あのとき、言わなかったこと

@MostGdanski2

第1話 椅子の数

山田花子が静岡市立碧南高浜中学校に来たのは、六月の終わりだった。


二年生、美術。

短大二年、二種免許。

教育実習は二週間だけ。


職員玄関で上履きに履き替え、廊下を歩くと、ワックスの匂いがまだ少し残っている。


「山田先生、今日はよろしく」


そう声をかけてきたのは、指導教員の佐藤健一だった。四十代前半、二年二組の担任でもある。


「はい、よろしくお願いします」


声は出た。自分でも少し意外だった。


小学六年のとき、同級生の一人に、からかわれたことがある。


机を叩くほどでもなく、誰かを呼び集めるほどでもなく、

ただ、花子が何か言おうとすると、先に言葉を被せてくる。


「お前、声ちっさ」


それだけだった。


でも、その日を境に、学校で声が出なくなった。


家では普通に喋れた。だから親は気づかなかった。


気づいたあとも、「もっと話しかけなさい」と言った。


花子はうなずくだけだった。


初日、給食は担任の佐藤と一緒に教室に入った。


二年二組の教室は、四人島がきれいに並んでいる。


「この先生、今日から美術で来てくれる山田先生です」


佐藤がそう言うと、数人が「よろしくお願いします」と言った。


花子は、一番端の島に、佐藤に促されるまま座った。


心臓は速かったが、息は乱れていなかった。

何事もなく、給食は終わった。


二日目。


佐藤は「今日は職員室で食べるから」と言った。


花子は一人で教室に行った。


「山田先生!」


先に気づいたのは、前から二列目の島にいる女子だった。


「こっち来ていいよ」


名前は、美咲。クラスでもよく喋る子だ。


一席だけ空いていた。ずっと不登校の生徒の席だった。


そこに座る。


誰も何も言わなかった。


その夜、帰宅してから、妙に疲れていることに気づいた。


失敗はしていない。でも、力は使っていた。


三日目。


佐藤は作業の都合で、給食に少し遅れると言った。


花子は先に教室に入った。


配膳係の動きを見ながら、「ありがとう」「重そうだね」と、

短い言葉を選んで声をかける。


立ったまま、机と机の間をゆっくり歩く。


高校の頃も、そうだった。


発表はできた。休み時間は、できなかった。


「できる」と「平気」は、同じではない。


しばらくして、自然に島の一角が空いた。


座る。


今日も、立たずに済んだ。


四日目。


給食の直前、一人の生徒が教室に入ってきた。


入学式の日に一度だけ登校し、それきり来ていなかった生徒だった。


空いていた席は、なくなった。


佐藤はいない。

校長室で、校長の中村、教頭の高橋、学年主任の井上と会議だと聞いている。


教室の後ろには、いつも立てかけてあるパイプ椅子が一脚。


担任用の大きな机は空いている。椅子も、ちゃんとある。


でも、「使っていい」とは、誰も言っていない。


ロッカー。

配膳台。


立つ場所はある。


そのとき、美咲が言った。


「ねえ、山田先生」


振り返る。


「今日、佐藤先生来ないんでしょ?

だったらさ、あの机、使っちゃえばいいじゃん」


担任用の机を指す。


一瞬、花子は言葉を探す。


「大丈夫だって。来たら私が説明するし」


隣の席の女子が笑う。


「ね、メグちゃん」


メグと呼ばれた女子は、少し照れてうなずいた。


美咲は続けた。


「それにさ、私、あのパイプ椅子で先生の机で給食食べるの、

一回やってみたかったんだよね」


理由は、それだけだった。


花子は、担任用の椅子に腰を下ろした。


美咲は教室の最後部からパイプ椅子を引きずってきて、

「これ、私ね」と言いながら、机の反対側に置いた。



メグは一瞬だけ、動きが止まる。


視線は、机と、花子と、美咲の椅子。


それから、決めたように、椅子を持ち上げた。


持ち上げる動作は、静かだった。


音を立てないように。


担任用の机の脇に、そっと寄せる。


花子は、うなずく代わりに、視線を戻す。


許可の言葉は、要らない。


メグは、小さく息を吐いてから、座った。



担担任用の机は、三人分には少し大きい。


でも、余りすぎるほどでもない。


机は少し高かったが、三人とも、立ってはいなかった。


箸の音が、重なる。


一拍ずれて、また重なる。


誰も、急がない。


美咲が、先に話す。


「今日のスープ、当たりじゃない?」


美咲がそう言って、先にスプーンを入れた。

勢いがあるのに、声は大きすぎなかった。

誰かに聞かせるためというより、ここにいる三人に向けた声だった。


「うん……いつもより、コーン多い気がする」


メグがそう返して、少しだけ身を乗り出す。

パイプ椅子と教卓の脚が、軽く触れて、音を立てた。


花子は、二人のやりとりを聞きながら、自分の手元に視線を落とした。


スプーンを持つ指は、震えてはいない。

でも、力は入っている。

自分で思っているより、深く。


——しゃべれている。

——座れている。

——逃げていない。


頭の中で、そんな確認が順番に浮かんで、それをひとつずつ、消していく。


確認しなくてもいい時間に、今は、なっている。


「山田先生さ、美術の授業のとき、手、きれいだよね」


唐突に、美咲が言った。


花子は、一瞬だけ固まった。

反射的に、手を机の下に引きそうになって、それを、思いとどまる。


「……そう?」


「うん。なんか、ちゃんと使ってる手って感じ」


どういう意味かは、分からなかった。

でも、突っ込まれなかった。

理由も、説明も、求められなかった。


それだけで、胸の奥が、少しだけ緩む。



しばらくして。メグが、箸を止めた。


一度、持ち直すように、指を組む。


それから、ぽつりと。


「先生さ」


声は、小さい。


でも、消えない。


「無理に話そうとしないから、楽」


言い終わったあと、メグは、自分でも少しだけ驚いたように、

視線を下げた。


花子は、一瞬、動きを止めた。


箸が、宙で止まる。


胸の奥で、何かがほどける音がした。

「……そっか」


それだけ、言った。


言えた。


それで、十分だった。


三人の間に、沈黙が戻る。


でもそれは、さっきまでとは違う。


数を数えなくていい、沈黙だった。


給食は、何事もなく終わった。


注意も、評価も、誰からもなかった。


ただ、椅子の数が足りなかっただけの日。


その日の帰り、花子は手を洗いながら、自分の指先を見た。


青くは、なっていなかった。


まだ、何も始めていない。

それでいいと思えた。

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