薄紅のひとひら
ことのは
薄紅のひとひら
土手沿いの道を歩きながら視線を向けると、緩やかな斜面には草が生い茂っており、そのまま川辺まで続いていた。
風が運んできた草の匂いがほのかに漂った。
学校に到着し正門をくぐった所に、大きな桜の木があった。
桜の木の前で立ち止まり、大きな薄紅色の傘を見上げた。
花びらが一つ、また一つと舞っている。
それが空に描いた一枚の絵のように見えた。
舞い上がった淡い薄紅色のひとひらが、俺が広げていた手のひらに舞い降りた。
その時、俺の手のひらに、小さなもう一つの手のひらが重なったような気がした。
「・・・綺麗。とっても」
その小さな手の主は、透き通るような声でそう言っていた。
あれはいつのことだろう。
それすら思い出せないくらい遠い記憶。
記憶と呼んでいいのかすら分からないし、
果たして俺の人生の記憶なのかどうかも-
俺の隣にはその小さな手をして、透き通るような声を持った誰かが立っていて、
こんな風に桜を見上げていたことがあった。
漆黒の艶めいた髪に、ひとひらの薄紅が舞い降りて簪のように見えた。
俺がその簪をそっと取って、その小さな手のひらに乗せた時、
「・・・綺麗。とっても」
透き通るような声でそう言っていたのだ。
断片的にしか想い出せない記憶。
だがそれは俺にとって、忘れてはならない記憶の筈。
そしてその記憶の中の誰かに逢うために、ここにこうして立っているのだと思った。
その遠い想い出の中の俺は、
二人でいられることに幸せを感じ、
安らぎを感じ、
この時間が永遠であるように願っていた。
そして隣にいた声の主を愛おしく大切に思い、
唯一の宝物のようにしていた。
そんな二人が、その後どうなったのか。
俺にはその記憶がまだはっきりと想い出せない。
おぼろげに想い出すのは小さな輪郭と、淡く優しい光だった。
不意に風が吹き、薄紅色の花びらが更に舞った。
その花びらを目で追うように、空を見上げる。
花びらと、
大きな薄紅色の傘と、
その隙間から零れ落ちる光が輝いて見えた。
それは光の瞬きみたいに、キラキラと揺れていた。
それがまた、俺の心を揺らした。
あの草の香りも、
川原を通る風も、
桜の花びらも、
光の瞬きも-
その全てが思い出してと言っているように感じた。
今日はどうしてこんなにも、分かりそうで分からないことを考えてしまうのか。
それはきっと、もうすぐその答えが出るからなんだろうとただ漠然と思った。
担任の後を歩いて、教室の前に着いた。
教室のドアを開けると、興味深げに俺を見る幾つもの視線がそこにあった。
壇上に上がると、担任が俺を紹介してくれた。
「よろしくお願いします」
クラスメイトに向かって礼をし、顔を上げた。
その瞬間、気づいた。
俺がここに立っている理由も。
目の前に儚く、淡い光を纏った君がいた。
俺が忘れていたものが何なのか、その時ようやく気づいた。
思い出した途端、どうして忘れていたのかと思う程の君との記憶が溢れ出していた。
君は俺を見ても、何も気づいていないようだった。
ようやく逢えたのにそれが少し悔しくて、でも気づかない方が君には幸せなのかと思ったりもした。
再び巡り逢えた君に、俺がしてあげられることは何だろう。
それを頭の中でずっと考えていた。
君を傷つけないために
君を泣かせないために
君を守る為に
俺に出来ることは何だろう
君を忘れることが
君にとっての幸せならば
俺にはそれが出来るだろうか
正直とても出来そうにない
忘れられないのは
俺一人でいい
桜がひとひら
また手のひらの上に舞い降りた
あとがき
この短編は、拙作『花霞の頃、君がそこにいた』の世界観をもとにした番外編として書きました。
本編を知らなくても読めるように、ひとつの物語として独立した形にしています。
桜の季節にだけ揺れる記憶や、言葉にならない想いの断片を、短い物語の中にそっと閉じ込めました。
少しでも何か感じていただけたなら、とても嬉しいです。
薄紅のひとひら ことのは @kotonoha1118
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