望、花あかり

葉野亜依

望、花あかり

 ぼくがやって来たこの街には、丘の上に大きな桜がある。

 ――満月の夜、桜の下で亡くなったものに会える、か……。

 その桜には、そんな噂があった。

 だから、ぼくはこの街にやって来たのだ。もう一度、彼女と会うために。

 大きな満月が夜空に浮かんでいる。

 ――彼女にまた会えるだろうか……。

 ドキドキしながら、丘を登る。一歩一歩進みながら、ぼくは彼女との思い出を頭に浮かべた。



   *



「あなた、桜太って名前なのね。ふふ、眉が桜の花びらっぽいんだね」


 初めて会った時、彼女はぼくにそう言った。


「ぼくの名前の由来は、さくらの日に生まれたからなんだけど!」


 むっとしてみたが、彼女は気にしない。


「可愛いねぇ」

「可愛いじゃなくて、かっこいいって言われたいんだけど!」


 ぼくの頭を撫でる彼女に対して、頭を振って拒否する。彼女がちょっと残念そうにしたけれど、無視した。

 ぼくだって男だ。可愛いと言われるよりも、かっこいいと言われたいんだ。

 そんなぼくの気持ちなど露知らず、朗らかに笑う彼女に「のんきなやつめ」と思った。

 それからというもの、彼女はぼくのもとによく来るようになった。

 彼女はぼくが嫌がるようなことはしないし、ちょうど良い距離感を保ってくれた。

 頭を撫でられるのも実は嫌いじゃない。仕方がないから、頭を撫でるのを許可した。そうすると、彼女はとても喜んだ。

 ――まあ、悪くはないかな。

 そんなことを思いつつ、流石にしつこい時は怒ったけど。

 彼女と何度か交流した後、ぼくは彼女と一緒に暮らすことになった。

 狭いおんぼろアパートでの二人の生活は案外悪くなかった。

 彼女が作ってくれたご飯を食べ、仕事へと向かう彼女を送り出す。彼女が仕事をしている間、ちょっとした運動とお昼寝をしていれば、いつの間にか時間は経つ。そして、疲れてへとへとになって来た彼女を出迎える。

 彼女は仕事で家に帰ってくるのが遅かったから、ぼくたちは夜に散歩することが多かった。

 誰もいない夜の散歩は静かで好きだった。


「綺麗だね」

「ああ、綺麗だ」


 夜の闇の中、小さく白い桜の花が見事なまでに咲き乱れている。


「明かりもないのに、桜がほのかに明るく見えるのを『花あかり』って言うんだよ」

「へぇ、そうなのか」

「風流だねぇ」


 はらはら舞う花びらがぼくの鼻の上に落ちて来た。思わずくしゅっとくしゃみをする。

 それでも取れなかった花びらを彼女がその細い指で摘んで取ってくれた。


「ほら、やっぱり桜太の眉は桜の花びらにそっくりだね」


 彼女は花びらとぼくの眉を見比べる。

 楽しそうに笑うその姿が愛おしい。

 満開の桜の下、彼女とゆっくり桜を見ながら歩く。風が吹き、はらりと花びらが舞った。

 淡い色の桜も、桜を眺める彼女も、綺麗だと思った。


「来年も、こうして花見をしようね」

「うん、約束だ」


 ぼくたちは約束をした。そして、次の年も、その次の年も、それは続いたのだ。

 ――いつまでも続くといいのに。

 そんなぼくの小さな願いは、長くは続かなかった。



   *



 大きな桜が見えて来た。気持ちがはやる。

 静かな夜の中、その人は一人、桜の下で佇んでいる。

 ――このにおいは……!

 ぼくは走った。息が切れる。脚がもつれて転けそうになる。

 桜が眩くきらきらと輝いている。

 走りながら、ぼくは大きな声でその人の名前を呼んだ。

 すると、その人――彼女が振り返った。

 彼女の瞳が大きく見開かれた。


「……桜太?」

「そうだよ、ぼくだよ」

「本当に会えるなんて……!」


 彼女がぼくに抱きついてきた。細い腕がぼくの背中に回る。何だか彼女が痩せたような気がするのはきっと気のせいじゃない。


「この桜の噂を知って……もしかしたら桜太に会えるかもしれないと思って……それで、ここまでやって来たの」

「ぼくもだよ。君に会いたくて、やって来たんだ」


 彼女の肩に顔を埋める。ぼくの背中を撫でる手つきは優しい。


「ごめんね、冷たいでしょ?」


 そう訊ねても彼女が手を止めることはなかった。

 彼女はぼくに触れられて嬉しいとその目から涙を流している。

「桜太が亡くなって、もう1年以上経つんだね……」

 彼女がぽつりと呟いた。

 そう、ぼくはもう死んでいる。病気で亡くなってしまったのだ。

 霊となったぼくはこの世に彷徨い続けた。どうしてもまた彼女に会いたかった。

 そんな時に聞いたのがこの桜の噂だった。

 ――もしかしたら、彼女も死んだぼくに会いたいと思ってくれているかもしれない。

 霊のぼくは彼女と会うために……彼女もまた、霊となったぼくと会うために、ここへとやって来た。

 そして、今、噂は現実となった。彼女は霊のぼくのことが視えているし、ぼくに触れることもできた。


「桜太……あの時は何もしてあげられなくてごめんね」


 彼女は頭を下げた。ぽたぽたと雫が地面に染み込んでいく。

 彼女が悲しむ姿を見たくなくて、僕はすぐに否定した。


「そんなことないよ!きみはぼくにいろんなことをしてくれたじゃないか!」

「本当にごめんね。わたしが仕事が忙しくて自分のことで精一杯で、最期を看取ることができなくて……」

「仕方がないよ!仕事だったんだから。きみがぼくのことを心配してくれていたのはちゃんとわかっているから、大丈夫だよ!」


 少しでもぼくがご飯を食べやすいように、栄養のある野菜を柔らかくしてくれたり、動けないぼくの脚をさすってくれたりした。カートを押してぼくを散歩に連れて行ってくれた。

 それだけでぼくは十分だった。彼女と過ごす時間がかけがえなくて、愛おしかった。

 ごめんね、と何度も繰り返す彼女に声を掛ける。でも、ぼくの声は彼女に届かない。

 ――それこそ仕方がないか……だって、彼女は人間で、ぼくは犬なのだから……。

 人間の言葉は理解できても、喋ることはできない。彼女にもまた、ぼくの言葉は伝わらない。

 ――でも、彼女に下を向いて欲しくはないんだ。

 俯いている彼女の顔を覗き込む。どうしても下を向いて欲しくなくて、ぼくは彼女の顔を舐めた。


「ふふっ、くすぐったいよ」


 小さく笑いながら、彼女と目が合う。


「やっと笑ってくれた」


 そう、彼女は泣き顔よりも笑顔が一番いい。

 彼女はぼくがいなくなってからの話をしてくれた。

 頭を撫でる手が心地よくて、ぼくは目を細める。


「桜太がいなくてたくさん落ち込んだけど、ちゃんと前を向いて生きていけそうだよ」

「きみが元気ならぼくはそれでいいんだ。きみならきっと大丈夫だよ」


 伝わらなくてもぼくは喋り続けた。少しでも彼女に気持ちが伝わるように。

 だんだん満月が見えなくなっていく。終わりの時間が近づいている。

 上を向いて、と顔を上げると、彼女もそれに倣ってくれた。

 一本の大きな桜。そこから分かれた枝には数多の花が咲き誇っている。

 電灯がなくても、こんなにも明るい。

 花あかり――彼女が教えてくれた言葉。

 美しくて、そして儚い。


「綺麗だね」

「ああ、綺麗だ」


 言葉は通じない。だけど、その気持ちは同じだ。

 ――彼女ともう一度、綺麗な花あかりを見たかったな……。

 ゆっくりと閉じていく瞳。終わりゆく鼓動。

 ぼくが終わりの中で思ったこと――それは、彼女と二人きりでもう一度花あかりを見ることだった。


「わたしね、桜太ともう一度、花あかりを見たいと思っていたんだ。桜を見ながら桜太と散歩するのが好きだったから」

「ぼくもだよ」


 彼女と同じ気持ちで嬉しい。


「ごめんね。桜が咲く前に逝ってしまって」


 ただでさえ、人間と犬の寿命は違う。それに加えてぼくは病気になってしまったから。

 そんなぼくを支えてくれた彼女に……優しくて、でも涙脆い彼女に、ぼくは何かをしてあげたかった。


「ぼくからあげられるのはこれくらいだよ」


 不意にぼくは彼女から離れた。


「どうしたの?」


 首を傾げる彼女に、「見ていて」と声を掛ける。

 気合いを入れて、宙へとふわりと浮かぶ。

 驚く彼女に、ふっと自慢げに息を吐く。

 ぼくは空を翔ける。思い切り尻尾を振って、桜の枝の間を駆け回った。

 すると、桜が大きく揺れて、花びらが舞い落ちる。

 きらきらと光る桜に、ぼくの想いを乗せる。


「ありがとう。ぼくと一緒にいてくれて」


 驚いた表情の彼女の顔が、優しい笑顔に変わった。

 彼女の瞳には、淡い色の桜が映っている。

 ――ぼくの想いが彼女に届いたらいいな。

 ぼくの大好きな笑顔が、花あかりの下で輝いていた。それだけで、ぼくは幸せだ。


「さよなら」

「さよなら、桜太」


 あの時言えなかった別れの言葉を、ぼくたちは告げ合った。

 ぼくは高く高く天へと昇る。

 ――彼女が幸せでありますように。

 そう、強く祈りながら。

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