【第二十章:頂点捕食者と月下の幽霊】
――偽装都市・第四区画裏路地(豪雨)――
「はぁ……はぁ……」
肺が焼けるように熱い。
俺たちは満身創痍の体を引きずり、汚水とゴミにまみれた暗い路地をよろめきながら進んだ。
背後の悪夢は遠ざかっていくが、無数の電子眼に見つめられていたあの恐怖は、まだ棘のように背筋に刺さったままだ。
「こっちだ……早く入れ……」
蜂鳥が半開きになっていた防火扉を蹴り開け、俺たちは溺れた犬のように廃墟と化した地下搬入口へと転がり込んだ。
そこは湿ったカビの臭いと、ネズミの鳴き声で満ちていた。
「車、全損。通信機もジャミングされてる」
蚊が床にへたり込んだ。いつもは元気いっぱいのピンク色の髪が、今は雨と油でぺちゃんこに潰れている。彼女は顔を拭い、これまでにない迷いを含んだ声で言った。
「隊長……私たち、これからどこへ行けばいいの? 前のアジトには戻れないし、この街はもう完全に狂ってるよ」
蜂鳥は答えなかった。
彼女は壁に寄りかかり、マガジンをチェックしていた。空だ。
もう一つも。やはり空だ。
常に冷静な指揮官の瞳に、一瞬だけ途方に暮れた色が走った。
俺たちには帰る場所がない。
鋼鉄に覆われたこの焦土の上で、俺たちは巣を突かれた蟻のようだ。ただ逃げることしかできず、行き止まりがどこにあるのかさえ知らない。
「……汚らわしい」
その死寂に満ちた絶望の中で、唐突に声が響いた。
冷たく、嫌悪に満ち、空気そのものを消毒したがっているような鋭い声だ。
「誰だ!?」
カァン――!
答えの代わりに、墨緑色の流光が走った。
天井から俺たちを奇襲しようとしていた機械蟲が、空中で正確に四分割されたのだ。
切断面は鏡のように滑らかで、中のオイルが噴き出す暇さえなかった。
影の中から、すらりとした人影が歩み出た。
体に密着した黒いコンバットスーツを纏っている。
最も目を引くのは、その腰まで届く長髪だ。
黒髪の中に、極めて鮮烈なブライト・グリーンのメッシュが入っている。彼女の動きに合わせて髪が鋭い弧を描き、まるで手に持った二本の滴る長刀の延長のようだ。
「『
コードネーム『蟷螂』と呼ばれた女性は、仲間の歓迎を無視した。
彼女は眉をひそめ、自分のブーツにほんの少しだけ付着した泥を見下ろし、まるで汚物を踏んでしまったかのような顔をした。
「蚊、あんたの呼吸音はうるさいのよ。それに……」
彼女はその鋭利な瞳を上げ、この薄汚い地下室を一瞥し、最後に泥だらけの俺に視線を止め、隠そうともしない嫌悪感を露わにした。
「これが拾ってきた『荷物』? 随分と雑菌を溜め込んでそうね」
「文句を言うな、蟷螂」
蜂鳥が安堵の息を吐き、体を少しリラックスさせた。「外の状況は?」
「掃除済みよ。この周辺の監視カメラ三十五基、それと野良犬(パトロール・ドッグ)十二匹」
蟷螂が双刀を一振りすると、刃の上の蛍光グリーンのラインが闇に残像を描いた。彼女はポケットからハンカチを取り出し、執拗なまでに柄の上の存在しない埃を拭き始めた。
「でも、いつまで持つかは保証しないわ。ここは汚すぎるもの、色々な意味でね」
「……ん?」
ふわりとした、幻聴のような声が頭上から降ってきた。
俺はネフヤの虚ろだった目が、急に見開かれるのを見た。
彼女は顔を上げ、入り口の方を見つめている。
「……星が……落ちてきた」
その柔らかな言葉と共に。
空気中に薄紫色の波紋のような光の糸が広がった。
無数の微小な、光を放つ塵がゆっくりと集束し、一人の小柄な少女の姿を形作った。
薄暗い倉庫の中へ、ゆっくりと歩いてくる。体格はネフヤより少し大きい程度だ。
ホログラム投影機能を備えた、月光のような白いポンチョを被っている。それが気流に乗って揺れる様は、まるで発光する巨大な蛾の羽のようだ。
顔色は透明に近いほど白く、長い銀の睫毛の下には、四六時中夢を見ているかのような瞳があった。
コードネーム『
蜂鳥分隊の電子幽霊(サイバー・ゴースト)。
彼女は地面の汚水に触れたくないのか、わずかに浮遊しているようにも見える。周囲には四つの小さな鉄の粒が浮遊し、微かな駆動音を立てていた。
「……周りの信号……ぜんぶ、私が食べたよぉ……」
飛蛾の声は軽く、途切れ途切れで、受信状態の悪いラジオのようだ。
「……壊れた人たち……しばらく……ここには来ない……」
彼女はふわりとネフヤの目の前まで漂ってきた。
二人――地底から来た魔族と、地上の電子ハッカー。
大と小、銀と白。
彼女たちは互いに見つめ合った。
「……あなたの波長……変なの……」
飛蛾は青白い指を伸ばし、ネフヤの角に触れようとして、空中で止めた。小首をかしげる。
「……コード(符号)みたいで……泣き声みたいで……」
ネフヤは首を縮めて俺の懐に隠れたが、その
「よし、そこまでだ」
蜂鳥がその奇妙な空気を断ち切った。
全員揃った。
近接の蚊、遠距離の蜻蛉、潔癖の蟷螂、そして電波系ハッカーの飛蛾。加えて地底から来た異分子が二名。
「蟷螂、飛蛾はどうやってここまで来た? 足はあるのか?」蜂鳥が尋ねた。
「あそこ」
蟷螂が顎で背後の切断されたシャッターを指した。
「産廃運搬用のトラックを奪ったわ。死ぬほど臭いけど、走ることは走る」
蜂鳥は迷わず指示を下した。
「どこでもいい。このクソったれな区画から離れるぞ」
俺たちはその化学薬品の悪臭を放つトラックに乗り込んだ。
ナビはない。
目的地もない。
豪雨の夜闇の中、このボロ車は
前方に何があるのか、誰も知らない。
より恐ろしい放射能汚染区域か、旧時代の墓場か。
だが少なくとも今、俺たちはまだ生きている。
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