第3話 母がいない家は、少し広い

家に帰ると、電気がついていなかった。

「ただいま」


 そう自然に言ってしまう自分に苦笑する。分かっている。

 母は、今日も病院だ。父は……今は、ここにはいない。


 玄関で靴を脱いで、静かな廊下を歩く。

 台所に入っても、鍋もフライパンも、冷えたままだ。


 少し前までは、当たり前に母の背中があった場所。


 今は、何もない。


 夏希は、制服のまま椅子に座った。目を瞑り、少し前の自分を振り返る。


 夕飯を作らないといけないのは分かっている。

 でも、どうしても体が動かない日があった。


 冷蔵庫を開けても、作り置きなんてほとんどない。

 陸上部で遅くなると、余計に億劫になる。そんな毎日で心が折れそうだった。


 ――明日も、ちゃんと学校に行こう。

 今そう思えるようになったのは、ある場所が頭に浮かんだからだ。



「前田、親の事は先生知ってるからな。何かあったら言ってくれ」

 先生はそう言ってくれたけれど、その優しさを受け取る余裕すら、当時の私にはなかった。


「親の事、言いたくないのは分かるけど、助けてくれる友達も必要だろう?クラスに知ってる友達はいないのか?」

 先生が本当に心配してくれてるのが伝わってくる。でも、私は本当は先生にだって言いたくはなかった。私が頑張ればそれでなんとかなるって思ってたから。だから、私の事情を知ってる人なんて……



「……脇阪くんなら、知ってると思います」

「脇阪?前田は脇阪と仲良かったか?」

 先生が不思議そうな顔をしている。それもそうだろう。私と彼は高校では殆ど話した事もない。



「えっと、家が近所で、親が仲良かったので……」

「あー!なるほど!、確かに住所は近かったかもなぁ」

 私の返答に納得し、少し思案した後、先生が「なら丁度良いじゃないか」と言いながら私の手を引く。何処に向かうのか、と聞くまでもなくその場所に着いてしまった。……まさか!


「先生!待っ」

「脇阪、こいつに飯食わせてやれ」

 怪訝な顔をする脇阪くん。でもそれ以上は何も言わず、彼は黙々と料理を始める。強引な先生の行動一つで、私と彼の奇妙な関係が始まった。



 まだたった2日しか経ってないからか、鮮明に思い出せる。

 家庭科室。幼馴染、脇阪悠斗のいる場所。


 彼は、あまり喋らない。


 でも、黙って温かいご飯を出してくれる。

 それだけで、少しだけ、安心できた。


 水炊きの湯気を思い出す。

 同じ鍋をつつく距離。


 向かいで、静かに鍋を見ている横顔。

 ――あれは、少し近すぎる。


 分かっているのに、行くのをやめられなかった。


 朝目を覚ましたら、夏希は制服に着替え、ジャージを羽織る。

 家を出る前、誰もいない台所を一度だけ振り返った。

「……行ってきます」

 返事はない。


 でも、あの家庭科室には、いる。

 あまり喋らない幼馴染と、温かい料理。



 それが今の夏希にとって、


 この家よりも「帰る場所」になりつつあった。

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