君の声が消えるまで、僕は歌い続ける。

桜坂はる

プロローグ 声の記憶

声が、消えていく。

少しずつ、少しずつ。

気づかないくらいゆっくりと。

でも、確実に。


最初に気づいたのは、中学三年の冬だった。

合唱コンクールの練習中、突然声が震えた。

音程が取れなくなった。

喉に、何か詰まっているような感覚。

「風邪かな」

そう思っていた。

そう思いたかった。

でも、違った。


病院で告げられた病名を、今でも覚えている。


  喉頭筋萎縮症。


医師の説明する言葉は、どこか遠くから聞こえるようだった。

「徐々に声帯周辺の筋肉が機能を失っていきます」

「個人差はありますが、最終的には発声が困難になるでしょう」

「今のところ、根本的な治療法は——」

母の手が、震えていた。

私は、ただ窓の外を見ていた。

冬の空は、どこまでも灰色だった。


歌うことが、好きだった。

物心ついた時から、ずっと。

鼻歌を歌いながら朝ごはんを食べて。

学校の帰り道、好きな曲を口ずさんで。

お風呂では、アカペラで熱唱して。

歌は、いつも私のそばにあった。

空気を吸うみたいに、自然に。

心臓が鼓動するみたいに、当たり前に。


小学五年生の音楽会。

初めてソロパートを任された。

緊張で足が震えていた。

でも、歌い始めたら不思議と落ち着いた。

体育館に響く、自分の声。

聴いてくれる、みんなの顔。

歌い終わった後の、大きな拍手。

「将来、歌手になりたい」

あの日、そう決めた。


でも、その夢は、叶わない。

高校二年の春、医師に告げられた。

「あと一年で、声を失う可能性が高いです」

一年。

たった、一年。

365日。

8760時間。

525600分。

秒針が一回転するたびに、私の声は削られていく。


怖くないと言えば、嘘になる。

声を失うのが怖い。

歌えなくなるのが怖い。

誰とも話せなくなるのが怖い。

でも、一番怖いのは——

このまま消えていくこと。

何も残さずに。

何も伝えられずに。


だから、決めた。

声が消える前に、歌を残そう。

自分だけの歌を。

自分の声で。

誰かの歌じゃなく、私の歌を。

それが、私が最後にできること。


春の陽射しが、窓から差し込んでいる。

新学期の教室。

クラスメイトたちの、明るい声。

私は静かに、その音を聞いている。

ノートに、一行だけ書いた。

『最後に歌いたい歌を、作ろう』

でも、どうやって?

音楽の知識なんて、ない。

楽器も、弾けない。

一人じゃ、無理だ。


放課後、音楽室に向かった。

誰もいない教室で、ピアノの前に座る。

鍵盤に、指を乗せる。

適当に音を鳴らしてみる。

メロディには、ならない。

「やっぱり、無理なのかな...」

小さく、歌ってみる。

声が、震える。

すぐに、かすれる。

咳き込む。

——ああ、また。

悔しくて、鍵盤を叩いた。

音が、教室に響く。

不協和音。

私の心みたいに、バラバラな音。


「...歌、好きなの?」

突然、背後から声がした。

振り向くと、見たことのある男子生徒。

同じクラスの——確か、桐谷くん。

いつも一人でいる、静かな人。

「え...」

言葉が、出てこない。

彼は少し困ったような顔をして、ギターケースを肩に掛け直した。

「...ごめん。邪魔した」

そう言って、立ち去ろうとする。

待って。

そう言いたかった。

でも、声が出なかった。

彼の背中が、遠ざかっていく。


その夜、考えた。

もし。

もしも、彼が——

音楽ができる人なら。

もしも、一緒に——

歌を、作れたら。


次の日、勇気を出して、彼を探した。

声をかける言葉を、何度も頭の中で練習した。

心臓が、うるさいくらい鳴っている。

「あの、桐谷くん」

彼は驚いたように振り向いた。

「...俺に?」

「お願いが、あるの」

深呼吸。

そして、言った。

「私のために、歌を作ってくれない?」


これが、すべての始まり。

声が消えるまでの、一年間。

彼と出会い、歌を作り、想いを紡ぐ。

儚くて、切なくて。

でも、かけがえのない日々。


声は、いつか消える。

でも、歌は残る。

想いは、消えない。

だから——

君の声が消えるまで、僕は歌い続ける。

そう、彼は言ってくれた。


これは、そんな二人の物語。

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君の声が消えるまで、僕は歌い続ける。 桜坂はる @haru_sakurazaka

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