檻の外の調べ

阿波野治

第1話

 客の話し声と笑い声、カトラリーと食器が奏でる音、料理の匂いであふれ返った店内。日常的なメンテナンスの不行き届きと、経年によって朽ちる第一歩を刻もうとしている木板の壁は、無数のポスターによってずさんに隠蔽され、薄暗い照明が軽犯罪に加担している。

「一般的な感覚でいえば、ウッドフィールド家は没落貴族の範疇に属しているんじゃないか」

 ヨハンは左手で毛先の縮れた赤髪を梳き、反対の手でフライドポテトをつまみながら淡々と言う。

 夕方の六時を回り、『黄金郷』は空き座席を見つけるのが難しい混み具合だ。酒類をメインで提供する店には珍しく、料理もうまい。酒好きのヨハンと食事をするときはたいていこの店だ。

 僕はグラスの水を一口飲んでテーブルに置き、友人と目を合わせる。

「面接のために屋敷まで行ったときは、立派に見えたけどね。確かに庭は荒れていたけど、建物の外観はみすぼらしくはなかったし」

「屋敷よりも庭が先にボロが出たってことだろ。一から十まで万全に管理するだけの資金がもうないんだろうな、ウッドフィールドは」

「そういうこと、なのかな」

「貴族は総じて見栄っ張りだから、庭を荒れた状態にしておくこと自体、そもそも異例だと思うぜ。おかしいとは思わなかったのか? 貴族さまの庭をきれいに整えるために、お前みたいな経験も実績も物足りない庭師に声がかかるって、不自然だろ」

「ようするに、出費を抑えるために僕が選ばれた、と」

 ヨハンはオーバーリアクション気味に首肯し、ジョッキのビールをあおって空にした。ずっと髪を触っていた手で口端を拭い、通りかかった女性従業員に「ビール、おかわり」と穏やかに怒鳴る。オーダーを承り、遠ざかっていく従業員の尻を追視する彼の目は、酔いの第一波に侵される寸前だ。

 注意が逸れている隙に、僕は友人の皿からポテトを一本だけ奪って口に運ぶ。少し冷め、ほくほく感が薄らいだそれをちびちびと咀嚼する。

 心の中で苦々しくつぶやいたのは、「やっぱりか」の一言。

 薄々感づいてはいた。常識的に考えて、まともな貴族が僕なんかに仕事を依頼するはずがない、なにか事情がありそうだと。

 貴族の依頼をこなしたという実績ができる。箔がつく。それが呼び水となり、高額報酬の依頼が次々に舞い込んでくる。

 そう胸を弾ませていたのだが、考えが甘かったみたいだ。

 父親の跡を継いでもう二年が経つというのに、いまだに半人前ということなのか。

「まあ、没落したといっても貴族は貴族だから、やり遂げることでなにかしらのプラスはあるんじゃないか。報酬金額だって、もうひとがんばりしてほしいところではあるけど、低いわけではないし」

 友人だからこその洞察力で心の中を読み、慰撫するかのようなヨハンの発言。

 僕は沈黙を返す。ヨハンはポテトの皿に伸ばそうとした手を止め、怪訝そうに僕を見つめてくる。

「そうだね。仕事にありつけただけ満足しなきゃいけない」

 友人に向かって発した言葉は、まるでひとり言みたいだった。

 遠くのテーブルで誰かが粗相をしたらしく、食器が割れる音が響いた。店内は水を打ったように静まり返り、すぐに何事もなかったかのように話し声が店内を埋め尽くした。

 ヨハンは音源を振り向いたのを機に僕から視線を外したが、食事に手をつけようとはしない。僕は長らく止まっていたフォークとナイフを動かし、すでに大まかにカットしてあるチキンソテーをさらに細かく切り分ける。

 新しいジョッキが、澄んだ黄金色の液体をなみなみとたたえてテーブルに運ばれてきた。ヨハンはすかさずそれを何口か飲み、

「貴族相手に仕事するときの秘訣はな、ラルフ、とにかく従順でいることだ。どんな不合理で無茶な命令にも二つ返事で従え。そうしないと、へそを曲げられて面倒なことになるぜ」

 僕はフォークに突き刺していたグリルチキンの一切れを口に入れ、ろくに噛まずに嚥下してから、

「面倒なことって?」

「具体的に挙げようか。言いがかりをつけて報酬額を減らす、契約書に書いていない仕事をさせる、不要で不当な罵詈雑言――残らず挙げていたら朝になるな」

「矛盾してない? 見栄を張るのに金は出し渋るって」

「やつらは概してプライドが高いから、自尊心を傷つけた者には容赦しないんだよ。金を出さずに済むし、身のほど知らずの貧乏職人を叩きのめせる。一石二鳥ってわけだ」

「ウッドフィールド家の今現在の経済状態を考えれば、ニック氏がその方法を選ぶ可能性も大いにある、ということだね」

「そのとおりだ。だからとにかく大人しく、従順にしていろよ」

 僕はうなずく。すでにカットしてあるチキンのひと切れを、さらに半分にカットして口の中へ。

 それから食べ終わるまではヨハンばかりがしゃべった。


 ヨハンとともに『黄金郷』を出た直後、どこから歌声が聴こえてきた。

 声は淡く、遠い。

 聞き間違えかと疑いながらも、耳を澄ませてみる。道行く人々由来の雑音と、僕たちの靴が石畳を叩く音が少々邪魔だが、

「やっぱり聴こえる。聞き間違いじゃないね」

「どうした、ラルフ。藪から棒に」

「歌っている人がいるんだ。……どこからだろう。声は遠いみたいだけど」

「耳がいいんだな。俺はなにも聞こえないぜ」

 ヨハンはへらへらと笑う。足取りはしっかりとしているが、声の輪郭がとろけている。アルコールには強い男だが、無敵ではない。

「歌っているのは女性で、若い感じがする声だね。ヨハンはわからない? 歩けば歩くほど声が近くなっているでしょ」

「そんなものは聴こえないぞ。ラルフは幻聴を――おっ! もしかして、お前が言っている歌手っていうのは、あいつか?」

 ヨハンが急に立ち止まったかと思うと、斜め前方を指差した。

 通りの歩道に立って歌を歌っている女性がいる。青いドレスを身にまとい、栗色の髪の毛は腰に達している。三十手前くらいだろうか。狂おしげに眉根を寄せ、一語一語に気持ちを込めて、道行く一人一人に訴えかけるように歌っている。

 人通りの多い通りなどで、日銭を稼ぐ目的で楽器を演奏したり、大道芸を披露したりする者をたまに見かけることがある。女性はその手の人間らしい。

「資金難から解散に追い込まれた小劇団の元団員、ってところかな」

 にやにや笑いを僕に向け、顎をさすりながらのヨハンの発言だ。

「ああいう女は遠からず春を売るね。再び舞台に立つ日を夢見ているんだろうけど、そう甘い話はないよ」

「僕はそういうのは好きじゃないな、ヨハン。人の夢を見下したような発言は」

「客観的な評価を下したまでさ。じゃあ、夢を追いかける人間の味方のラルフくんに訊くけど、あの女は歌の道で大成できると思うか?」

 肯定の返事をしたい気持ちはある。だが悲しいかな、僕はもうきれいな景色ばかり見て生きている十代の少年ではない。

「上手いと思うよ。上手いとは思うけど……」

「思うけど?」

「歌だけで生計を立てていくのは、正直ちょっと厳しいかもしれない」

「珍しく意見が一致したな。一般市民たちも同じ意見かどうか、確かめてみようぜ」

 ヨハンは女性の足元を指差した。つばの広い婦人用帽子が上下逆さまに置かれている。

 女性の前を通り過ぎるさい、首を伸ばして帽子の中を覗き込んだ。

 入っていたのは、銅貨が五・六枚。

 紙幣は、一枚もない。

「今日の夕食代はなんとかってところか? 売上ゼロよりもリアル感あるな」

 ヨハンの声は嘲りの色を明確に含んでいる。

 僕は眉根を寄せて「馬鹿」と呟き、同僚であり友人でもある男を横目に睨む。

 つぶやきは耳に入らなかったが、僕がなにか言ったことには気づいたらしく、ヨハンはこちらを向いた。その顔を、僕は眉間に少し力を込めて見据えながら、

「歌い始めたばかりかもしれないじゃないか。あと一・二時間歌い続ければ、何日か分の食事代を稼ぐことだって――」

「ラルフ。それ、逆に失礼だぜ。人だかりができていない時点で察しろ。食事代は賄えたとして、家賃はどうする? 日用品なんかを買う分は? あれでは無理だよ。残念ながら無理だ」

 僕はなにも言葉を返せない。

 正論だ。言いかたは少々辛辣だが、意見としては間違っていない。

「ああいう人間を見ると、俺たち庭師は恵まれていなって思うよ。天下の大貴族さまにこき使われようが、けちくさい報酬額で働かされようが、今にも気を失いそうになるまで働かせられようが、毎日の仕事帰りに店で酒を飲んで飯を食うくらいの金は稼げるんだから」

 僕ではなく進行方向を向いてのヨハンの言葉は、友人ではなく自分に言い聞かせているかのようだ。

 やがて歌声がやんだ。

 拍手はどこからも聞こえてこなかった。


 自宅の郵便受けを開けると、真っ白な封筒が入っていた。

 取り出し、差出人の名前を見る。

「――父さん、母さん」

 居ても立ってもいられなくなり、家の中に入る。自室に駆け込むや否やランプを灯し、もどかしい手つきで封筒を破る。

 一枚の便箋。見慣れた筆跡。

『お父さんがまた怪我をした』

 冒頭の一文を見て、危うく手紙を取り落とすところだった。

『夕方に徒歩をしているときに、すれ違う通行人を避けようとして転んで、受け身をとった拍子に右腕を痛めたの。重症ではないけど数日間安静にしていなくちゃいけなくて、今は内職もお休み。二か月前と同じような怪我をまたしちゃったから、すごく落ち込んでる。ただ、幸いにも長引くような怪我ではないし、治療費もそんなにかからなかったから、来月分の仕送りはいつもの額で大丈夫。お父さんのこともお金のことも心配いらないから、ラルフは今までどおりお仕事をがんばって。幸運を祈っているよ』

 小さく息を吐く。手紙を折り畳んで封筒にしまい、木製キャビネットの引き出しにおさめる。

 庭師として地元ではちょっとした有名人だった僕の父は、仕事中の事故で廃業を余儀なくされた。右脚だけではなく、商売道具の両手両腕まで思うように動かせなくなったのだから、やむを得なかった。

 しかし、家に閉じこもることはプライドが許さなかったようで、用があろうがなかろうが毎日のように外を出歩いた。ままならないながらもなんとか長距離を歩けるようになってからも、咄嗟に素早く動くのは難しく、何度も小さな事故に遭った。

 息子の僕としては、できればもう少し大人しく、穏やかに暮らしてほしい。

 ただ、天職を奪われた父さんの心情を思うと、強い言葉で苦言を呈すことなんてできない。できるわけがない。

 だからずっと、送る言葉は「無理しないでね」のみ。

 これではよくないと思いながらも、策の一つも講じられないまま、事故から三年もの月日が流れてしまった。

 母さんは、父さんに関する報告では嘘をつかない。だから、今回の怪我は心配しなくてもいいと思う。それよりも問題なのは、

「金、大丈夫なのかな……」

 手紙の中では直接言及されていなくても、文面と母の性格を考え合わせれば、おおむね正確な真実を推測できる。今回の事故でかかった治療費は、生活に支障が出るほどではないにせよ痛い出費だったみたいだ、と。

 成人した子どもとして、両親に惨めな思いはさせたくない気持ちはある。

 ただ、悲しいかな、親からの無言の期待に充分に応えられるだけの経済的余裕は僕にはない。

 パイプベッドに仰向けに寝ころがる。中古で買った安物のベッドは、体勢をほんの少し変えるだけで不愉快に軋む。

 薄汚れた天井を見つめているうちに思い出したのは、逆風の中、路傍に佇んで歌っていた青いドレスの女性。

 ヨハンが言っていたように、彼女と比べると僕ははるかに恵まれていて、はるかに幸せだ。

 ああいう境遇にだけは陥らないようにしよう、という意識は持って生きていきたいと思う。

 あの女性に失礼千万な考え方をしている自覚はある。ただ、暮らしにあまり余裕がない僕のような人間にとっては、こうやって心の中でひそかに見下せる人間を作るというのも、上手に生きていくためのコツだ。

 ベッドのスプリングを軋ませながら上体を起こす。手を伸ばしてキャビネットの引き出しから手紙を取り出し、冒頭から読み返す。

 僕がもっと金を稼ぐようになれば、父さんも無理をしなくなるかもしれない。

「……がんばらないと」

 明日からのウッドフィールド邸での仕事は、僕の人生にとってきっと大切なものになるだろう。


 複数の柔らかな手から全身を愛撫されるかのようなまどろみの中、僕は子どものころによく読んだ本のことを思い出した。

 邪悪な魔物使いが率いる悪の軍団に、主人公の幼なじみでもあり主君の娘でもある姫君が拉致された。天を摩する巨大な搭に幽閉された姫君を助けるべく、主人公は敵と戦う。鍛えた剣の腕前と愛の力で、立ち塞がる敵兵や魔物を次々と撃破する。とうとう搭の頂上にたどり着き、姫君を救い出すが、悪の軍団は強力な追っ手を差し向けた。始まる二人きりの逃避行。主人公と姫君の運命や、いかに。

 あらすじをちゃんと覚えているのは、子ども向けの読み物にありがちな単純な筋だからでもあるが、好きでくり返し読んだ一冊だからでもある。

 中世――ギルドというものが存在し、そこに属していれば、専門技術を持った人間は食べるのに困らなかった、庭師の僕からすれば光り輝いて見える、旧きよき時代が舞台の冒険物語。

 その本は僕が親元から離れるさい、どうせ娯楽に金を費やす余裕もないだろうからと、今いる新居まで持ってきた。でも、けっきょく一度も読み返していない。

 親が差してくれる傘の下から出て、土砂降りの中で生きていかなければいけなくなった当時の僕には、勧善懲悪のファンタジーの世界はなじまなかった。すぐに仕事に忙殺され、日々の疲れを癒すために三大欲の解消を優先させてきた結果、すっかり失念してしまっていた。本を読んで余暇を過ごす習慣も、本の存在さえも。

「けっこうご都合主義だよなぁ。僕程度のランクの庭師が、貴族の家に仕事に行くなんて」

 考えようによっては、ある意味、異形の怪物たちが出てくる冒険譚よりもファンタジーかもしれない。

 ウッドフィールド氏に働きを認められて、気に入られて、専属の庭師として金銭的に恵まれた、申し分のない環境で生涯を送る――。

 採用が決まった当初はそんな妄想もした。しかし、仕事開始まで残り半日を切った今となっては、そんな夢物語の実現なんて望んでいない。ましてや、魔物に立ち向かったり、監禁されている女性を救い出して逃げたりするなんて。

 任せられた仕事を忠実にこなし、仕事ぶりに合格点をもらい、報酬を得る。

「それでいい」

 その一言は、すこぶる静かで、少しさびしい部屋に違和感一つなく調和した。

 そう、それだけで充分だ。

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