記憶が壊れた理由は、優しかった
@TK83473206
第1話 「お兄様」
インターホンを押してから、ドアが開くまでの時間が、やけに長く感じられた。
一人暮らしを始めた妹の部屋を訪ねるのは、これが初めてだ。大学もバイトも忙しく、連絡は最低限。兄妹としては、まあ、よくある距離感だと思っていた。
鍵の音がして、ドアが開く。
「……お帰りなさいませ」
一瞬、聞き間違いかと思った。
玄関に立っていたのは、確かに妹だった。見慣れた顔。少し伸びた髪。変わっていないはずなのに、どこか落ち着きすぎている。
「お兄様」
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
「……え?」
妹は不思議そうに首をかしげた。
まるで、こちらが変なことを言ったかのように。
「どうしましたか?」
「いや……どうした、っていうか……その呼び方」
俺は笑ってごまかそうとした。
冗談だろう。何かのノリか、変な動画でも見た影響か。
「兄ちゃん、でいいだろ」
妹は少し考えるような間を置いてから、穏やかに言った。
「……前から、こう呼んでいましたよ?」
断定でも主張でもない。
事実を確認するような声だった。
喉が、軽く詰まる。
「いや、呼んでない。少なくとも最近は――」
「最近?」
その言葉に、妹はわずかに目を伏せた。
「お兄様、立ったままだと疲れます。どうぞ」
話題を切り替えるように、スリッパを差し出される。
ごく普通の、来客用の動作。なのに、手に持たれた札が目に入った。
――「お兄様用」。
紙切れ一枚のはずなのに、視線がそこから離れなかった。
「……これ、用意してたのか」
「はい」
迷いのない返事。
「前から、置いてあります」
前から。
その言葉が、胸の中でゆっくり沈んでいく。
部屋に上がる。
ワンルームにしては、妙に生活感がある。物が多いわけじゃない。むしろ整っている。整いすぎている、と言った方が近い。
テーブルの上には、マグカップが二つ。
シンクの横にも、歯ブラシが二本。
「……来客、よくあるのか?」
「いいえ」
即答だった。
「じゃあ、この二つは」
俺が歯ブラシを指すと、妹は一瞬だけ間を置いた。
「お兄様の分です」
当たり前のことを言うように。
「……俺、ここに泊まったことあったっけ」
「ありますよ」
やはり、即答。
思い出せない。
酔っていた記憶も、うたた寝した記憶もない。
「いつ?」
「いつも、です」
心臓が、少しだけ早く打った。
冗談だと決めつければ楽なのに、妹の表情がそれを許さない。からかう気配が一切ない。
むしろ、こちらを気遣うような目をしている。
「……最近、変な夢でも見てないか?」
「いいえ」
「ストレスとか」
「お兄様の方が、顔色が良くないです」
そう言って、冷蔵庫を開ける。
「お茶、飲みますか?」
「あ、ああ」
取り出された急須は、すでに温かかった。
まるで、来ることが分かっていたみたいに。
「……連絡、今日の朝だぞ」
「はい」
「なのに、準備が良すぎじゃないか?」
「前から、こうですから」
その言葉が、部屋の空気を固定する。
俺は、無意識に壁に貼られたカレンダーを見た。
そこには、今日の日付に小さく丸が付いている。
「これ……」
「お兄様が来る日です」
ペンの色は、他の日と同じ。
特別に強調されているわけじゃない。
ただ、当然の予定として、そこにあった。
「……俺が?」
「はい」
妹は、湯のみを差し出しながら、少しだけ声を落とした。
「お兄様、忘れていることがあるだけです」
忘れている。
その言い方が、妙に具体的だった。
「大丈夫です」
そう言って、妹は微笑んだ。
「前も、そうでしたから」
何が。
いつ。
問い返そうとした瞬間、頭の奥に軽い違和感が走る。
言葉を探そうとすると、するりと抜け落ちる感じ。
「……ああ」
気づけば、俺はそう返事をしていた。
湯のみを受け取り、口をつける。
味は、覚えのある濃さだった。
「落ち着きますね」
妹の声が、すぐ近くで聞こえる。
「今日は、ここにいますか?」
選択肢は提示されない。
問いかけの形をしているだけで、答えは決まっているようだった。
断る理由を探そうとして、何も浮かばない。
疲れている。
帰るのが面倒だ。
それに――この空間は、妙に楽だった。
「……そうするか」
そう答えた瞬間、妹の肩から力が抜けるのが分かった。
「よかった」
心からの安堵。
それが一番、怖かった。
俺はふと、ここに来る前の自分が何を考えていたのかを思い出そうとした。
けれど、玄関の外の記憶が、薄い膜越しのように遠い。
「お兄様」
妹が呼ぶ。
「無理しなくていいです」
その言葉に、反射的にうなずいてしまう。
――そうだ。
無理しなくていい。
考えなくていい。
決めなくていい。
胸の奥で、何かが静かに整っていく感覚があった。
記憶が壊れた理由は、優しかった @TK83473206 @kouki1026
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