細めて笑っている。

「元気にしてたか? 結構、時間かかっただろ」

 父の手の甲に刻まれた皺が、以前はこんなに多かっただろうかと記憶を辿るが思い出すことができない。車のボディには跳ねた泥がこびり付いており、綾美はそれに見ないふりをして助手席のドアを開けた。

「今日は蒸し暑いな。エアコンつけるか?」

「ううん、気にしなくていいよ。迎えに来てくれてありがとう」

「久しぶりのご帰宅だからな。田植えも終わったし、しばらくゆっくりできる。心配事は多いけどな。梅雨より先に、夏が来たみたいだ」

 そう言って、父はタオルで顔をぐいと拭った。動き出した車内に立ち込める、粘っこい父の匂いが無性に懐かしく、そして他人行儀に鼻をつく。

「お父さんが元気そうで良かった。久しぶりに来たのに、そんな感じがしないね」

「ハハハ、この町がそんなに変わってないせいかもしれないな。良いことなのかはわからないが」

 開いた助手席の窓の先で植物はあざやかさを増していき、田の水面に日差しが跳ね返る。都会にはない眩しさに目が慣れない。

「たまには帰ってくるのもいいものだろ。そうだ、落ち着いたら田の手入れに付き合ってくれないか」

 綾美は「どうかな」と言葉を濁して曖昧な笑みを浮かべた。それを聞いた父が、やけに嬉しそうに話し始める。

「綾美はちっちゃい頃から田圃に入りたがらなかったもんな。昔から虫が嫌いで、それに泥ん中に足を入れるのが気持ち悪いとか言って、家の中で遊ぶことの方が多かった。皆んなこんがり日焼けしてるのに、綾美はすーっと肌が白くて、やけに大人びて見えたもんだよ」

 綾美は流れていく景色をぼんやりと見つめながら、ふと足裏からぬるい熱が這い上がってくるのを感じて眉を顰めた。この土地の記憶を閉じ込めている不透明な膜が、次第に張り詰めていくようだった。

「そんな昔のこと、よく覚えてるね」

「覚えてるさ。お前が向こうに行ってから、いろんなことを思い出すようになったんだ」

 なんてことのないことのように、父が言う。フロントガラスの先を見据える横顔に、差すはずのない影が浮かび上がる。

「本当に久しぶりだな」

 綾美はただ頷いて、それから父と同じように正面を向いた。タイヤが粒の大きな石を踏み越えたのか、ひときわ大きく車体が揺れた。

 

 玄関で靴を脱いでいると、綾美の妹が「おかえり」と言いながら出迎えた。前に会った時には長かった髪が、さっぱりと切り揃えられて肩の上で揺れている。切れ毛が目立ってはいたが、日に焼けて色素が抜けた茶髪はよく似合っている。笑みを絶やさない妹の後に続いて居間に入る。廊下を歩いている時に感じた冷たさと軋みの音が体の内に入り込んで、反響して止まない。

「お姉ちゃんと会うの、いつぶりだっけ? 大学に行ってから一回も帰ってこないから、心配してたんだよ。元気にしてた?」

「それなりにやってたよ。もちろん、大変なこともあったけど」

「ねえ、向こうはどんなところ? 彼氏とか出来た?」

「良いところだよ。彼氏なんて要らないくらい」

 妹が笑う。その顔を見ていると、何年も生活を共にしていたという実感が込み上げてくる。この町に暮らしていたことはずいぶんと遠いことのように思えるのに、幼かった頃の妹の姿は正確な像として立ち上がり、目の前に対峙している彼女がふと視線を斜め下に遣った時の、どこか物憂げに結ばれたくちびるの線が何かを堪えているように見える。昔から変わらない仕草は、大人の妹が見せているものなのだろうかと脳裡によぎる。

「綾美、帰ってきたのね」

 怒っているような声を聞いて目線を上げると、冷えた緑茶の入ったグラスを乗せた丸盆を手にした母が立っていた。綾美を見下ろす眼差しに含まれているのは懐かしさとは程遠く、むしろ詰問の衝動に漲っているように見える。

「やっと、帰ってきた。自分のしたいことばかりして、全然帰ってこないんだから。皆んな心配してたのに、顔も見せないで。昔から綾美はそうだったわ……」

 母はぶつぶつと文句を言いながらテーブルの上にグラスを置いた。綾美は、目と同じように耳にも瞼があったのなら、ただ歪んでいる表情を見るだけで済んだのなら、ここまで何かを思うこともないのにと噛み締めた奥歯に力が入る。妹が「久しぶりに会ったんだから、そんなふうに言わなくても」と制してはいたが、むしろそのことが母の神経を逆撫でするのか「ろくに親孝行もしないで」と母は立ち上がって台所へと早足で戻っていってしまった。

 澱んだ沈黙が流れ、妹は「お母さんも心配してただけなんだよ」と言ったが、その語気は弱く、綾美はきっと家を空けていた間にも自身の不在がくっきりと残り続けていたように感じて息が詰まった。憎しみにも似た気配が染み付いたこの家は、目の前に置かれたグラスの側面に水滴がしたたるように、明確な形となって発露する時を待っている予感があった。綾美はただぼんやりと宙を見て「この家は変わらないね」と呟いた。

 

 この町を出て、もう七年になる。綾美は大学進学を機に京都へと越した。東京へ行くという同級生もいたが、自身が行ったことのない、誰も知らず知られることもない街を選んだ。両親の説得のために大都市を選びはしたが、それも人が多くいれば簡単に紛れて見えなくだろうことを期待していたのも大きい。元より旅行を好まず、殆どのことを町の中で完結させる暮らしは、綾美の外の世界に対する憧れを強めていった。ここを出たら一体どんな世界を見ることができるのだろうとありがちな幻想を抱き、この町のうら淋しい風景と照らし合わせては憎しみが膨らんだ。

 大学卒業後、やっとのことで採用された会社はブラック寸前の労動環境ではあったが、何とか食らいつき続けた。遠回しな言葉で皮肉を言われても、上司の理不尽な叱責に耐えている時でさえ、綾美は涙を流さなかった。ここで辞めれば二度と走り出せないような気がしていた。苦労の末に勝ち取った「正社員」の三文字は背中に張り付いているようで、日に日に自分が擦り切れていくのがわかった。それでも絶対にあの町に戻りたくないという一心で仕事を続けた。

 ある日、営業先に向かう車の中で、音が聞こえた。ぷつん、という音がした。流れるラジオや外から響いてくる話し声が息をひそめて、やけに明瞭な一度きりの音だった。しかし、何故だか綾美は助手席に置いている商品カタログを持ってクライアントと顔を会わせることはないのだと、それだけでなくもう二度とそんな機会は訪れないのだと直感的に思った。頭ではなく体が貫かれたような得心だった。

 綾美は左にハンドルを切って会社に引き返した。車を停めて、それから自宅まで戻ると体調不良を理由に断りのメールを入れた。ベッドに横になると、綾美は何もかもが自分から遠のいていくのを感じた。殆ど休まずに働いてきた自分が、掃除をせずに散らかった部屋の中で食事を摂り、早くに出社して書類を確認していたことが、その繰り返しの日々が身の上に起こっていたとは到底思えなかった。綾美は休みの連絡を繰り返し入れたが、やがてそうすることもやめた。

 スマホの電源を切ったままでいると、綾美は目の前にあるものだけが全てになっていくことでどれほど狭い世界で生きてきたのかを知った。それはあの町の生活とよく似ていた。色々な場所に出向き、多くの人と会うことができるようになったが、綾美は自身が何一つ手にしていないことに気がついた。手にしたという錯覚を覚えていただけで何も手元には残っていないと、そう思った。

 仕事に行かなくなって三週間を過ぎた頃、綾美はふと電車に乗りたいと思った。昔読んだ小説に、あの世へは電車に乗って行くのだと書かれていたのを思い出したからだった。三途の川を渡っていくのが小舟でなかったのだとしたら、薄く張られた澄んだ水の上をさらさらと走っていく電車に乗ることができたのなら、きっと入り込む風は快いものだろうと思った。財布と鍵だけを持って外に出ると太陽のあまりの眩しさにたじろいたが、両手を額に当てながら駅へと向かった。

 知らない駅名を聞いていると、本当にあの世まで行けるような気がして笑いが込み上げてきた。他の路線の案内が聞こえると乗り換えて、時には切符を買い直した。そうしていると、不意に実家が思い浮かんだ。あの町は今も変わらないのだろうかと考え始めると、七年という月日の間に起こったどんなことよりもはっきりと脳裡に甦ってくるのを感じた。たとえ嫌な思い出に彩られているのだとしても、それは本当に些細なことのように思えた。綾美は駅員に行き方を尋ねて、もう一度電車に乗った。あの町が終点なのかもしれないと身一つでこの町に戻ってきたのだった。

 

 座布団の上で足を崩してテレビを見ていると、綾美はまだ学校に通っていた頃の色々な情景を思い出した。黒板に書きつけられた数式と教室に吹くぬるい風、下駄箱の蒸れたような匂い、下校の時に見た赤いランドセルの群れ、今では連絡先もわからない幼馴染や当時の親友の笑顔……。

 この家に流れる時間は、綾美が住むアパートのものよりずっと緩やかに伸びている。テレビの横に置かれているデジタル時計を時折確認しながら、綾美は思い出すことのなかった記憶に体を預け、タレントたちの過剰な笑い声を聞いていた。

 しばらくすると、母が来て声をかけた。

「夕飯ができたから、運ぶ手伝いくらいしなさい」

 母は食卓に鍋敷を、それからもう片方の手に持っていたアルミ製の小鍋を置いてみそ汁をよそい始めた。綾美は頷くこともせず台所まで行き、出汁の匂いが漂う中で刺身の乗った皿を角盆に乗せていった。ツマと大葉が添えられた刺身はスーパーでパック詰めされたものだろうと思ったが、わざわざ皿に盛る一手間がやけに心を打った。綾美はそういう繊細さのない一人の生活を思った。出来合いの惣菜やコンビニ弁当をかき込む日々が、実のところ自身を消耗させていた一つの要因であったことに気がついた。

 夕飯は豪勢だった。大皿には野菜の天ぷらが彩りよく並び、小鉢には味の染み込んだ煮しめが、ほうれん草のおひたしの上にはうずら卵の黄身が慎ましく乗っている。大根のみそ汁とご飯からは湯気が立ち上り、シーリングライトに照らされているせいなのか、あるいは綾美の心情がそうさせるのか、色味を失っている。

「いただきます」

 と手を合わせ、箸を持つと待ち構えていたように母が喋り始めた。

「やっと帰ってきたと思ったら、ぐうたらしてみっともない。言われなきゃ手伝いもしないんだから。こうやって家族で食卓を囲むのもいつぶりか、考えるのも嫌になるわ。綾美、本当にあんたは苦労をかける子だね。やりたいことばっかりやって、育ててやったこっちの気も知らないで。町を出るのを渋々許してやったと思ったら、全く帰ってこない。音沙汰もない。何回電話をかけても、あんたは連絡のひとつも寄越さなかった。本当、何を考えて帰ってきたんだか……」

 わざとらしいため息の音を聞きながら、綾美は目を上げることなく顎を動かし続けた。ししとうの天ぷらをいつもより強く噛み締めていると、苦味と共に熟れたような舌触りがし、細い筋が歯茎に挟まって眉根を寄せた。

「お父さんからも言ってやってよ」

「まぁまぁ。せっかく久しぶりに来てくれたんだから」

「そうやって甘やかすから綾美がつけ上がるのよ」

「そんなことはないよ。綾美、久しぶりの家の飯はうまいだろ?」

 綾美は喉に突っかかっている白米を緑茶で流し込みながら頷いた。父の顔を見てはいたが、視界の隅に映る母の眉が吊り上がっているのがわかった。刺身に箸を伸ばすと、表面が乾き始めている。

「相変わらず可愛げもない。本当、先行きが不安だわ……」

 妹は綾美と同じように黙り込んでいる。妹がこの家から出ることを選ばなかったのは、綾美がいなくなったことで母が許さなかった可能性もあるのではないかと勘繰って、白米が減っているはずの茶碗が重くなっていく。

「向こうで働くのなんてやめて、こっちで家を手伝う気はないの? どうせロクな仕事してないんでしょ?」

 火花が散った。心の内に線香花火が燃え始めたような、小さな火種が生まれた。綾美はこの感覚を、思いのほか冷静に感じていた。この家にいた時、綾美は何度も同じ気持ちを味わった。だから家を出たいのだと怒りを押し殺していた自分が、今まさに息を吹き返して体を震わせている。天つゆにいくつもの円を描いた脂が浮いており、体が熱を持っていく。

「ないよ。戻るつもりなんてない!」

 綾美はそう言うと叩きつけるように箸を置いて玄関まで駆けていった。自身の名を呼ぶ父と妹の声よりも、母のものが一段と大きく聞こえた。日頃動いていないせいで走りにくかったが、綾美は道路を進む。次第に息が上がってきた。所々に立っている街灯には羽虫が靄のように集り始め、他人の家から漏れ出た光にあてられて影が濃い。一軒家の連なりを抜け、立ち止まった。日は沈み始めていた。

 田が続いた先を見ていると、町はいつかの記憶と同じ暗闇に覆われていった。山の少し上には月があった。欠けたところのない満月があった。まるで綾美を誘っているように、畦道を仄かに照らしている。綾美は蛙が鳴いた時の低い声の合間に川のせせらぎを聞き分けた。ああ、川だ、水の音だ。目を閉じると川を渡る電車の細かな装飾までがはっきりと見えた。川を見なければならない。この世の向こう岸に続く電車に乗らなければならないと、綾美は急き立てられるように再び足を踏み出した。

 

 夜気に包まれた体は身震いを繰り返した。畦道に人はおらず、綾美が小石を踏みしめる音よりも、樹々のざわめきが響いている。川から引かれて側溝に細く流れている水の気配があった。独特の臭気が漂う中を歩いていると、覚えのある橋が見えてきた。その先は月光が遮られているのか、進むことができないほどに暗い。橋の上には一本の街灯が佇んでおり、低い石造りの欄干を照らしている。

 綾美は目を閉じて大きく息を吸い込んだ。明るい冷たさの空気が体内を巡り、勢いよく流れる水の音は鼓膜に張り付くように止まない。夜の静けさに包み込まれながら、前から、後ろから、そして橋の下を駆け抜けていく水の音に耳をすませる。この流れの中に丈夫な線路が敷かれ、二両編成の小さな電車が飛沫を上げながら遅く走っている情景を思い描く。

 しばらくすると、不意に綾美は瞼に透けた光を感じ取った。それは次第に強くなっていく。やがて振動が来た、ガタガタという音と共にやって来た。レールを滑る劈くような音が響き、綾美は目を開いた。夜を切り裂くような光が近づいてくるのが見える。膨らむ白い明滅、車体は闇に沈んではいたが小豆色をしている。綾美は急いで土手に降りた。綾美より背丈の高い葦が不自然に踏まれている場所があった。その空白は人一人通れるほどの幅しかなく水面に続いている。ここに電車が停まるのだろうとすぐにわかった。

 暗い川を渡りながら電車はやって来た。車内から溢れる光に照らされ、踏まれた葦から青い匂いが立ち上る。中に乗客はいないが、何故だか話し声が聞こえる。綾美はゆっくりと右足を踏み出した。次に左足を踏み出した。足の甲が川に浸かった。もう一度右足を出す。ふくらはぎが濡れた。電車のドアは開いている。銀色のステップが光っている。左足を上げてもう一歩踏み込むと、綾美は小さく声を上げた。足裏から沼の感触が一気に駆け巡った。田圃に足を入れた時の何かが蠢いている気味の悪い感触だった。左足を引き抜くためにバランスを取ろうとしたせいで姿勢を崩し、綾美は電車に手を伸ばした。しかし、伸ばした手は空を切った。そこには只の暗い川があった。綾美を取り込もうと轟いている、巨大な何かの気配だった。

 綾美は後ろに重心を傾けて土手に倒れ込んだ。手のひらは擦り切れて痛んだが、目の前に広がる川は月光を受けて黒くぬめっていた。

 綾美はこれほど深い闇を容易く受け入れてしまうこの町を初めて恐ろしく思った。電車の幻は簡単に消えてしまった。その時になって、綾美は自身の精神が死に近づいていたことに気がついた。足元の一歩先、底さえ見通せない暗さが怖かった。その先に身を投じるほどの度胸と絶望などなかった。もう一度川に入る気も、電車が来るという幻を信じる気も、到底起きなかった。

 橋の上に戻ると、満月は変わらず道を照らしていた。目に焼き付けるように、真暗な川を見た。先ほどと変わらないはずの川は、激しく笑い声を上げているように素早く流れていく。綾美は来た道を戻り始めた。田は闇を吸い込んで暗く、一歩進むたびに靴に染み込んだ水がジワと滲む。生きようと思った。綾美は声に出す。もう一度生きてみようと思う。綾美はそう言いながら、少しだけ泣いた。


「あんた、太ったんじゃない?」

 上がり框に立つ母が顔を歪めながらそう言った。仄かに胸を刺す感覚を覚えながら、綾美は母の声の中に自身を気遣う親心を感じ取った。母の背後から顔を出した妹は「確かにお姉ちゃん、ちょっと太ったね」と笑い、綾美は「ちょっとくらい太ってもいいの」と軽口を叩いた。

「さあ、早く上がりなさい」

 母がそう促し、綾美はスニーカーを脱いで沓脱石に足を乗せた。埃一つない廊下を見て、それを当然のように見過ごして暮らしてきたことを思い返した。二人と共に居間に入り、荷物を下ろしながら部屋の中を見回す。見覚えのない幾つかの小物と花瓶に活けられた百合があった。綾美は気がついていないだけで変わっているものはたくさんあるのかもしれないと思った。

「綾美、向こうの生活はどうなの? そんなに切り詰めて働かないで、もっとこっちでゆっくりしたらいいのに……一週間もいないんでしょ?」

「そうだね。三日くらいしたら戻るつもり。私がやりたいことだから、頑張ってみたいの」

「どうかと思うけどねえ。相変わらず勝手な子だわ」

 母は少しだけ俯いて、斜め下に目を遣った。その仕草はいつか見た妹のものとよく似ていて驚いた。何もかもを口から吐き出しているように思っていたのが、母にも言わずにいることがいくつもあるのだと当たり前のことに気がついた。

「お茶入れてくるわ」

 母はそう言って、少し苦しそうに腰を上げた。心なしか背筋も曲がっているように見えたが、廊下を曲がっていってしまった。

「お母さんも相変わらずでしょ。もう一年が経ったんだね。皆んなお姉ちゃんが帰ってくるの楽しみにしてたんだよ」

「何しても文句を言うのは変わらないね。でも、帰ってきたって感じがする。懐かしいよ」

 綾美は食卓の上に置かれた百合の香りを嗅いだ。その甘く気怠い匂いは疲れた体に染み渡るようで、帰ったら花を飾ってみても良いかもしれないと思った。

「おーい、ちょっと手伝ってくれんか!」

 玄関から父の張り上げた声がする。縁側に顔を出すと、父は日焼けして黒くなった顔に皺を寄せて手を拱いていた。

「もう、皆んな慌ただしいんだから!」

 妹は言いながら玄関まで小走りで駆けていった。庭は細かく手入れが施されていて、雑草は残らず抜かれて小さく咲いた花が揺れている。風が気持ちよかった。母がお茶の入ったグラスを持って食卓に置いた。

「綾美もお父さんを手伝ってきなさい。ほら、ぐずぐずしてないで」

 綾美は一息に冷えたお茶を飲み込んで、さっと立ち上がり、それからふと振り返って母を見た。柔い表情を浮かべながら外を見ている母の眼差しに、何かを言わなければと思った。しかし、それより先に母が口を開いた。

「頑張るのもいいけどね。またいつでも帰ってきなさい」

 綾美は頷き、「ありがとう」と言って玄関へと向かった。綾美はその言葉だけを伝えたかったのかもしれないと思った。それが言葉足らずであったとしても、その言葉を自分の口から発したかったのかもしれないと思った。

 照りつける日の光を受けながら、父と妹は待っていた。くっきりとした影を含んだ雲が広がる空は高く、咽せるような肥料の匂いが満ちている。

「ここは変わらないね」

 綾美が言うと、二人は少し不思議そうな顔をして、それから豪快に笑った。

「でも綾美は変わっていっている」

 父が言った。

「親からすると寂しいことでもあるけどな、離れて暮らしているのは」

 妹も頷いて「太ったとしてもね」と付け加えた。

「そんなに太ってないってば!」

 三人の笑い声が溌剌と空に昇っていく。

「さあ、行こう。この時期の田仕事はしんどいぞ!」

 三人は帽子を被って歩き始めた。暑い暑いと言いながら、額に汗を浮かべて畦道を進んでいく。綾美は足元に這い上がる田のぬるさを思い出したが、嫌だとは思わなかった。何もかもが色濃く、前を歩く二人のTシャツが光を吸ってどきつい白さを放っている。この町を覆う土と太陽の匂いを嗅いだ。赤くなり始めている肌がじくじくと痛む。体の内側に流れている熱が、閃光のように駆け巡っている感覚が、綾美は心底懐かしいと思った。

 もうすぐ梅雨が来る。それを過ぎれば夏が来る。綾美は大きく息を吸い込んで、右足を踏み出した。


〈終〉

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なめらかな泥濘にて 峰さそり @Mine_Sasori

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