目覚めたら異邦

孤独部

目覚めたら異邦

 目が覚めると、そこはインドだった。


 いや、正確にはそこがインドなのかはわからない。ぼくはインドに行ったことはないのだ。

 しかし、目が覚めた瞬間に感じた、いつもと違う肌に触れる空気の感じ、その中にかすかに混じるなにかの匂い、安宿のドミトリーと思われるボロい二段ベッド(自分は下段で寝ているようで、目の前には上段の背面が見える。読めない文字で落書きがされているのがわかる)、今にも壊れそうな音を立てながら天井で回る扇風機から、直感的にここはインドなのではないかと、少なくとも日本ではないと思ったのだ。


 ベッドから起き上がり、ベッドの合間にある窓から外を見ると、その直感は確信に変わった。


 埃っぽく砂っぽい道には、いくつもの屋台が立ち並び、たくさんの人々が行き交っている。その服装はなかなかカラフルでありながら、全体的にくすんで見える。リキシャと呼ばれる乗り物がいくつも見える。実物は初めて見た。

 行ったことがなくてもわかる。ここは本で読んだことのある、また写真や映像で目にしたことのある、あのインドだ。


 ぼくはいま、インドにいる。

 なぜ、ぼくはインドにいるんだ?


 昨夜ぼくは自宅のベッドで寝たはずだ。日本の、名古屋のとある住宅街にあるマンションの一室だ。昨日は平日で、今日も平日だ。ぼくは昨夜も仕事から帰って晩飯を食べ、ベッドで横になりながらスマホを眺めているうちに、いつのまにか寝てしまったはずだ。そういえば充電器にも差さずに寝てしまった気がする。そう、たしかに自室のベッドで眠ったのだ。


 それがなぜ、目が覚めたらインドなんだろう?


 混乱しながらしばらく窓の外に広がるインドの雑踏を眺めていたが、ふと、自分が何を身に着けているのかとからだを見回した。それはたしかに昨夜寝落ちした時と同じ、パジャマ代わりにしているTシャツとハーフパンツだった。肌の色もいつも通りで、どうやらインド人になったわけではないようだ。頭をかく。髪の毛もいつもと同じ感触だ。窓に目をやり、ガラスに映る自分の姿に目を凝らす。よく見えないが、どうやら顔もいつもと同じ自分のようだ。


 ほっ、と一息ついて、ぼくは自分の寝ていたベッドに戻る。見回すとリュックサックがひとつ枕元に置いてあった。たしかにふだん自分が使っているものだ。中を開けると、いつも自分が旅行の時にもっていくものが一通りそろっていた。といっても荷物はそんなに多くはなく、トラベル用の洗面用具一式と数日分の着替えくらいのもの。パスポートはなかった。財布はあった。お金は、見慣れないよれよれのお札がそこそこたくさんあるようだった。ほっとした。しかし日本円でいくらくらいなのだろう。わからない。


 とりあえず荷物をまとめてリュックを背負い、宿を出た。

 他のベッドで眠る人影以外には、誰ともすれ違わなかった(大小さまざまな変な虫とは何匹もすれ違った)。建物を出て振り返ったとき、はたして宿代は払ってあるのか、何泊する予定でここに宿をとっていたのか気になったが、たしかめようもなかった。


 ぼくはあてもなく雑踏をふらふらと歩きだした。暑い。土埃まじりの空気の中には、目覚めたときよりも強く、様々な匂いを感じる。屋台から漂ってくる食べ物や香辛料の香り、ゴミの匂い、排気ガスの匂い。様々な匂いが入り混じった空気が、ここは異国なのだと強く訴えてくる。

 視線を上げると、見慣れない文字で書かれた看板が目に飛び込んでくる。まったく読めない。インドはたしか、ヒンディー語だっただろうか。足元にはときどき犬が寝そべっている。場所によっては人も座り込んでいる。そしてぶつかるすれすれの距離を、リキシャや年季の入った車がかすめていく。


 立ち並ぶ屋台を眺めながら、ときおり覗き込みながら歩く。そういえばおなかがすいているようだ。ふだん寝起きは食欲が全くないのだが、こうも食べ物の匂いが漂ってくるとさすがに食欲がわいてくる。しかも普段嗅ぎなれないような匂いだから興味もわく。値段も言葉もわからないが、まぁなんとかなるだろう。


 ふと目についた、インド人が数人なにかを店先で手づかみで食べている屋台に突撃することにした。サンドイッチ的なものだろうか。


「ディスワン、ハウマッチ?」

「キャアカハッメンインジャンタァ」


 平たく丸い鉄板の上で手を動かし続けながら、インド人のおじさんは聞きなれない言語でなにかを言った。まったくわからない。英語は通じなさそうだ。今度は大きくジェスチャーを交えて繰り返す。


「(指さして)ディス、(指を一本立てて)ワン」


 おじさんは小さくうなずいた。しかしいくらなのだろう。先にほかの人が買うのを見ておけばよかった。

 財布から小さな額の紙幣を取り出し、渡してみる。どうやら足りたようで、おじさんはお札を取り上げると、いくらかの小銭を渡してくれた。おつりだ。どうやら買えたらしい。


 平たい円形の鉄板の上でおじさんが会話の間もずっとくるくる回していた、つぶれた食パンのようなものをすっと持ち上げ、裏返すと、鉄板の向こう側から野菜やら肉やらが次々に乗せられていく。手のひらほどしかない食パン的なものの上には見る見るうちに具材があふれかえり、乗せてるうちからぽろぽろとこぼれている。

 仕上げに謎の液体が二、三ぶっかけられると、鉄板のすみに控えていたもう一切れの食パン的なものがかぶせられ、ぎゅっと押しつぶされたのちに赤いプラスチックの皿にのせられ、ぼくに向かって差し出された。完成したらしい。


「センキュー」


 店の周りにイスやテーブルはない。まわりのインド人に倣って、店の脇でがぶりとほおばった。うん、なかなかうまい。食べ慣れない味はおそらく謎の液体の力だろう。ちょっと辛く、酸味があり、食べやすい。まだ朝だと思うが十分に暑い空気の中、不思議と食欲が出る味だ。思っていたより重いが、これなら完食できそうだ。


 たかってくるハエを払いのけながら、もくもくと食べる。普段ならハエが止まった食べ物なんて口に運ぶのをためらってしまうが、不思議とここではそんなに気にならない。はやくもこの環境に順応しつつあるのかもしれない、と我ながらおもしろく思った。


 その日は結局、周辺を散策したのちに、今朝目覚めた宿に戻った。他の宿もあたってみようと思ったのだが、そもそもどこが宿屋なのかがわからなかった。近くでチャイを飲んで一服して、夕方に再び宿の入り口に入ると、今度は人がいた。身振り手振りでなんとか宿泊の交渉もでき、とりあえず三日宿泊を抑えることができた(たぶん)。


 ベッドに荷物を下ろしてまず行ったのは、スマホの充電だ。持ってはいたが充電が切れていた。果たして使える状態なのだろうか。


「あれ?」


 電源は入った。しかしパスコードがわからない。入力ミスかと思っていつもの番号を三度打ち込んだがはじかれた。思い当たる組み合わせを試しているうちに、ロックがかかってしまった。


「まずいな……」


 思わず独り言が出てしまう。しかし妙なのは、最初の画面に現れている文字が、見慣れない言語になっていることだ。おそらくヒンディー語なんだろうが、なぜ自分のスマホがヒンディー語なのか。これは本当に自分のスマホなのだろうか。


 いずれにせよ明日まではロックがかかってどうすることもできない。途方に暮れつつも、シャワーを浴びて眠ることにした。シャワー室は意外にも、想像していたほど汚くはなくてほっとした。朝食のサンドイッチの値段と宿代から推察するに、この宿はなかなか安いし、悪くなさそうだ。


 ベッドに横になり、今朝見たものと同じ落書きを眺めながら、日中歩きながらぼんやり考えた仮説を組み立ててみる。


 現在のこの状況、おそらくインドを旅行中だった未来のぼくが、昨晩眠っている間に記憶喪失になったと考えるのが妥当な推論だと思う。だから三十四歳だった現在の自分からすれば、まるで突然インドに現れたようになっているのだ。


 しかしそうだとすると、今の自分はいくつなのだろう。鏡に映る姿も持ち物も大して変わっていないことからすると、おそらくそんなに先の未来ではないのだろう。だとすると、日本に残してきている住まいや仕事がどうなっているのか気になる。もしかしたら三十四の頃のぼくとは違うのかもしれない。


 それよりも、そもそも日本に帰れるのだろうか。この旅行はどういう予定だったのか。いつ帰国する予定なのか。帰りの飛行機は取ってあるのか。そういえば荷物にパスポートはなかった。紛失したのだろうか。たとえば強盗に襲われて、パスポートを取られて、その時のショックで記憶喪失になったのかもしれない。しかしそれにしては、お金が取られていないのが不思議だ。とりあえずパスポートがないと帰れないから、日本大使館に行くべきか。そもそもどこにあるのかわからない。まずは日本人を探してみようか……


 カタカタと壊れそうな音を立てながら回る扇風機を眺めながら、ぐるぐると思考を巡らせているうちに、ぼくはいつの間にか眠りに落ちていた。




 インドで目覚めてから一週間が経った。


 結局日本人はおろか、外国人らしき人にすら出会うことはなかった。ドミトリーに泊まっている人も皆インド人のようだ。普通、ドミトリーの宿といえばバックパッカーが泊まるところだから、現地の人より外国人の方が割合が多くてもいいくらいなのに、一人もいない。街中でも見かけたことがない。あいかわらずスマホもパスコードがわからず文鎮化したままで、日本大使館の場所はおろか、自分の現在地もわからないままだった。


 二日目の夜にはお腹を下し、三日目から五日目にかけては高熱にうなされた。噂に聞いていたインドの洗礼だ。幸い、ドミトリーで相部屋の、ラグビーでもやっていそうなほどがっしりした体格のインド人が、水や果物を買ってきては介抱してくれた。だいぶ体調が良くなったところでお金を払おうとするも、頑なに受け取ってくれない。インドといえばぼったくりをふっかけられると思い込んでいたぼくは、心優しい人もいるんだと感動した。


 病み上がりでだらだらと過ごした六日目をはさみ、本日七日目。ようやく街に出歩くことができそうだ。


 炎天下の中、休み休み散策を続け、夕方には宿の近くに見つけた食堂に入ってみた。食堂といっても店の正面には扉も壁もなく、半屋台のような店構えだ。厨房が道に面する位置にあり、店の前の道にまでテーブルとイスが並べられている。開放感のある店だ。ちょうど夕日が差し込み、店内がオレンジ色に染まっている。


 天井で回る扇風機の風が届きそうな奥の方の席に座ると、見上げるほど高い位置にテレビがあることに気づいた。案の定言葉はまったくわからないが、どうやら夕方のニュースをやっているらしい。インド人男性が原稿を読み上げると、インドのどこかの学校の様子が映し出された。学生がインタビューに答えている。


 ぼんやりと見ながら、先ほど厨房前で指差しでなんとか注文できた焼きそばのようなものを食べる。まだあまり食欲が戻っておらず、テレビを眺めながらゆっくりと口に運ぶ。


 八割方食べて手が止まった頃、テレビは天気予報にうつった。その天気図をぼくは二度見した。


 日本だ。日本列島だ。

 なぜインドの天気予報で、日本地図が出るのか?


 続いて画面はこの地域の天気を表示する。その地図はぼくが見慣れている、東海地方の天気だった。明日の東海地方はどこも晴れ、ときどき曇り。その後全国の天気――もちろん日本列島だ――を表示して、天気予報は終わった。インドのCMがはじまる。


 そのあと次の番組が始まるまで、いや始まってからしばらく経つまで、ぼくは画面を見つめながらずっと口を半開きにあけたまま固まっていた。


 ぼくが見たのは、何かの見間違いだろうか?


 いや、そんなことはないだろう。たしかに日本の、それも東海地方の天気予報だった。愛知県に住んで三十四年、見慣れたあの地形だった。もっとも、県境の線や、お天気マークがついている都市の位置は見慣れたものとは若干違っているような気がしたが。

 皿の上に残った焼きそばに目線を落としたぼくは、フォークの先でそれをつつきながら考える。インドで日本の、それも東海地方の天気予報を放送するはずがない。となると、もしかして。


「インドじゃない?」


 ぼくがインドだと思っていたこの場所は、インドではないのではないか。もしかしたら、ぼくはインドに移動などしておらず、ここがインドになってしまったのではないか。なぜ? そんなことがありえるのか? インドになるってどういうことだ?


 しばらく放心状態だったぼくは、残りの焼きそばを一口でほおばり、飲み込んで席を立った。テレビをちらっと見ると、ドラマをやっているようで、深刻そうな顔をしたきれいなインド人の女性の顔が映し出されていた。


 店を出るとすっかり日が暮れている。立ち並ぶ屋台の電気に照らされた通りを、あてもなくふらふらと歩く。脳内ではさっき見た天気予報が、何度も繰り返されていた。考えはなにもまとまらない。


 それから三十分ほど歩いただろうか。喉が乾いてきたぼくは、目に止まった店で小瓶のビールを一つ買い、それを片手に飲みながら歩いた。だんだんとアルコールが回り、ようやく脳内でループ再生されていた天気予報も遠のいていった。通りに並ぶ屋台を照らす電球の灯りが、眩しく感じられる。夜風は生ぬるく、相変わらずいろんな香りが混ざりあっているが、心地よかった。この通りはもう何度か歩いており、目に飛び込んでくるくすんだ色の、読めない文字の看板もすっかりなじんだものに感じられた。


 どう見たって、やはりインドだ。


 ここが日本で、もと住んでいた名古屋だとしたって、ぼくが今いる場所はどう見てもあのインドだ。けっして、もといた場所なんかではない。もしここが本当に日本だとしたら、もうぼくがもといた世界はなくなってしまったことになる。


 ぼくはもう、元の世界には戻れないであろうことを悟った。


 帰ることなんてできないのだ。仮にここがインドだとしたら、日本に帰ることだってできたかもしれない。しかしここが元・日本である以上、ぼくがいたあの場所は、もうどこにもないのだ。


 住んでいた部屋を思い出す。ワンルームの部屋にはベッドや机があり、本棚には好きだった本が並んでいる。クローゼットを開けて中を探ると、二十代の頃によく着ていた冬物の上着、学生の頃使っていたマフラー、あまり弾くことのなかったエレキギター、電源が入らなくなったノートパソコン、中高生の頃に買い集めたCD……いろいろなものがあった。懐かしく思い出されるかといえば意外にもそんなことはなく、あまり今の自分には必要でないものが大半である気がしてきた。住んでいたマンションから出て近所のコンビニあたりまでの道を辿ってみる。しかし感傷は沸き上がってこず、むしろいま目の前に広がる夜のインドの雑踏の方が、心惹かれるものがあった。


 ぼくは立ち止まり、手に持っていた瓶に残ったビールを一口で飲んで、深く息を吐いた。


 振り返っても仕方ないのだ。これからどうすればよいのか、どうやって生きていけばよいのか、さっぱりわからないが、それでもやっていくしかない。そしてそれは、思い返せばここに来る前だってそうだったのだ。ぼくらはいつだって、どうしたらいいかわからないなかを、それでもやっていくしかないのだ。


 とにかく今日は、もうベッドに戻って眠ろう。今夜はなんとなく、よく眠れそうな気がする。久しぶりによく歩いたからだろうか。

 宿に戻ってシャワーを浴び、それからぼくはベッドに横たわった。あっという間に眠りに落ちた。




 翌朝目が覚めると、昨日までとはすこし違う空気を感じた。


 新しい一日が始まるのだという、すがすがしい気持ちが胸いっぱいに広がる。どうやらぐっすり眠れたようで、体調も全快のようだ。目を開けると上段ベッドの裏には、もう見慣れた異国語の落書きが……あるのだが……文字が違う。漢字だ。いや、漢字のようだが、中には見慣れない形をしているものもある。


 ベッドから起き上がり、ベッドの合間にある窓から外を見ると、ぼくは目を疑った。

 昨日までとはまた違った空気の匂い、道を行き交うバイクの音、そして通りの建物に掲げられている、漢字が書かれたいくつもの大きな看板。


 そこは、中国だった。



[終]

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