青のクオリア

杢田

第1話

 その門はいつも閉じている。

 開くように出来ているのかどうか、聖には分からない。

 美術館の前庭に、据え付けられている彫刻だ。

 そもそも、最近では存在を気に留めることさえなくなっていた。

 門はいつも当たり前にそこにあり、美術館へと急ぐ場面では横目に見えたとしても意識に上ることはない。

 だから今日、久しぶりにその前で立ち止まったのは、中年の女性達の会話が耳に入ったからだ。

「ほら、語源、何だったかしらね」

「ここまで出てるんだけど……」

 聖はその話題に心当たりがあった。

 近づこうと一歩前に出たが、横を誰かがすり抜けて行った。

「ロカイユ、では?」

「そう、それよ!」

 二人は歓声を上げて礼を述べ、去って行った。

「失礼。君も話しかけようとしていた?」

 立ち尽くす聖に、眼鏡をかけた青年が振り向いた。

 歳の頃は聖とそう変わらないように見える。背が高い。黒地に線画の描かれたTシャツに、絵の具のついたチノパンを履いている。

「まあ、同じ事を言おうとしました」

「初日に来るなんて熱心ですね」

 ここでは今日からバロック美術の展覧会が開催されている。

「いえ、今から入るところです。見当がついたので」

「専門家の人?」

「大学生です」

 彼は感心したように微笑み、尋ねた。

「へえ、何年生?」

「2年」

「一緒だ!」

 クールな見た目の割に、屈託なく笑う。

 興味を惹かれたが、入館締め切りの時間が迫っている。

「あ、急いでる? また会えたらいいね」

 色んな意味で印象的な男だ。

 彼の髪は、青かった。

 

 聖の通う大学はこの美術館の協定校であるため、学生証を見せれば無料で入れる。不自由ない生活をさせてもらっているとはいえ、この制度はありがたかった。

 自動ドアの開くのももどかしく、展示室に足を踏み入れる。正面に掲示されている開催挨拶を律儀に読んでいる時期もあったが、展示作品にしか用がないと気付いてからは気にせず奥に進むことにしている。

 情報は探そうと思えば後からいくらでも見ることが出来る。

 聖にとって重要なのは、「作品の意味」ではなく「自分にとってどう見えるか」だった。

 この態度は美術史の教授には咎められるが、感じ方を変えることはどうしても出来なかった。


 薄暗く、少し寒い。

 美術館の空気が好きだ。身が引き締まる思いがする。足音、咳払い、ひそやかなお喋りの声。意外に色々な音がするのも、静寂がそれを引き受けて包むのも、他の場所にはない特徴だと思う。

 バロック美術に詳しいわけではないけれども、講義で見た作品の実物が展示されているのを見て静かな興奮を覚えた。

 聖母のマントの深い青は、本で見るよりずっと綺麗だった。主題と相まって、色を身近に感じる。聖はこういう感覚を持っていて、誰とも共有したことはない。

 差し色という概念を知ってから、画面に強い色を見つけると、差し色だ、と思ってしまう。

 この絵の場合は赤だ。赤が持つ意味を知ってはいる。しかし、聖にとって重要なのは、その一瞬目を奪われるという、経験の方だった。

 

 美術館の階下に画材店がある。特に目的はなかったが、帰る前に頭を休めたくて立ち寄った。

 質感の様々な紙と、硬さが異なるらしい鉛筆。絵の具の棚に辿り着き、何となく気になって手を伸ばした。

「Hueって何だろう」

「あれ、また会ったね」

 彼はウルトラマリンのチューブを棚に戻して、こちらを向いた。

「よかったら、説明するよ。お茶でもどう?」

 どうと言われても、何と返せばいいのか分からない。直感的に乗っていい誘いだと思った。しかし、返事をするタイミングは少しずれた。

「いいね」

 不自然に思われなかっただろうかという聖の心配をよそに、彼は持っていたカゴを戻して店を出た。

「お茶って言っても、坂を降りなきゃ喫茶店はないんだよね」

 彼は美術館の横に建っている観光案内センターの前で自販機を示した。

 隣に立って、彼がミルクコーヒーのボタンを押すのを眺めながら尋ねた。

「なんて呼べばいい?」

「あ、ごめん。俺は菜摘」

「聖」

 菜摘は屈んで取り出し口に手を伸ばし、立ち上がって言った。

「聖、よろしくね」

 差し出された缶を思わず受け取ってしまい、不思議に思っていると菜摘が言った。

「コーヒー飲める?」

「えっ、自分で買うよ」

 夏は終わりに差し掛かっているが、夕方になってもまだ暑さがある。冷たい缶の感触は心地良かった。

「俺は飲めないから、もらってくれると嬉しい」

 菜摘の少し気まずそうな声に、聖は思わず吹き出した。

「何だよ、それ」

「間違えちゃった……」

 そそっかしい性質なのだろうか。それとも遠回しに気を遣われているのか。菜摘の人柄はまだ分からない。

「じゃあ、もらう。ありがとう」

 聖の返事に満足そうに頷くと、菜摘は再び自販機にコインを入れた。

「サイダーにしようと思ったんだけど、下の段を触っちゃったんだよね」

 がこん、と音がしてペットボトルが出てくる。

 昔はこの仕組みが不思議で仕方がなくて、小学生の時に自由研究のテーマにしたことを思い出す。

「Hueの話、しようか」

「うん」

 缶を開けるのに少し難儀する。昨日爪を切ったから、引っかける隙がない。

 菜摘はさりげなく聖の手元を見守っているようだったが、無事に開いたのを確認すると自分のサイダーを開栓した。

「聖は絵は描かない人?」

「見る専門」

「好きなんだ? 例えば、コバルトブルーがどんな色か分かる?」

「分かる」

「コバルトブルーは鉱石の色なんだ。でも、安定して鉱石が供給されるわけじゃないだろ。他にも、毒性がある絵の具の話、聞いた事ない?」

 聖は頷いた。

「緑の毒のドレスの話、聞いた事ある」

「それは染料だけど、そんな感じ。希少だったり危険だったりする顔料は使えないから、他の顔料を混ぜて似た色にしてるのがHue」

 菜摘がサイダーを煽るのを見て、聖もコーヒーを一口含んだ。信じられないくらいに甘い。だが、だからこそ身体に染み渡るように感じた。

「説明上手いね」

「そうかな。伝わったなら良かった」

 聖がコーヒーを持て余しているのに気付いたのか、菜摘は建物の裏を指差して提案した。

「あっちにテーブルがあるから、座る?」

「いや、それより公園を歩こうかな。噴水、ライトアップされてるよね」

 日は落ちていないが、薄闇に輝くライトと水は美しいだろうと思った。

「確かに。詳しいね。よく来るの?」

 菜摘は行き先が決まるや否や、歩き始めた。

「週に三回くらい」

 後を追って会話を続ける。

「へえ、見る専門って、美術史とか?」

 聖は驚いて息を呑んだ。

「言い当てられたのは初めてだよ。俺の専攻は美学だけど、美術史のゼミにいる」

「美学!」

 菜摘の声が少し大きくなった。

「かっこいいじゃん。難しくてちんぷんかんぷんだよ」

「美学分かる? 君も美術系?」

 そうだろうな、とは思っていたが、聖は続く言葉に少し怯んだ。

「俺は学校がそこなの」

 そこ、と言って示されるのは広い公園の端の方で、つまりそれは菜摘が国内最高峰の芸術大学の学生だということだった。

「すごい」

 心からの感嘆に、菜摘は居心地が悪そうに唇を引き結んだ。

「褒めるのは作品を見てからにしてほしいな」

「そうだね。今度見せて」

 聖は出会って間もない相手に興味を惹かれている自分に気付いたが、驚くことはなかった。こういう事はたまにある。

 甘いコーヒーを飲みながら、まだ熱を持っているアスファルトの上をてくてく歩く。

 非日常感のある体験だった。ほどなくして角を曲がると、噴き上がっている水の柱が見えた。

「結構人いるね」

「みんな涼みたいんじゃない」

「涼む」

 聖が何気なく発した言葉を、菜摘は口の中で転がした。

「あれ? 涼むって方言?」

 聖は千葉に住んでいる。産まれてから今までずっと。時折方言が出て友人に指摘されるため、今回もそうかと思ったのだが。

「方言っていうか、文語? 久しぶりに聞いたかも」

「そうかなぁ」

 釈然としないが、口論しても仕方がない。聖は少し首を傾げることで、抗議の意に蓋をした。

「おいでよ、綺麗だよ」

 先を行く菜摘は人混みの隙間に入り込み、噴水がよく見える位置を確保していた。

「毎時0分に光と水のショー、らしい」

 菜摘が看板を読み上げる。

 時計を見ると時刻は18時8分で、人が去って行くのを見るとショーは終わったところであろうと察せられた。

「これでも十分だけどね」

 菜摘は上機嫌に噴水を見上げた。ライトの色が紫からゆっくりと青に変化して行く。

「キラキラしてて綺麗」

 聖は菜摘の眼鏡もキラキラしている、と思ったが、青い光には浸れなかった。どこか距離を感じる色だ。やがてライトは緑、黄と揺らぎ、人もまばらになってきた。

「帰ろうかな」

 気付けば陽が落ちて、辺りは暗くなっている。

「うん、じゃあ、俺こっちだから」

 菜摘は駅と反対の方角を指して歩き出した。

 聖は軽く手を振って、駅に戻る道を進んだ。

 再び美術館の前を通りかかる時、防犯の為の低い門の中に守られている大きな門を覗き込んだ。この入れ子構造は妙だが、逆説的に重大な作品であることが証明されていると思った。

 開かない門には門としての機能が無いにも関わらず、何かの境界に見えた。

 例えばある人と出会う前と後、自分はどこかを越えたかもしれない。

 他愛無い想像だったが、聖は少しだけ軽い足取りで帰路に着いた。

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