透明な夜に残る声

桃里 陽向

透明な夜に残る声

最上階の廊下は、夜になると音を失う。

窓に映る街は静かに揺れていて、そこに立つ彼女の輪郭も、ガラス越しに溶けているように見えた。


彼は数メートル後ろで立ち止まったまま、声をかけられずにいた。

言葉は喉まで来ているのに、形になる前に錆びついて、息と一緒に沈んでいく。


昨日の記憶は曖昧で、明日の想像はできなかった。

あるのは、今この瞬間が終わってしまいそうだという予感だけ。


彼女は振り返らなかった。

その背中は、朝焼けの前の夜みたいに薄く、触れたら消えてしまいそうだった。


「もういいんだよ」


小さな声が、確かに空気を震わせた。

でもその意味は、彼の耳に届く前に砕けてしまった。


彼は気づく。

嫌われたのではなく、すでに互いを見失っていたのだと。

積み重ねた沈黙が、いつの間にか二人の間に壁を作っていた。


心の奥に隠していた後悔が、今になって疼き出す。

遅すぎると分かっていても、胸は痛む。


彼女の影は、夜の中に溶けていった。

別れの言葉さえ、もう必要ないほどに。


それでも彼は、最後に一つだけ送る。

声にならない、色も形もない想いを。


夜空に溶けるその感情は、誰にも見えない。

けれど確かに、そこに残っていた。

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