生活のハザード百科

アーレ

第1話白い煙の死神

始まりは、ほんの少しの親切心と、徹底的な「清潔」への執着だった。

​ 大学生の拓海(たくみ)は、一人暮らしを始めたばかりの友人、健二の部屋に遊びに来ていた。潔癖症気味の拓海にとって、健二の風呂場のタイルの隅にこびりついた黒カビは、どうしても見過ごせない「不純物」だった。

​「健二、これ貸りるぞ。このカビ、俺が真っ白にしてやるよ」

​ 拓海が手に取ったのは、強力なだ。ボトルには大きく「混ぜるな危険」の文字があるが、拓海はその恐ろしさを知識としては知っていても、実感を伴って理解してはいなかった。

​ シュッ、シュッ。

 スプレーされた泡がカビを包み込む。鼻を突く独特の刺激臭。だが、それだけでは汚れが落ちきらない。拓海は苛立ち、さらなる「洗浄力」を求めた。

​「拓海、もっと強力になるやつ買っておいたぞ! これも使ってみろよ」

​ 健二が手渡してきたのは、別のメーカーの「水垢落とし」だった。成分には「」の文字。

 拓海は深く考えず、塩素の泡が残る床に、その液体を勢いよくぶちまけた。

​ ――その瞬間だった。

​ ジュッ、という低い音と共に、風呂場の床から薄黄色い煙が立ち上った。

​「うわ、なんだこれ、すごい反応……」

​ 呑気な健二の言葉が、最後まで続くことはなかった。

 吸い込んだ瞬間、拓海の肺が内側から「焼ける」ような感覚に襲われたのだ。

​ ゴホッ、と短い咳が出た。それから、喉の奥を熱いコテで抉られるような激痛。呼吸をしようと空気を吸い込むたびに、酸素ではなく、鋭利な針が肺胞を突き刺していく。

​「逃げ……ろ……! 健二……ッ!」

​ 目からは涙が溢れ、視界が白く濁る。喉の粘膜が急激に腫れ上がり、空気の通り道が塞がっていくのが分かった。これが塩素ガス。第一次世界大戦で「毒ガス兵器」として使われた、あの悪魔の正体だ。

​ 拓海は壁を這い、力を失っていく健二の腕を掴んで、這うようにして脱衣所へ出た。狭い風呂場に充満した黄色い死神は、静かに、けれど確実に、獲物の肺を水浸しに変えていく。

​ もし、あと一分、あの場所に留まっていたら。

 拓海は震える手で窓を全開にし、換気扇を回した。

 真っ白にしたかったはずの風呂場には、ただ酸っぱい死の残り香だけが漂っていた。


​【第1話:防ぎ方と対策】

​1. 絶対に「混ぜない」

​塩素系(カビ取り剤・漂白剤)と酸性タイプ(水垢落とし・クエン酸・酢)を一緒に使うのは厳禁です。

​たとえ別々に使っても、前の洗剤が残っていると反応します。「今日はカビ取り、明日は水垢」と日を分けるのが安全です。

​2. 「お湯」で流さない

​塩素系洗剤に熱いお湯をかけると、成分が急激にガス化して立ち上りやすくなります。必ず水で洗い流してください。

​3. 違和感があれば「即・脱出」

​「変な臭いがする」「煙が出た」「目が痛い」と感じたら、その場をすぐに離れてください。

​「流さなきゃ」と無理に留まると、肺を深く傷めます。何もせず、まず自分と家族の避難を最優先してください。


⚠このお話はフィクションですが、紹介した化学反応は現実のものです。絶対に真似しないでください

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