除夜の鐘と絶縁の年賀状〜殺意を込めた絶縁状を投函したら、元旦に「感謝のメッセージ」が鳴り止まなくなった件について〜

いぬがみとうま

第1話

除夜の鐘と絶縁の年賀状



 大晦日の夜というものは、一年の澱がすべて部屋の隅に溜まっていくような、妙に息苦しい匂いがする。


 六畳のワンルーム。古ぼけた電気ストーブが、埃の焼けるカサついた音を立てていた。喉が痛くなるほど乾燥した空気。テーブルの上には、コンビニで買った年越しそばが置かれている。すでに麺はつゆを吸い込み、箸で持ち上げるとボトボトと情けなくちぎれた。


 吉岡健一、四十五歳。中堅広告代理店のしがない係長。

 彼は、伸びきったそばを無機質に咀嚼しながら、目の前の束を睨みつけていた。それは、つい数時間前まで「書かねばならない」と義務感に駆られて用意していた年賀状の束だった。


「……馬鹿馬鹿しい」


 健一は突然、腹の底からせり上がってきた吐き気に耐えきれず、ペンを叩きつけた。

 今年一年、自分は何をしていた? 

 無能な上司の尻拭いをし、手柄を奪われ、口臭の混じった説教を子守歌代わりに聞き流してきた。要領だけがいい部下には、陰で「老害予備軍」と揶揄された。田舎の母からは、月一度のペースで「体の具合が悪い」「いつ帰ってくる」という、重たい湿り気を帯びた電話がかかってくる。


 自分は善良だった。少なくとも、波風を立てないように生きてきた。だが、その結果がこれだ。孤独な部屋で、死んだ麺を食う大晦日。


「どいつもこいつも、俺を都合のいい駒だとしか思っていない。俺の本当の顔なんて、誰も見ていないんだ」


 健一の心の中で、どろりとした黒い感情が形を成した。それは『偽り』という名の選民意識であり、『善良』という仮面の下に隠した被害者意識だった。

 彼は年賀状の束を鷲掴みにすると、ゴミ箱に叩き込んだ。

 代わりに引き出しから取り出したのは、真っ白な便箋と、太い万年筆だ。


「最後くらい、本当のことを教えてやるよ」


 健一は、取り憑かれたようにペンを走らせた。それは年賀の挨拶ではない。一年の恨みを凝縮した「絶縁状」だ。

 

 まずは直属の高木部長へ。

『あんたの口臭はドブ川のようだ。その的外れな指示のせいで、どれだけの人間が泥をすすっているか自覚しろ。来年こそ、会社から消えてくれ』


 次に、若手のエース気取り、佐々木へ。

『お前の成功は全部運だ。若さと愛嬌を武器にするな。化けの皮が剥がれた時、お前に残るのは空っぽの無能さだけだ』


 そして、故郷の母へ。

『もう連絡してくるな。あんたの介護なんて絶対にごめんだ。俺の人生をこれ以上食いつぶさないでくれ』


 書き終えた時、健一の指先は震えていた。だが、胸のうちは驚くほど冷え切っていた。


 時計の針が重なり、遠くから除夜の鐘が聞こえ始めた。一〇八の煩悩を払う鐘の音が、今の彼には皮肉な嘲笑に聞こえた。




 冷たい風が、皮膚をナイフのように削り取る夜だった。

 健一はコートも羽織らず、三通の手紙を握りしめて外へ出た。深夜の住宅街は、死に絶えたように静かだ。


 コンビニへ向かういつもの曲がり角。普段なら見慣れたポストがあるはずの場所に、それはあった。

 街灯の届かない路地裏。雪を被ったような白さのなかで、そのポストだけが、血のような赤黒さを放っている。


 その横に、一人の男が立っていた。

 古びた外套に身を包み、山高帽を目深に被っている。顔は影になって見えないが、口元だけが、月明かりを反射して不自然なほど白く浮かび上がっていた。


「……こんな時間に、ご苦労様です」


 男の声は、古い蓄音機が回るような、ざらついた響きをしていた。

 健一は足を止めた。本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしている。しかし、酒の勢いと、先ほどまで書き殴っていた悪意が、彼の足を釘付けにした。


「あんたは、誰だ」

「私は、ただの郵便屋ですよ。ここは『本音』専用のポスト。建前や、美辞麗句で飾った偽物の挨拶は取り扱いません。ただ、腹の底にあるドス黒い、本物の本音だけを運びます」


 郵便屋の口角が、ニチャリと吊り上がった。それは、獲物を待ち構える怪物の笑みだった。


「お困りでしょう? 伝えたくても伝えられない、相手の心臓を抉るような言葉。私が責任を持って、相手に直接届けてあげましょう」


 健一は息を呑んだ。

 狂っている。だが、今の自分には、その狂気こそが救いに見えた。


「これを……頼む」


 健一は、震える手で三通の手紙を差し出した。

 郵便屋は、細長い指でそれを受け取ると、恭しく一礼した。


「承りました。確かに……お届けいたしますよ」


 郵便屋が手紙をポストに放り込む。その瞬間、ポストの投函口が生き物のように蠢き、「ゲプッ」と、何かを飲み下したような生々しい音を立てた。

 その音を聞いた瞬間、健一の頭からすべての熱が引いた。

 急激な疲労が襲いかかる。


「これで……終わった。全部、終わったんだ」


 健一は、逃げるようにその場を去った。背後で、郵便屋の忍び笑いがいつまでも響いているような気がした。





 翌朝、健一を揺り起こしたのは、枕元で執拗に鳴り響くスマートフォンの通知音だった。

 一月一日。カーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの乾燥した絶望をあざ笑うように明るい。

 健一は、昨夜の出来事を思い出し、血の気が引くのを感じた。


「……やってしまった」


 あの不気味な郵便屋。あれが現実だったのか、夢だったのかはわからない。だが、あの手紙に書いた内容は、社会的な死を意味する。高木部長への罵倒、部下への嫉妬、母への絶交宣言。


 もし本当に届いていたら。

 恐る恐るスマホを手に取る。通知の数は五十件を超えていた。

 

「罵倒か。あるいは、解雇通告か……」


 指が震える。覚悟を決めて、メッセージアプリを開いた。

 最初の一通は、高木部長からだった。


『吉岡くん、元旦から驚いたよ。君からあんな葉書ではない年賀状が届くなんて。……読みながら、涙が止まらなかった』


 健一は固まった。涙? 「恨み」を書いた手紙を読んで、涙?


『君の言う通りだ。私は自分の体調の悪さを仕事のストレスで誤魔化し、君たちに甘えていた。私の口臭、そんなに酷かったかな……それは内臓の病気のサインだったんだね。君は私の体の異変を、誰よりも近くで見てくれていたんだ。少し、休みを取ることにするよ。プロジェクトは君に任せる。君は、私の真の理解者だ。ありがとう』


「な……んだって?」


 混乱する頭で、次のメッセージを開く。部下の佐々木からだ。


『先輩、昨夜の手紙、何度も読み返しました。号泣です。僕が若さを武器にして、調子に乗っていたこと、全部お見通しだったんですね。僕の「成功」を、そんなに高い基準で評価してくれていたなんて……。未熟な僕を見捨てず、あえて厳しい言葉で「化けの皮を剥げ」と言ってくれる先輩に、一生ついていきます!』


 最後に、田舎の母。


『ケンちゃん、ありがとう。お母さんの体の心配ばかりして……。自分が介護をすると、無理をしないでいいのよ。自分の人生を一番に考えなさいという言葉、胸に沁みました。お母さん、元気で長生きするからね。明けましておめでとう』


 健一は、スマホを畳の上に落とした。

 目の前がチカチカする。脳が理解を拒否している。


 書き殴った罵詈雑言。憎悪。呪い。

 それらが、どうしてこんな「感謝」に変わるのか。皮肉なのか? いや、送られてきた言葉の端々からは、本気で心を打たれた者特有の熱量が伝わってくる。

 

「……あの郵便屋だ」


 健一は、着の身着のままで部屋を飛び出した。




 昨夜の路地裏。

 朝の光に照らされたそこには、赤いポストなど影も形もなかった。ただ、古ぼけた外套を羽織った男が、ガードレールに腰掛けて煙草を燻らせているだけだった。

 

「おい! あんた!」


 健一は男に詰め寄った。男はゆっくりと顔を上げた。影になっていた顔が露わになる。

 そこには、眼窩の深い、悲しげな眼差しを持つ老人がいた。


「おやおや。配達完了の報告は、もう届いたようですね」

「ふざけるな! 俺の手紙を書き換えたな!? あんな、あんな気持ちの悪い感謝の言葉が来るはずがない。俺はあいつらに、死ねと言ったんだ。消えろと言ったんだ!」


 郵便屋は、煙草の煙をゆっくりと吐き出した。


「いいえ。私は一文字も変えていませんよ。ただ、あなたの言葉を、ほんの少し『翻訳』しただけです」

「翻訳だと?」

「言葉というのは、不便な道具です。特に日本人は、感情をそのまま言葉にするのが下手だ」


 郵便屋は立ち上がり、健一の目を見つめた。


「いいですか。人間という生き物は、自分にとってどうでもいい相手、関心がない相手には、怒りすら湧かないものです。……あなたが上司の口臭を憎み、指示のミスに腹を立てたのは、あなたが彼の仕事を、彼という人間を、誰よりも『よく観察していた』からです。無関心なら、臭いすら気づきませんよ」


 健一は言葉を失った。


「部下の成功を妬んだのは、あなたが彼の実力を心の底で『認めていた』からです。才能を感じていたからこそ、脅威になった。そして母親の介護を拒絶したのは、あなたが彼女に『共依存したくない、お互いに一人の人間として自立して生きたい』と強く願っていたからだ。……悪意の根底には、常に執着という名の強い『関心』がある」


 郵便屋は、空中に見えない手紙を描くように手を動かした。


「このポストは、インクという名の『毒』をろ過して、その根底にある『純粋な執着』……すなわち、あなたの無意識下にある『愛』だけを抽出して届けるんです。あなたの罵倒は、翻訳されれば『私はあなたをこれほど見ています』という熱いメッセージになる。それは相手にとって、どんな美辞麗句よりも価値がある年賀状だったのですよ」


 健一の膝から力が抜けた。

 

「俺は……あいつらのことが、嫌いじゃなかったのか……?」


 脳裏に、高木部長と飲みに行った夜のことや、佐々木が入社したばかりの頃に仕事を教えた記憶が蘇る。母が作ってくれた、少し味の濃い煮物の匂い。


 それらを「煩わしい」と思っていたはずなのに。その煩わしさの正体は、自分が彼らと深く繋がっていたことの証左だったのだ。

 

 喉の奥が熱くなった。

 乾いた冬の空気のなかで、健一の目から温かい涙がこぼれ落ちた。

 それはかつて他者を拒絶する人間のものではない。自分自身が人間であることを、ようやく受け入れた者の涙だった。




「……さて、私はそろそろ行かなければなりません」


 郵便屋は山高帽を直した。


「切手代として、今年一年分の『肩の荷』を頂きましょうかね。あなたはもう、十分すぎるほど重い荷物を背負っていましたから」


 男の姿が、陽光に溶けるように薄れていく。

 健一は、誰もいない路地裏で一人、深く息を吐いた。

 

 いつの間にか、周囲の住宅からは生活の音が聞こえ始めていた。

 どこからか、出汁の香りが漂ってくる。鰹節と昆布、そして少しの醤油。新年を祝う、温かなお雑煮の匂いだ。


 健一はスマホを取り出し、連絡先の一番上にある名前をタップした。


 数回の呼び出し音の後。


「……もしもし、ケンちゃん?」

 少し震える、老いた声。


「あ、母さん。……俺だけど」

「お手紙ありがとう。嬉しくて、お父さんの仏壇にお供えしちゃったわ」

「……いや、別に用はないんだ。ただ、明けましておめでとうと言い忘れたと思って」


 自分の声が、驚くほど素直に響くのを感じた。

 

「……ああ、そうだ。母さん。今年の春、少し休みが取れそうなんだ。そしたら、一回帰るよ。お雑煮、食べたいからさ」


 電話の向こうで、母が言葉を詰まらせる気配がした。

 健一は歩き出した。

 冬の風はまだ冷たいが、もう肌を刺すような鋭さはなかった。

 新しい年が、今、静かに始まろうとしていた。

 

(完)


――

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