『西急ホテルパートナーズ物語』

春風あくび

第0話 エピローグ

エピローグ


火は、思ったより静かだった。


本山菜七子は、自宅の庭に置いた金属の容器の中で、

その日着ていた服が、ゆっくりと色を失っていくのを見ていた。


煙は少なく、匂いだけが残った。

布が縮み、縫い目がほどけ、

それが「服」であったことすら、次第に分からなくなる。


なぜ燃やしているのか、

自分でもうまく説明できなかった。

ただ、そのままにしておけなかった。


あの面談室。

「社員から通報があった」という言葉。

具体的な名前も、日時も、事実確認もなく、

菜七子は“問題のある人間”として扱われた。


質問は許されなかった。

否定は「言い訳」として切り捨てられた。


最後に言われたのは、

「これが最後です」という一言だった。


炎が消えたあと、

容器の底には黒い塊だけが残った。


菜七子は、それを片付けることができなかった。


それから、時間が飛ぶ。


浜崎秋夫は、警察署の廊下に立っていた。


白い壁。

蛍光灯。

どこにでもある光景だった。


刑事の声は、感情を含まなかった。


「書類は、こちらです」


一拍置いて、

続けるように言われた。


「調書にサインを

書類送検になります」


浜崎は、何度か頷いたが、

実感はなかった。


なぜここにいるのか。

どこで話が変わったのか。

いつ、自分が“当事者”になったのか。


頭の中で、いくつもの場面が浮かんでは消えた。


あの日、菜七子からの相談。

会社からの呼び出し。

説明のない通告。

沈黙。

そして、さらに沈黙。


誰かが何かを決め、

それが事実のように扱われ、

気づけば、引き返せない場所まで来ていた。


刑事は、淡々と続けた。


「裁判になるかどうかは、これからです」


浜崎は、何も答えなかった。


この物語は、

一人の女性が服を燃やした夜から始まり、

一人の男が刑事手続きを受ける場所へと続いている。


だが、ここに至るまで、

誰かが明確に「悪意」を持っていたかどうかは、

まだ分からない。


分かっているのは、

通報という言葉が使われ、

確認されないまま判断が積み重なり、

誰も止めなかった、という事実だけだ。


舞台となった職場は、

四十代から五十代の人間が大半を占め、

その九割は女性従業員だ。

本社の社員は現場におらず、

業務はすべてアルバイトによって回されていた。


ホテルの客室清掃。

特別な場所ではない。

東京郊外の、二十人ほどの職場で起きた出来事だ。


そして、

まだ終わっていない。


少なくとも、

誰にとって、何が起きたのかは。

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