一粒の温度

まろえ788才

欅の時間

白い天井だった。


動かない指先と、鼻をつく消毒液の匂いで、自分が生きていることを知った。

記憶は、ゆっくりと、しかし確実に形を成した。


自分は、ただ両親を困らせたかった。愛されている自信を、もっと手近な恐怖で確かめたかった。あの日、二人の目の前で階段から宙に浮いたのは、死ぬためではなかった。


「親は?」

掠れた声で看護師に問うと、彼女は悲しい顔をして答えた。

「五年前に、お二人とも亡くなりました。事故から三十三年。ずっと、あなたを見舞いに来ていらっしゃいましたよ」


医師は、私の内臓を蝕むステージ4の癌を告げた。

治療をすれば四年、しなければ半年。


私は、それ以上の説明を遮った。延命のためのチューブも、痛みを和らげるための点滴も、今すぐ取っ払いたかった。


窓の外には、一本の大きな欅が見えた。

風が吹けば葉が裏返り、陽光を反射して銀色に光る。


三十三年前の自分なら、見向きもしなかった光景だ。

それなのに、今の私にはそれが残酷なほど美しく見えた。


私が眠り続けていた三十三回の四季を、父と母はこの木越しに眺めていたのだろうか。

芽吹き、生い茂り、枯れ、耐える。その循環を、二人はどんな思いで数えたのか。

「今日も起きなかったね」と、二人で肩を寄せ合い、この空を見上げていたのかもしれない。


そう思うと、視界が歪んだ。

一度溢れ出した涙は、止める術を知らなかった。

声も出さず、ただ熱い液体が耳の後ろへと流れていく。

この涙さえ、両親がかつて流したものの何分の一にも満たないのだと思うと、さらに胸が締め付けられた。


夜、消灯後の病室は完全な孤独に包まれる。

遠くで鳴るナースコールの音、微かな空調の音。

暗闇の中、ただ「後悔」という塊だけがベッドに横たわっている感覚に陥る。

窓から差し込む月光は冷たく、私の孤独を白日の下に晒した。


死は怖くない。

ただ、この美しい世界に、二人がもういないということ。

そして、その世界に一人で取り残されている時間が、あまりにも静かすぎて、苦しかった。

私はただ、病室の窓から見える空の色が変わるのを眺めて過ごした。

死は、唐突に訪れた。



気がつくと、眩い光の中にいた。

目の前には、現実感のない美しさを纏った女性が立っていた。


「不幸な人生でしたね」と彼女は言った。「そんなあなたに、特別なチャンスを差し上げます。記憶を持ったまま、別の世界で新しい命を。強い力も授けましょう」


私は首を振った。


「異世界なんて、いりません。記憶を持ったまま、また私をやり直すなんて、耐えられません」


「刺激的な世界ですよ」と女神は食い下がった。「魔法も、見たこともない生き物もいます。すぐに過去なんて忘れてしまいます」

私は静かに答えた。


「死んでから分かったんです。私にとって、産んでくれた親は宇宙よりも重いものでした。その両親を傷付けたという記憶は、魔法なんかじゃ消えない。私の罪です」


私は足元を見た。

「両親がどこかで宇宙の一部になっているのなら、私の魂も粉々に砕いて、同じ場所に撒いてください。それだけでいいです」


女神は呆れたように溜め息をついた。

「わかりました。椅子の後ろの扉を開けなさい。そこに行けば、あなたの望み通りになる」


私は迷わず扉を開けた。


先には、ただ暗闇が広がっていた。

足を踏み入れると、まず視覚が消えた。

次に、思考が形を失った。


「私」という輪郭が削り取られていく。

昨日まで私を縛っていた後悔も、名前も、すべてがバラバラの粒子になって解けていく。


ああ、でも。


暗闇の中で、不意に何かに包まれた。

それは陽だまりのようだった。


言葉も、目も、耳も失ったけれど、その暖かさだけが私の中に浸透してくる。


ありがとう。

ごめんね。


思考以前の震えが、広大な無の中で、ただそこにあった。

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一粒の温度 まろえ788才 @maroee788

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