金魚みたいな君を、僕はすくえなかった。
クリトクらげ
第1話 金魚みたいな君を、僕はすくえなかった。
理科室の隅に置かれた水槽は、放課後になると急に静かになる。
授業中は誰も気にしないくせに、夕方になると、そこに「生きているもの」がいることだけが、やけに目立った。
僕は高一の二学期になってから、週に二回、金魚の掃除係を任されていた。
別に押し付けられたわけじゃない。生き物係の希望を出したら、たまたま空いていただけだ。
赤と白の金魚が、水の中でゆっくり尾を揺らす。
金魚は助けを求める声を出さない。
だから、気づくのが遅れる。
「……また金魚?」
背後から声がして、僕は肩を揺らした。
振り返ると、ドアのところに同じクラスの女子が立っていた。
「好きなんだね」
彼女は、そう言って笑った。
からかっているようで、でも馬鹿にはしていない。
その微妙な距離感が、なぜか印象に残った。
「別に……生き物が好きなだけ」
「ふーん」
興味なさそうに返しながら、彼女は水槽を覗き込んだ。
「金魚ってさ、見てるとちょっと怖くない?」
「怖い?」
「だって、何考えてるかわかんないし」
その言い方が、少しだけ寂しそうだった。
彼女の名前を、そのとき初めて思い出した。
同じクラスなのに、あまり話したことがなかった。
「……猫は好き?」
なぜそんな質問をしたのか、自分でもわからない。
でも彼女は、一瞬だけ目を丸くしてから、はっきりうなずいた。
「うん。家で飼ってる」
その声は、さっきより柔らかかった。
「何歳?」
「たぶん、もう十七」
僕は思わず言葉を失った。
猫としては、かなりの高齢だ。
「長生きだね」
「うん。でも……」
彼女は言いかけて、そこで止めた。
それ以上踏み込んでほしくない、そんな線が見えた。
それから、僕たちは理科室でよく話すようになった。
金魚の水換えをしながら、猫の話を聞いた。
名前。
小さいころの写真。
冬になると、こたつから動かなくなること。
彼女は生き物全般が好きなわけじゃなかった。
猫だけ。
それも、家にいるその一匹だけ。
「昔ね」
ある日、彼女はぽつりと言った。
「夜になると、家がうるさかったの」
両親の喧嘩。
小さな声で、短く。
「そのとき、猫だけがさ……一緒にいてくれた」
撫でると、喉を鳴らしてくれたらしい。
何も言わずに。
金魚は、黙って泳いでいる。
猫は、黙って寄り添う。
僕はふと思った。
彼女は、金魚みたいだ、と。
静かで、透明で、
気づいたときには、もう手が届かない場所にいる。
二学期の終わりが近づくころ、
彼女は進路の話をした。
「私、猫に関わる仕事に就きたい」
迷いはなかった。
未来を見ている目だった。
その横顔を見ながら、僕は何も言えなかった。
応援したいのに、
一緒にいたいなんて言える立場じゃなかった。
春になれば、クラスは変わる。
高二では、きっと離れる。
それは、誰にでも起こることなのに、
その現実だけが、やけに重く胸に残った。
金魚は、今日も水の中で生きている。
でも、水を替えるタイミングを逃せば、簡単に弱ってしまう。
――気づいていたのに。
そのときの僕は、
まだ知らなかった。
すくえなかった、という言葉の本当の意味を。
高一の冬は、思っていたより短かった。
気づけば理科室で彼女と話すのも、当たり前の時間になっていた。
「ねえ、金魚ってさ」
ある日、彼女は水槽を覗き込みながら言った。
「なんであんなに、ぼーっとしてるの?」
「ぼーっとしてるんじゃないよ」
「じゃあ何?」
「周りを信じてるだけ」
自分で言っておいて、少し恥ずかしくなった。
でも彼女は、意外そうに目を瞬かせた。
「……変な考え方」
そう言いながら、ちょっとだけ笑った。
その笑顔を見るたび、
僕は一歩踏み込めない自分を自覚する。
彼女は、軽いノリで距離を縮めるタイプじゃない。
でも、突き放すわけでもない。
近いのに、触れられない。
まるで、水槽越しの金魚だ。
「猫、最近どう?」
「……寝てる時間、増えた」
彼女の声が、少し低くなる。
「病院では?」
「老衰だって」
それ以上、言葉は続かなかった。
老衰――それは、どうしようもない終わり方だ。
助けられないと、最初からわかっている。
それでも人は、
何かできる気がしてしまう。
僕は生き物が好きだ。
だからこそ、知っている。
命は、努力で延ばせることもあるけど、救えない瞬間もある。
「……猫ってさ」
彼女は、ぽつりと続けた。
「私が小さいころ、毎晩喧嘩してたの。両親」
初めて、はっきりとした過去の話を聞いた。
「夜になると、怒鳴り声がして」
「でも、猫だけは静かで」
彼女は、机の縁を指でなぞった。
「私が泣いてると、必ず来た」
それだけで、十分だったらしい。
言葉も、正解も、いらなかった。
しばらくして、両親は離婚した。
彼女は母親について家を出た。
「だからさ」
彼女は、顔を上げた。
「猫のこと、最後までちゃんと見送りたい」
その目は、揺れていなかった。
逃げていない目だった。
――強いな、と思った。
同時に、
僕は自分がどこにも立っていないことを思い知る。
友達。
クラスメイト。
それ以上でも、それ以下でもない。
冬が終わり、
クラス替えの話題が教室に広がり始めた。
「来年、同じクラスかな」
軽い会話の中で、誰かが言う。
彼女は笑っていた。
でも、その笑顔は、理科室のときとは少し違った。
僕は何も言えなかった。
同じクラスになりたい、なんて。
金魚は、水を替えてもらえることを疑わない。
でも、人は違う。
何も言わなければ、
何も変わらない。
わかっているのに、
言葉は、喉の奥で止まったままだった。
三月の終わり、クラス替えの名簿が張り出された。
人だかりの向こうで、誰かが歓声を上げている。
僕は、静かに自分の名前を探した。
次に、彼女の名前。
――なかった。
それだけで、胸の奥がすっと冷えた。
想像していた未来が、音もなく消えていく感覚。
高二になってから、理科室に行く理由はなくなった。
金魚の世話は、別の生き物係が引き継いだ。
廊下ですれ違えば、軽く手を振る。
それだけ。
話しかけようと思えば、できたはずなのに、
僕はその一歩を選ばなかった。
しばらくして、彼女から一通のメッセージが届いた。
『猫、昨日ね』
短い文章だった。
それだけで、全部わかってしまった。
亡くなった、と書かれてはいなかった。
でも、それ以上の説明はいらなかった。
『ありがとう。聞いてくれて』
その一文に、胸が締めつけられた。
僕は何もしていない。
ただ話を聞いただけだ。
それでも彼女にとっては、
確かに「一緒にいた時間」だったのだと思う。
数日後、久しぶりに理科室へ行った。
水槽の中には、知らない金魚が泳いでいた。
水はきれいで、環境も整っている。
でも、以前のような気持ちにはなれなかった。
――すくえなかった。
その言葉が、頭に浮かぶ。
猫を。
彼女の時間を。
あの関係を。
でも、ふと気づいた。
すくえなかった=何も残らなかった、じゃない。
彼女は、猫との記憶から、進む道を見つけた。
僕は、生き物を見る目が少し変わった。
命は、必ず終わる。
でも、その存在は、人の中で形を変えて残る。
春の風が、理科室の窓から入り込む。
水面が、わずかに揺れた。
金魚みたいな君を、僕はすくえなかった。 クリトクらげ @kuragetoneko
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