天巧途

柚草

第一章 戲姤山

  名も知らぬ小さな野鳥が頭上を通り過ぎて行った。冷たく湿った空気に撫でられながら、時間をかけて瞬きし、視線を東に滑らせる。壮大に広がる雲海から顔を出す連峰を真似るように、朝日が顔を出し始めていた。

「寒……」

 早朝の山の冷えた空気に身震いさせ、肩に掛けただけの外衣に袖を通しながら大きな欠伸をした。

 碧和へきわ戲姤山ぎこうざんに足を踏み入れてから日の出を目にするのも、もう三度目だ。一昨日から長く雨に打たれ、気温は高く、じっとりとした空気の中で過ごすには些か不便であったが、今や葉に多くの露を付けるだけで、外を見ぬうちに雨はすっかり上がっていた。

 ざっ、ざっ、と地面を擦りながら目的も無くぼやけた頭で歩いていると、背後から自身が地面を擦る音とは別の音が近付いてきた。背を向けたまま首だけを捻り、肩越しにその気配を確かめると、男が爽やかに微笑んでいた。

「おはようございます」

 下ろし立てと見間違えるほど綺麗な紺色の道袍を正し、ぴんと伸びた背筋が日出にっしゅつから清々しい様を見せている。丸い頭が太陽のようなこの男は、戲姤山に建つ廟の廟公びょうこうだ。

 身綺麗で健康的な廟公は、その佇まいから若々しさを感じる。然し初対面時に自分よりも三回りも歳が上であることを明かされた時には、この山の元で一体どのような生活を送っているのかと、碧和は思わず眉間に皺を寄せて彼を見てしまい、ころころと優雅に笑われた。そんな廟公が代理で管理する廟の直ぐ側に彼の住居が在り、この三日間、宿として休息の場を設けてくれていたのである。

「おはよう、ございます……」

 確りと意識を保つ廟公に反し、眠気に抗いながら碧和はおぼろげに朝の挨拶を返した。続けてまた欠伸が出た。

 若く未熟な青年の姿に、廟公は思わず先程とは違った温かさを持つ笑みを零しながら、碧和の方へと足を進めた。

「よく眠れ……」

 よく眠れたか、と、問おうとしたが廟公は口を噤み歩みを止めた。

 眠そうに瞼を押さえる碧和の手元に意識を傾けると、初日には無かった薄い隈が浮いていた。

 碧和がこの三夜、なかなか眠る事が出来ずに夜中にそっと外へ出ては山を眺める姿を廟公は目にしていた。そんな彼の顔には日に日に疲労感が現れ、日中の溜息は数を増し、四日目になった今朝には僅かに窶れた気さえした。

 山慣れしていると見える者でも、山が変われば話が別なのかもしれない。眠れぬ夜もあるのだろう。

 廟公は柳の如く細く長い眉を垂らし、微睡む意識に抗う若き青年に再び微笑みを零した。

 そんな事を気にするでもなく遠くの山々を見ながら碧和は腕を上げ、背を反らして身体を大きく伸ばした。もっとも、廟公は心配の念を送るばかりであったが、碧和にとっては些かむず痒い気遣いだった。

 碧和の生活習慣には少々難点が見い出せるもので、外に出れば数夜を全く寝ずに過ごす事は珍しくは無かった。基本形態としてそのような生活を送っている為か、住居へ帰れば同じ屋根の下で暮らす者が戸の鍵を固く閉めてまで寝室に籠り、一人息を忘れたように眠る事が常であった。からして、寝不足である事を特に大きな問題として感じていなかった。

 今日こんにちの風は弱く、草木を撫でるだけであり、更に眠気に襲われそうだった。碧和は身体を伸ばし終え、再び廟公へ目を向けると、彼は距離を置いて留まり、心配そうにしていた。その姿に要らぬ心配をさせてしまったと、何度も欠伸をした事実に思わず口元に手を当てるが、それも首を右に傾け更に口元を緩ませて眉を垂らしながら微笑されてしまった。

「あ……その、気になさらないで下さい。全く寝ていない訳では無いのですから」

「ですが……」

「大丈夫ですから……」

 慌てて弁解するが心配の念を消せはしないだろう。僅かな時間の中で感じた廟公の心優しく慈悲深い人柄では、本当に要らぬ心配ばかり掛けてしまう。碧和の口元が言葉を探しながら小さく開閉を繰り返した。睫毛が微かに伏せられ、所在なげに瞳が揺れる。眠気は吹き飛んでいたようだった。

「……朝餉の準備をしましょうか。簡単なものになってしまいますが貴方の待人が来るまでに召し上がる時間くらいは取れるかと」

「え、あ、いや、すぐ下りますから」

「これから山を下る者が食事を抜いてはいけませんよ?」

 さぁ、と住居の方へ手で動線を描き、軽く腰を曲げられては断るにも断れなかった。

「本当に……申し訳ないです」

「いえ、食事は一人より二人の方が美味しく頂けますし」

 日が登るのは早いもので、会話を交わしているうちにすっかり太陽が雲の上に身を出していた。

 にこりと笑う廟公に申し訳なさを含みながら笑みを返し、その背を追い掛けた。


***


 朝餉を済ませた碧和は荷物をまとめ終え、廟の前で人を待っていた。

 季節は霜降そうこうを迎え、広くて平らな葉をつける木樹はその身を紅に染め上げて居る頃だったが、目に映る山々の木の多くは耳にしていた通り、何処どこ彼処かしこも葉を青くし続ける木ばかりであった。

此処ここの山は……ずっと青いんですか?」

「そうですね。私は随分と長らく袁克圚峡えんかかいきょうに身を置き、現在ではこの戲姤山ぎこうざんで生活していますが、何年も変わらず青く美しいままです」

 相も変わらず優しく撫でる声で廟公が答えた。

 袁克圚峡えんかかいきょう──梗勾道こうくどうの北西部に位置し、標高の高い山々が連なる大山岳地帯の谷あいである。東西南北を見渡せば絵に描いた様な青々とした山々が優美で秀麗だと、景勝地としても知られ、観光に足を運ぶ者も少なからず居た。そんな山の中でも極めて標高の高い『戲姤山ぎこうざん』という山がある。袁克圚峡の西部に屹立し、雲を突き抜けるように高く伸びた三つの峰から構成された、四季を通して緑豊かな山だ。

「山水画をご覧になったことは?」

 廟公の問いに碧和は黙ってこくりと頷いた。

「山水画を描く多くの画工は、この袁克圚峡の中でも戲姤山をことに気に入り、記憶の奥底に焼き付けて筆に込めるのだと言います。私も幾つもの山水画を鑑賞して参りましたが、本物はその何れにも勝る幽玄さです。人はよく、『絵からそのまま切り取り貼り付けられたようだ』などと申しますが、とても及ばない。到底現すことの出来ない唯一無二の世界だと感じております」

 多くは創造で描かれる山水画は、実際の山々を模しつつも独自の思想で描き上げ、現実に存在しない絶景が人々を虜にして止まないものである。だが、廟公の言葉通りこの袁克圚峡から見れるものは正にそのまま画を地に下ろした佳景であった。

 碧和は無言のまま、その果てしなく続く稜線を心に書き留めていた。鳥が囀り、風が彼の長く膝元まで伸びる襟足を靡かせた。朝餉を終えたらまたしても眠たくなってしまったのか、睡眠不足が伺える目元に何度も手を当てたり擦ったりしながらも、ずっと山を見続けた。

 黙って山を眺めながら人を待つ碧和の背を見ていると、何だかその若き青年の立ち姿と幽玄な山々が一つの風流な画を成しており、自身が画工であったならばこれを描かなければ気が済まなかっただろうと廟公は思った。思ってしまうと、別れ際になって初めてこの青年の事を、其処そこらの市で買い物をしている若人と一緒だとは思えなくなった。何だか自身と生きる世界が違う気さえし始めて、廟公は音を立たさぬようそっと一方ずつ後方へ下がった。

 そのまま慎重に後方へ身をやっていると、一つの足音の気配が下方より徐々に近付いて来ているのを感じた。斜面は決して緩やかとは言えないが、その足音は平坦で跳ねた時と同じ音を響かせながら軽やかな足取りで大地を踏み、確実に上を目指して進んでいた。

 足音に混じり、コン、コン、と何かがぶつかり合う音が混じる。まだ足音の主の姿は見えて来ないが、その主が自身の待人である事を碧和は悟った。

「廟公」

 碧和は後方を振り向きながら廟公を呼んだ。廟公はピタリと足を止め、元よりピンと伸びた背筋を再度伸ばした。

「待っていた人が来たようなので私はこれで。ありがとうございました。大変助かりました」

「いえ、私の方こそ資材を届けに来て下さり大変助かりました。修繕がこれでまた始められます」

 廟公は廟の横にある小屋、乱雑に木々が組まれ一時的に支えられている箇所を指差してにこりと笑った。碧和も目を細め、小さく口角を上げ、「良かった」と無言で返した。

 下方より近付く足音は先程より鮮明になり、音の主の影が段々と見え始めた。

 廟公は気配を薄くしてそっと身を乗り出し、碧和の背後から、彼が注ぐ眼差しの先へと慎重に目をやった。この斜面を登るには不似合いな、妙に軽く弾ける足音の主が木陰を割って現れた。

 晩秋の葉の如く淡い緑を帯びた髪が左右に揺れる。冠礼を迎えてまだ日の浅いであろう若々しい面差しの青年だ。その肌は、ここ数月で見たどんな人よりも白かった。

 あどけない足音の青年は斜辺を登り切ると、後ろで手を組んだまま、笑みを浮かべてゆっくりと碧和の前まで足を進め、ぴたりと立ち止まった。そして、両足を揃えて足裏を地面に着けたまま、風に戯れる若枝を真似て身体を揺らし始めた。青年からの視線が自身の顔に固定されているのを嫌がったのか、碧和が外方そっぽを向くと、青年は揺らしていた体を止めて口を尖らせ不満げな顔で碧和を見続けた。視線が鋭さを増した気がして碧和は首を後方に捻った。

 廟公が目の前の二人の無言のやりとりを興味深げに見守っていた時、下方から登ってきた青年の双眸が、気配を割き、廟公を射抜いた。

 紫霄ししょうを沈めた眼差しが底知れぬ光を包含し、廟公の肺を掴む。身体が一気に熱を持ち、天敵に見つかった小動物のように硬直し、喉奥で呼気が止まった。

 青年が暫し廟公を見つめていると、それを咎めるように碧和が青年の頭を軽く叩いた。青年は微かに口角をあげ、目を細めてゆっくり頭を下げた。悪戯に、然し妖艶とも言える微笑みだった。

 廟公はこの突如現れた冷ややかな秋気を纏う青年に意識ごと縫い取られ、鮮やかな紫の底へと知らず沈潜していた。

「……こ……ょう……う……廟公?」

「……!?あ、ああ、はい」

「大丈夫ですか?」

 何度も呼ばれ、碧和の目が再び己に向いていることに気付くまで時間を有してしまっていたらしい。廟公は申し訳なさそうに会釈した。

「私達は倉の修繕の手伝いまでは出来ませんが……綺麗に直ると良いですね」

「はい。ありがとうございます」

「三日間お世話になりました」

 優しい柔らかい別れの言葉とは裏腹に、その背後に佇む青年の紫の眼差しは、廟公の瞼の裏に焼き付いたままだった。

 二人が下山しようと背を向け足を動かしかけたところで、廟公は呼び止めた。

「あ、帰られるなら其方そちらではなく反対の道の方が良いですよ。少しだけ登りますが、その後は道も緩やかですし」

「ん?ああ、はい。そうなんですね。ありがとうございます」

 碧和とその背後に居た青年、そして廟公は互いに会釈し別れの挨拶とした。

「近頃はああいう歩荷もいるんだなぁ……」

 陽が北の空に達するまであと二刻。

 ゆっくりと二つの背が遠ざかるのを瞳に映しながら、廟公は胸を押さえ、まだ鼓動が速いことを不思議に思いながら呟いた。


***


 土に潜むべき木の根が、地を掴まんと地上へ這い出し、うねりを見せて道を覆う。根の一本一本が行く手を阻む罠となり、足元に目を凝らさずには居られない。

 二人が進む道の大半はこうやって山が恰も自らの血管を隠さず剥き出しにしていたようだった。だが、そんな血管もところどころに鋭く断ち切られ、切り取られた管は土に無造作に転がっていた。人の進む道を形成するため、小さな杭が打たれ、階段を作り上げたり、大地を削り均した石段が、山腹を縫いながら続いていた。四面を緑青の葉を付けた大木に囲まれた山に、碧和は想像していた以上の人手を見た。

「……せい、大丈夫?」

 碧和へきわが「せい」と呼んだ人物──紫の瞳の青年の名は青晏せいあんと言う。

 廟までの斜面を陽気な音を弾ませて上がってきた青晏も、先程とは打って変わった足場に苦戦を強いられているのだろう。進む速度が徐々に落ちていた。

「ちょっと休憩する?」

 碧和は来た道を数歩戻り、休息を提案しようと覗き込もうとした瞬間、ぐい、と勢いよく青晏の顔が上がった。

「ねぇ聞いて!?!?!?」

 あまりの声の大きさに碧和の心臓は身体と共に跳ね、周囲の人々の視線が彼らに集中した。刹那の間だったが注目を浴びることになり、山の空気より冷たい視線が刺さった気がして、碧和は辱めを受けた気分になった。

「……どうしたの」

「俺あっちから歩いてきたの!!」

 碧和の羞恥心の滲む声色などお構い無しに、青晏は東の方向を指差した。大木が並び道を塞ぎ合う為、視界に映すことは出来ないが、恐らく言っているのは戲姤山とは違う山の事だ。

「着いたらすぐ碧ちゃんとご対面だ〜!と思ってたんだよ!?でもさぁ!村人に目の前の山指差してこれが戲姤山?って聞いたら反対側の山指差されちゃったの!酷くない!?まただよまた!!俺だけいつもこう!!」

 第一声よりも落ちたが周囲に人が居るにしては未だに余る声量で、青晏は身振り手振りしながら話を続ける。疲労で元気が無くなっていたのかとか思ったが、全くそうでは無いと言わんばかりの有り余った気だ。駄々を捏ねるなら疲れただとか、もう歩きたくないだとか、そっち方面の言葉が欲しかったとすら思える。

「それは大変だったね」

「そう!大変だった!何処か分かんない森の中に着くもんだからさ、とりあえず下るけど全く分かんないのね!無駄だよ無駄!」

 青晏はよく喋る。ここからの青晏の愚痴は長いもので、変にぶつ切りしようとすると今度はその行為に対する不満をつらつらと述べられる。そんな青晏の饒舌さを真正面から身に受けてきた碧和は、適度に頷きながらも流すすべを身に付けていた。

 青晏の長い愚痴が終わりを迎える頃、碧和は頃合を見計り、口を開いた。

「それで、お前が持ってきてくれた話は何?」

 碧和の言葉に青晏の眉がぴくりと動いた。表情が変わった。下がる眉は吊り上がり、口角が上がる。待ってましたと言う笑みに変わった。

 二人は山道の脇に逸れ、大木の根に寄りかかった。

 青晏はひとつ息を吸い、声を潜めた。

「出る前にこんな事言ってたんだよ」


 昨日の書院の灯が脳裏に揺れる。

 陽が顔を向けない窮屈な一室で、燭台の蝋が姿を晦ます準備を整える中、書を閉じた人物は瞼も上げずに告げた。


古印こいん地脈ちみゃくぼっし、門象もんしょううしなわれり

 魄気はくきたるるもなお陰脈いんみゃく余響よきょう

 土精どせい裂隙れっげき宿やどり、遺意いい凝結ぎょうけつ

 旧径きゅうけい方鑿ほうさくあと風化ふうかうずれ、おうぜず

 しょうく、かたちく、きざしすら曖昧あいまい

 しかれどもん残魄ざんはく虚隙きょげき

 て、もくしたが

 もののみ、とおる』


 余韻が霧のように沈んだ後、青晏は思わず「……で?つまり何?」と尋ねた。

 問の向こうの相手は、机上の書物を積み直しながら淡々と、

『要するに──自然にあるはずのない“痕跡”を探せ、だそうです』とだけ言った。


 碧和は苦笑を押し殺した。

「……大事な部分は分からないんだね」

「そ。探せ、とさ」

 青晏は眉を顰めながら肩を竦めた。

 期待した以上のものを用意されずとも、同等か僅かに劣るかを想像して待っていたが、いざ受け取ると自分の用意していた保管箱の空白が無駄に大きかった事を知る。そんな気持ちだ。

 「まぁ登れば良いんじゃない?大方目星つけてくれたしさ」

 青晏は足元に寝転がる小枝を拾い上げ、頭の上まで持っていき、くるくると円を描いた。

 今、彼らが踏む山道は廟公が言った緩やかな道では無い。下山の為に教えてくれた道は確かに在り、登山道と下山道とで二股になっていたが、彼らはそれを無視して下山しなかった。元より下山する意思が無かったのである。

 碧和は大木に預けていた身体を立て直し、上方を見上げた。足を奪われそうな道はまだかなり続くと見える。

「一つだけ……聞きたいんだけど」

 青晏に問うと、彼は無言のまま手を差し出して「どうぞ」の合図をした。碧和は唾を飲み込んで、遠慮がちに問う。

「……どう考えても歩荷ぼっかを装うのは無理がある。絶対あの廟公の目には怪しい人に見えてた……。采配のほうはそんなに頭が回ってないほど忙しいの?」

「嗚呼、なに、文句のほう?ううん、そうでもない。一昨日の昼だって暇に付き合ってくれて一緒にお茶飲んだもん」

「文句……では無い」

「いいよ遠慮しなくて。じゃんじゃん言いなぁ?帰ったら言っとくからさ」

 青晏は嬉しそうにケラケラと笑った。どんな方向に盛られて告げられることになるかと想像すると悪寒がした。

「まぁでも、忙しくなったのは碧ちゃんが出てった後に婆さんがまた口開いてからだよ」

 青晏は顎に手を当て、うーんと唸りながら昨日の記憶を辿った。

「う〜ん……なんて言ってたっけなぁ……えっとねぇ……なんかの星が?どっかを〜えっとぉ……犯して?命宮めいきゅう?に入ったらしくて。そんで……かけに?しょうが?得られない?的な?うん、分かんないけど良くはないみたい」


 青晏が戲姤山に向かったのは碧和が立った二日後だ。

 就寝前に部屋の扉が叩かれ、怠そうに開けると「仕事です」と告げられた。即座に扉を閉めようとしたところ、相手方が一枚上手で、扉の隙間に足と腕を入れられ拒否権を封じられた。

他人の生活を脅かすなんて邪祟みたいな人だのなんだのと、うだうだ文句を垂れて愚図っていた青晏であったが、告げに来た当人は青晏が応じてくれないのではないかという可能性は一欠片も残さず削いでおり、結果として青晏の次から次へと出てくる愚痴を眉一つ動かさず背で受止めていた。そうして連れられて行った部屋で机上に広げた地図のとある位置を指差され言われた。

「場所は梗勾、戲姤山。不吉な星が入ったとのことでしてね、貴方に頼もうと思います。愚図っていらっしゃいますがまぁ御友人が居るので行かれるかと」

「行きます」

 単純なのである。


 そうして青晏は今、碧和の隣に居る。

 二人は『痕跡』を探す為、再び登山の姿勢を取った。大木の根は地を這い続け、緑に囲まれた中で頭上を一群の鳥が過ぎ去る。大自然が四方八方を塞ぐ中に葉が梢光を砕いて散らす。息を切らせて歩く者、鳥を追って足を止める者、景色に声を弾ませる者達の脇を通り過ぎる。

 変わらぬ景色だけが、淡々と足を進ませた。

「嗚呼もう無理!馬鹿!ばーか!」

 多種の鳥声に耳を傾け、時には野鳥について熱心に語り、心を踊らせていた煌めきは何処へやら、青晏の興が遂に削がれてきたらしく、再び休息に入った。

 根に腰掛けていた登山客に軽く礼をし、同様に横に座った。空を見上げれば深碧に覆われる。葉の隙間から差し込む陽光の源は南東の位置、時は遇中ぐうちゅうと言ったところか。息を長く吐きながら視線を正面に戻す。

 ふと、身体を何かが這う感覚に襲われた。

 不安定な山道を挟んだ向こう側、山の名が刻まれた道標の木杭がある。碧和はそれを凝視した。そして空を見上げ、また、木杭に視線を戻す。

 葉が幾重にも重なり合う天蓋から、点々と木漏れ日が揺れながら降りている。だが、その杭は一寸の光も浴びていない。まるで光を避けるように影の底へと押し込まれている。ただ「戲姤山」と書かれただけの道標に碧和の視線は集中した。

「見つけた」

 碧和はぼそりと呟いて木杭に近付いた。書かれた「戲姤山」の文字を上から下へと眼でなぞる。

 手本とされるであろう整った字形で丁寧に彫られた山の名前。碧和はその端に微かな違和を見つけた。筆致の揺れが不自然に繋がる箇所、線の奥に彫り癖の違う別の傷が窺える。

 眉を寄せ、指先でその凹凸をなぞった。滑らかに導線を進ませていると、急に都合が悪くなった。指先が、小さな段差に引っかかり、止まったのだ。表面は整っているのに、下には別の文字があることが潜在している。

 碧和の指先が軽く震え、首筋を微かな寒気が撫でた。

 背後から青晏が歩み寄ってきた。

「何、どしたの」

「何度も削られてる。何か下に別のものがあったと思う。上手く仕上げてあるから分からないようになってるけど」

 確かにそれは一見ただの道標だ。これまで登ってきた中で見てきた道標と何ら変わらない、木杭の道標。

「ただの道標だけど?」

「人は全てをまじまじと見ないものだよ」

「ん?痕跡ってそういう意味?てっきりなんかもっと奇怪的なものかと」

 『奇怪』と言われ碧和の脳内に一つの気掛かりな出来事が滑り込んだ。

「そうだ。直接関係あるかは分からないけど奇怪なことがあったって」

 碧和は朝餉時に廟公が言っていた話を思い出しながら語った。


 時刻は鶏鳴けいめい、草木も寝静まり静寂が流れる人気の無い山を、二人の歩荷が下っていたのだと言う。

 深夜の山を下る事は極めて危険だがどうしても早朝には麓へ辿り着かなければならないのである。歩荷達は互いに不満を言い合いながらも助け合いながら徐々に足を進めていた。そんな時、一人が一つの人影を見つけた。こんな時間に一人で山中に居るとは絶対に鬼に違いないと、二人は緊張を走らせ息を潜めた。然し片方の歩荷は好奇心旺盛な性格故にその人影が気になって仕方が無く、恐る恐る近付いて誠に鬼であるかをこの目で確かめようとし、仕方なく片割れも着いて人影に近付いた。それの全身が暗闇の中で朧気ながらも確りと視界に入る位置まで近寄り、木陰から覗き見た。

 しゃがみ込み、地面に対して一人何かをぶつぶつと呟き、所々に笑い声が混じり、楽しげな様子であった。下を向いている為、顔は分からなかったが、蜻蛉を捕まえるように左手の人差し指を胸の前で軽く曲げ、右手には細い紐が着いた何かを握っていた。暗闇の中で鮮明に見ることは出来ないが、それでもボロボロの自分達よりも余程立派で綺麗な身なりであり、腿を伝って垂れる帯と共に飾り房が地面を撫でていた。何処かの良家の者と推測出来た。

 鬼とはこんな鮮明に見えるものだろうか?

二人は顔を見合せた。そしてもう一度人影に目をやると、突然強く風が吹き、木々がざあざあと揺れ、地に寝そべる葉を起こし、嵐が通るように一瞬にして視界を悪くした。風に舞い上げられ踊り狂う葉達の隙間から辛うじて見えた鬼の人影の、軽く曲げられた人差し指の上に小さな光が灯り、それは己の意思で歩み寄りながら、右手に握られた何かに近づき吸い込まれて行った。小さな光が完全に右手に吸い込まれた途端ぴたりと風は止み、踊っていた葉が何事も無かったかと、また地面に寝そべった。歩荷達はごくりと息を飲んだ。

 瞬間、顔が勢いよく此方を向いた。

 両眼の位置に白い光が炎の如く強く揺らめいた。

 歩荷達は顔を青白く染め上げ叫ぶのも忘れ慌てて駆け足で山を下っていった。


「ふ〜ん、そんな事があったの。でもなんかそれ既視感あるなぁ」

「お前も何処かで聞いたの?」

「んや、なんかさ、俺ここ来たの夜中なんだよね。ちょっとやる事あってさ。そしたらね、人の話し声聞こえて、不味いと思ったけど勝手に悲鳴上げて逃げてっちゃって。他の場所でもあったの?偶然ってあんだね。ん?何?変な顔して」

 ほんの一瞬、心臓が止まった気がした。

(……お前だよお前。お前が原因だよ)

 青晏は疑問を浮かべながら空を見上げている。碧和は思いを胸の内に仕舞った。

「……いや、廟公の話は直接関係無い事が分かった」

「そう?良かったね」

「うん」

 正直なところ、目の前の木杭が『痕跡』か定かではないが、此処が起点だと信じたい。問題はどうやって山道を外れて進むかだ。斜面の中でも極めて悪い足元で、人の目を掻い潜りながら瞬時に身を隠すのは難題である。

 碧和が顎に手を当てながら頭を悩ませていると、青晏が袖を掴んで、くいっと引っ張り、道の上方を指差した。

「碧ちゃん。またちょっと登るよ」

 疑念を抱く気になれない笑顔だった。着いて行けば良いんだと瞬時に脳が理解した。

 再び足を進める。冷風に身を震わせた朝方の記憶が薄れ、廟を離れたのが随分と前に感じる。陽は高く昇っているはずだが、光そのものが薄膜のようで頼り無く、森は未だ夜を引き摺る。青みがかった緑が薄墨を含んで沈み、湿り、乾く気配を持たず、光よりも影が優勢になっていった。

「こっちだよ」

 青晏は碧和の手を引いた。

 湾曲し、人が歩むべき道として整えられた山道の逆方向、明らかに進むべきでは無い茂みを指差して足を向ける。辺りを見回す。登っていく人々の視線は皆、足元か、進む方向へと向けられている。上の茂みへ目を向ける者など、誰一人として居ない。

 姿を残す周囲の者達全員の死角に入った矢先、足場の整っていない大地を踏み、何の迷いもなく足を進めた。

 頭を低くし、行く手を阻む草木を掻き分け、木々の間を身体を捻って通り抜ける。手の甲に枝先が触れて肌を引っ掻いても構う素振りは微塵も見せず、片手に地図の一つも持たぬまま頻繁に下り上りを繰り返しながら進んだ。

 高低差はあるものの、人の通る道として整えられた足場が恋しくなってきた頃、先程まで耳についていた鳥の囀りがぷつりと途絶え、樹間の明も届かない深く青い景色に異なる色が映った。

「見えた!」

 次第に闇を深め沈黙を貫く中で、晴れやかな灯りを灯すような笑顔で青晏はそれに向かって駆けた。

「青、危ないよ」

「大丈夫!」

 目当てのものを見つけ、足元の悪い下り斜面を一定の拍子で軽やかに飛びながら下る幼子の如き青晏に、碧和は注意喚起を促しながらゆったりと背を追う。

 視界が開け、奇天烈な光景が現れた。

 幾度と無く張り巡らされた縄に、不規則な距離感で巻き付けられた古布は、何時の世に書かれたかも知れない朱墨の呪が滲んでいる。風化し、雨に溶け、墨の線はところどころに裂けているがそれでも尚、姿形を保っていた。周囲の樹木は呪符で身を包みながら立ち並び、葉は風を拒んで沈黙している。

 碧和は時間をかけて視線を動かした。樹木の幹に巻き付けられた符が、一方向にだけ、妙に厚くなっている。まるで深夜の底で湿ったまま、腐らず留まり続けた血痕のようだった。符に触れている木の幹もまた、生きた木というより、何かを封じられて呻きを噛み殺す肉塊に思えてくる。

「青……司南しなん……」

 喉に貼り付いたものを無理矢理剥がした碧和の声に、青晏は飴玉を探す気楽さで懐から巾着袋を取り出し、中から掌に収まる大きさの斗柄司南とへいしなんを自身の手に転がし載せると、碧和に向けて差し出した。

 碧和はそれを受け取ると司南が示す先は何処かと視線を落とした。小皿の上、勺形の磁石が一直線に細かく震える方向を確認し、顔を上げる。太陽は南の空を渡っていないはずなのに、縄も、符も、木々も、自身も、皆全てが柄杓と同じ北東へ向けて影を伸ばしている。

 足裏の下で土が微少に沈降した。緩やかに膨らみ、縮みを繰り返す。地中のどこかで巨大な空洞が息を吸い、吐き出しているような気配が脛へまとわりついてくる。何層にも積み重なった息遣いが、靴底越しに脈を打ち、その余韻が耳の奥を揺さぶって低く呻く。氣でも音でもない、説明しようのない振動が、脊椎を気味の悪い手付きでそっと撫で上げた。古色蒼然が暗色に塗りつぶされた場景を前に、純粋な危機感が込み上げてくる。

 探していたものの答えだと、間違いないと、言っている。

 碧和の胸には、言葉にならない緊張と、それに連なる数多の情が、列を作らないまま輻輳ふくそうした。自然の理では整合性の取れぬ偏りが、彼の表情を暗澹へと染めていく。

 揃うものが揃った時の常套句としているのか、青晏はそんな異様さを意にも介さず、放心する碧和の手元から司南を拾い上げて覗き込み、嬉々として息を弾ませた。

「的中!」

 好天色の声が碧和の鼓膜を震わせ、闇に映えて酷く響く。

 青晏は異景目掛けて指を差しながら、はしゃぎ、駆け寄った。興味津々に古布に視線を注ぎ、滲んだ呪を解読せんとあらゆる単語を並べながら、呪文のようにぶつぶつと言葉を零す。

 比して、碧和の足は止まったままで、青晏を追えずに居た。

「碧ちゃん!これ持って帰って良いかな!?」

 青晏は興奮に染め上げた鮮やかな声のまま、花を咲かせた表情で視線を背後にやった。

「な!?」

 碧和の姿が一瞬にして豆粒と同等の大きさになっている。

「あ!?こらっ!何してんの!!」

「……み……るい……」

「何!?聞こえない!!」

 渋い顔の碧和の手を引いて元の位置まで連れ戻した。心底嫌な顔をしている。

「気味が悪い……」

「気味が悪いのは何時もそうでしょ。今更何言ってんの」

 分かってはいたが、やはり逃げることは許されないらしい。碧和は腹を括るしかない。

 青晏は背中に括り付けていた馱架だかを地面に降ろした。布に包んだ荷物を横に逸らし、懐から小さな細身の匕首ひしゅを取り出して、木枠を組んでいた紐の結び目を断ち切って行く。あっさりと木枠が散らばり、足元に角材が寝転がる。「ん」と手を差し出され、苦い顔をしながら碧和も同様に背負っていた馱架を降ろした。

 布に包んだ荷物に手をかけ、開く。態と土埃で汚した衣服を脱ぎ捨て、上等の絹で織られた漆黒の衣を纏う。右腰には掌程の大きさの鮮やかな琅玕ろうかんの玉板があり、それに続いて小さな球体や円柱の玉髄、水精すいしょうが幾つも連なっている。指には瑪瑙めのう、腕には岫玉しゅうぎょくと碧玉。身を屈める毎に玉同士が微かな音を綻ばせ、陽光の無い樹間で細い光を生んだ。砕けた光が玉面を滑り、総身を包み込む。

 後方の低い位置で結っていた髪を、高い位置で再び一つに束ねた。朱の髪帯には文字が綴られている。


てんめいりなす

 光霊こうれい陰陽いんようあわいひそしきをち、

 生命せいめいながれとようせいまも

 めいみなもとれねば寿じゅび、

 邪気じゃきらねばただしきちからながそん

 いん七魄しちはくしたがい、

 よう三魂さんこんしたが

 りつみだすことなく、きざしの寸分すんぶんえ』


 続けて青晏は手に三本の玉簪を持った。濃翠、薄青、白緑である。

 濃翠と薄青を髪へ挿し、最後に白緑を指先で弾いてから、地面へ真っ直ぐ突き立てた。白緑の玉簪は己の内側から微かに光を放つ。

「碧ちゃん〜、準備出来た〜?」

 青晏は碧和の方を見る。引けを取らない艶やかさを纏い、腕、腰等、至るところでぎょくが輝いている。青晏にとってはよく見慣れた碧和の姿だ。

 碧和はこくりと頷き、青晏の横に足を揃えた。

「荷物こんな所に置いといて大丈夫かな……」

「大丈夫。あっちは俺達が何処から入ってったのか分かってんだから半刻もすれば回収しに来るよ」

「何時までに、とかある?」

「ううん。此処は晩鼓ばんこが鳴らないみたいだから時間は気にしなくていい。だけど長いとお腹が空いちゃう」

 迷いも恐れも無い声明。この人は何時だってそうだ。

 碧和は眉を和らげ、笑みを零した。

「んじゃ、行こっかねぇ」

「うん」

 二人は、揺るぎなく前方へと踏み出した。

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天巧途 柚草 @shia_scgss

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