古事記恋歌〜猿田彦の章
たけのはら
第1話 猿田彦
世界は闇に包まれていた。
太陽神である天照大御神が天岩戸にお隠れになって以来、昼も夜もない暗黒が続いている。人々はなげき悲しみ、途方に暮れていた。
俺の居る秋津島でも混迷を極めている。作物は育たず、獣たちは狂い、人の心も荒んでいく。出雲では八岐の大蛇という怪異が暴れているとも聞く。天つ神たちも高天原で談合を重ね、対策を練っているというが、未だに良い献策はないまま、日々の生活は困窮するばかりだった。
そんなある日、高天原から使いの者が訪れた。宴会を催すので参列せよとの招待である。
俺の異形は美しい天つ神たちに嫌われている。だから普段、宴席に呼ばれることなど滅多にない。それが今回に限って招待とは——。こんな時に宴など開いている場合なのか。訝しく思いつつも、何か策があるのかもしれぬと、俺は高天原へと赴いた。
高天原の美しい宮殿。だが天照大御神が居ないだけで、その荘厳な佇まいにさえ深い陰りが差している。かつての輝きは失われ、静寂が支配していた。俺は暗い回廊を歩きながら、神々の世界でさえこれほどまでに光を失うものかと、改めて事の重大さを噛みしめた。
宴席は、天照大御神が籠っておられる天岩戸の前に設えられていた。
まず腕自慢の男神たちが現れ、土俵で相撲を取り始めた。力と力がぶつかり合い、大地が揺れる。次に芸達者な神々が自慢の芸を披露する。暗闇の中でも、酒が振る舞われ、神々の気持ちは次第に高揚していった。笑い声が響き、拍手が沸き起こる。だがそれは、どこか無理に作り出された賑やかさのようにも感じられた。
そして——最後に現れたのは、一人の美しい女神だった。
天宇受売命。
神楽の調べが響き始めると、彼女はゆっくりと舞い始めた。くるり、くるりと回るたびに、その衣装がはだけていく。神々の視線が一斉に彼女に集中した。闇の中で松明の明かりだけがその姿を美しく際立たせる。熱狂が、波のように広がっていく。酒の勢いも手伝い酩酊感がその場を支配する。笑いと歓声が、闇を震わせた。
だが俺の目は、彼女の顔に釘付けになっていた。
口元は微笑んでいる。けれどもその瞳には、強い決意が宿っていた。恥じらいではなく、覚悟。自らの全てを賭けて、この世界に光を取り戻そうとする——そんな揺るぎない意志が、その眼差しに込められていた。
俺の心は、鷲掴みにされた。
心臓が高鳴る。周囲の熱狂とは違う、何か神聖なものを感じていた。彼女は、ただ踊っているのではない。この宴の全てが、綿密に計算された計略だと、俺は直感した。
そして——その瞬間が訪れた。
天岩戸から、細いがしっかりとした一筋の光が漏れ出た。
天照大御神が、外の様子を窺っておられるのだ。
刹那、先ほどまで相撲を取っていた天手力男神が、渾身の力で天岩戸を引き開けた。轟音とともに、眩い光が世界を満たす。天照大御神は驚きの表情を浮かべながら、外へと引き出された。
光が、戻ってきた。
神々は歓喜の声を上げ、抱き合い、喜び合った。世界が再び輝きを取り戻した瞬間だった。
その喧騒の中、天宇受売命は一人、満足げにほほ笑みながらその場を去ろうとしていた。
俺は、彼女の後ろ姿から目を離すことができなかった。
彼女こそが、この奇跡を成し遂げた真の立役者だ。その誇り高い背中を、俺はただ見送ることしかできなかった。
闇の中で松明の明かりに照らされ美しく舞っていた、その姿を二度と忘れる事はないだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます