人間はみな、自分の物語を持っています。人間は誰しも人生という物語の主人公です。
ここで大事なのは、物語とは事実の解釈によって成り立つということです。事実は事実でしかないですが、解釈は人によって異なる。だからこそひとつの事実から多くの物語が生まれるのです。
そして、だからこそ個人間での現実認識の齟齬が生じます。それは、結果的にコミュニケーションの不全にも至ります。
このお話はそういうお話です。
このお話は二部構成です。前半は母親、後半は子供の視点で語られます。ふたりは同じ事実について語っています。しかし、解釈が異なる。致命的なほど。
だから、ふたりの物語はずれています。重なりあっていても、混じりあうことはない。そこには絶望的なへだたりがある。
そしてまた、どちらにも共通するのは「物語を押しつけられてきた人」だということです。親から子へ、押しつけられてきた物語。だから彼らはまず、自分の物語を形作り、自らの主権を快復しなければならなかった。
だからこそ彼らは、自分の物語に固執する。自分のフレームのみを通じて世界を見ようとする。ひどく頑なな姿勢。そこに、コミュニケーションのつながりは生じない。
しかし、コミュニケーションは、本当に救いにつながるのでしょうか。絶望的にずれた、混じりあうことのできない物語のぶつかり合いは、ひたすら苦しみと悲しみしかもたらさないのではないか。ならば、コミュニケーションをあきらめ、離れるのがよいのではないか。
それは、あまりに悲しい。しかし、わたしにはよい反論を思いつきません。きれいごとで固められた、上っ面の説得は意味がない。絶対的な孤独にこそ救いがあるのではないかと思えてしまう。
わたしも、わたしという物語の主人公です。そして、この物語の主人公から降りることはできない。死ぬまで。それはもう、どうしようもないことです。
しかし、こういうお話を読むと、ふとこう思ってしまいます。人間には、一度は物語を一切捨て、まったくの裸で、解釈を捨てて世界と向き合う必要があるのではないかと。
それはとても過酷なことです。しかし、その過酷な道を通らなければ、真の救いはありえないのではなかろうか。物語という呪いから解き放たれることはないのではないか。
つい、そう思ってしまうのです。
前編『物語』は、子供が手を離れたのち、自らの人生を回想する母の物語。
どことなく冷めている淡々とした視点で「過ぎたこと」を振り返っていく彼女は「自分の人生を肯定できるかどうかが全て」だと考える――。
続く後編『不要品』では息子の視点から、前編に散りばめられた違和感の謎が解き明かされる。
しかし、本作はミステリーではなく、あくまで現代ドラマです。
謎の先に「心地好い解決」などという絵空事は存在せず、ただぱっくりと空いた虚無の穴の深淵が待ち受けています。
それはまさしく『物語の効用』というタイトルが示す通りのものであり、物語に携わる万人が向き合うべきでもある普遍的な事柄。
無駄なく綺麗にまとまっている読みやすい作品です。ぜひ皆様もご一読ください。