第3話 匂いの境目
夕方の風が、商店街を抜けていく。
シャッターの隙間。
古い看板。
人の少ない通り。
それらは、妾にとってはいつも通りの景色じゃ。
――しかし。
今日の空気は、どこか、引っかかる。
カフェ三狐のカウンターを拭きながら、妾は小さく鼻を鳴らした。
「……妙じゃのう」
匂いが、混じっておる。
甘い菓子の匂い。
焙煎した豆。
木と紙と、人の気配。
その奥に、ほんのわずか――
境目の分からぬ匂いがあった。
近頃、増えつつある匂い。
はっきりとした異臭ではない。
腐敗でも、血でもない。
むしろ、近しい匂いじゃ。
妾の耳が、ぴくりと動く。
「……来たか」
扉が開く音。
「こんにちは〜」
ミユの声。
続いて、マリの気配。
昨日と、同じ組み合わせ。
――否。
同じ、ではない。
ミユは、いつも通りじゃ。
少し高い体温。
人の匂い。
だが、マリの方は。
「…………」
妾は、言葉を飲み込んだ。
匂いが、ほどけかけている。
人の匂いの輪郭が、曖昧じゃ。
その隙間から、別の何かが、滲んでおる。
それは――
狐に近い匂い。
しかし、妾のものではない。
イズナのものでもない。
ミカ殿の神気とも、違う。
不完全で、未熟で、まだ名を持たぬ匂い。
妾の胸が、ひくりと鳴った。
「……マリ」
名を呼ぶと、マリは少し驚いた顔をした。
「え? なに?」
「今日は、少し顔色が悪いのじゃ」
昨日と同じ言葉。
しかし、今日は理由が違う。
妾は、確信しておった。
この匂いは――
増える匂いじゃ。
――昔。
まだ妾が、森におった頃。
同じ匂いを、嗅いだことがある。
縄張りが侵される前。
仲間が、増える前。
血を流すよりも前の、匂い。
「……ミカ殿」
妾は、心の中で名を呼んだ。
だが、答えはない。
神社は遠く、今は妾ひとり。
ミユは、いつも通り、耳に触れた。
「ヤコちゃん、今日もあったかい」
「む……」
妾は、やんわりと身を引いた。
ミユの指先から、
わずかな熱と、かすかな違和感が伝わる。
だが――
ミユは、まだ、こちら側ではない。
それが、分かってしまう。
そして、分かってしまうからこそ。
妾は、マリから、目を離せなくなった。
マリの呼吸。
瞬き。
立ち姿。
すべてが、変わり始めている途中。
「……これは」
妾は、初めて、その匂いに名を付けた。
「境目じゃ」
人でもなく。
狐でもなく。
神でもない。
その、狭間。
――危うい匂い。
夜が近づくにつれ、匂いは少しずつ、濃くなる。
マリは、何も気づいておらぬ。
ミユも、笑っておる。
だからこそ、妾は。
「今日は、早めに帰るとよい」
できるだけ、穏やかに言った。
「え? どうして?」
「……胸騒ぎがするのじゃ」
マリは、少しだけ笑った。
「ヤコちゃん、占い師みたい」
「妾は、そういうものではない」
けれど。
胸の奥で、確かに鳴っておる。
これは、始まりの匂いじゃ、と。
その夜。
妾は、久しぶりに、神社へ戻った。
境内の空気は、澄んでいる。
だが、妾の鼻は、騙されぬ。
「……ミカ殿」
扉の前で、静かに呼ぶ。
「街に、増えようとする匂いがある」
返事は、ない。
それでも、妾は知っている。
この匂いは、
放っておけば――
街そのものを変えてしまう。
妾は、尻尾を揺らし、夜の闇を見つめた。
守るべきものが、はっきりしてきた。
そして同時に。
守れぬものも、あるのだと。
初めて、そう思った。
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