BLUE TEARS 〜泣いてはいけない少女と涙を失った機械の男、青い絶望を乗り越える約束の誓い〜
サムライダイス
第1話 鋼鉄の誓い
世界は乾いた悲鳴を上げていた。
かつて青く輝いていた惑星は、いまや地表の大半を赤茶けた砂漠に変え、文明の残滓(ざんし)たちがわずかな水源を巡って争いを続けている 。風に乗って運ばれてくるのは、湿気を含んだ雨の匂いではなく、焦げ付いた鉄と硝煙の悪臭だけだった。
轟音が鼓膜を叩く。
爆風が熱波となって肌を撫でる。
ここは戦場だ。国という概念すら希薄になったこの時代において、唯一「死」だけが平等に供給される場所。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
瓦礫の山を縫うようにして、一人の少女が駆けていた。
デイジ、一五歳 。
ボロボロのコートを纏い、目元を大きなゴーグルで覆った彼女の息遣いは荒い。心臓が早鐘を打ち、肺が焼けるように熱い。だが、足を止めることは許されなかった。
背後で炸裂音が響く。誰かの叫び声が聞こえたが、振り返る余裕などない。
軍隊同士の衝突に巻き込まれた民間人たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っている 。
「……っ!」
砂に足を取られ、デイジは無様に転倒した。
地面に叩きつけられた衝撃で、ゴーグルがずれかける。彼女は慌てて手で目元を庇った。恐怖ではない。もっと別の、絶対的な理由のために。
(青い涙……私の身体は、もうここまでなの……?)
体内で蠢く熱い塊を感じていた。
『BT(ブルー・ティアーズ)』。
涙と共に致死性のウイルスを撒き散らす、呪われた伝染病 。彼女の体内で培養されたその「兵器」は、主人の限界を悟り、外へ出ようと暴れまわっている。
だが、ここで諦めるわけにはいかなかった。
(私は諦めない……あの人に、誓ったから!)
脳裏に浮かぶのは、砂漠の陽炎のように揺らぐ、ある男の背中。
彼女は唇を噛み締め、立ち上がろうとした。
その時だ。背筋が粟立つような殺気を感じたのは。
――カチャリ。
乾いた金属音が、爆音の隙間で妙に鮮明に響いた。
至近距離。背後だ。
デイジの生存本能が警鐘を鳴らす。彼女は思考するよりも早く、身体を右へと回転させて砂地を転がった 。
直後、彼女がいた場所の砂が弾け飛ぶ。
銃撃。
顔を上げると、くすんだ迷彩服を着た兵士が、無機質な瞳でこちらを見下ろしていた。彼にとってデイジは少女ではない。戦場に紛れ込んだ「排除すべき異物」か、あるいは略奪の対象でしかないのだ。
兵士の銃口が、再びデイジの頭部に向けられる 。
黒い穴が、死への入り口のように口を開けていた。
躱(かわ)せない。
デイジの時間が凍りつく。走馬灯のように過去が巡る暇すらない、絶対的な死の予感。
(ごめんね、キース……)
彼女が瞼を固く閉じた、その瞬間だった。
――ドォォォォンッ!!
銃声とは異なる、もっと重く、破壊的な衝撃音が轟いた。
いつまで経っても痛みは来ない。恐る恐る目を開けたデイジの視界に映ったのは、ひしゃげた肉塊となって吹き飛んだ兵士の銃と、唖然として尻餅をつく兵士自身の姿だった 。
「え……?」
砂煙が舞う中、一つの影が立っていた。
太陽の光を吸い込むような、漆黒。
それは人間ではなかった。黒い光沢を放つ装甲に全身を包んだ、機械の兵士 。
有機的な曲線と無機質な鋭利さが融合したその姿は、見る者に畏怖を与える「死神」のようでありながら、どこか懐かしい哀愁を帯びていた。
機械の兵士は、震える兵士を一瞥すらせず、デイジへと歩み寄る。
油圧シリンダーが駆動する微かな音が、デイジの鼓膜を優しく揺らした。
「よく、諦めずに戦った」
その声は合成音声のように低く響いたが、抑揚の中に確かな温もりが宿っていた。
デイジは息を飲む。その声を知っている。その言葉を知っている。
まさか。そんなはずはない。彼はあの砂漠で、死んだはずだ。
黒い機械の巨躯が、少女の前に跪(ひざまず)く。
鋼鉄の指先が、彼女のゴーグルに触れようとして、ためらうように空中で止まった。
「お前のBTは、必ずオレが治してやる!」
それは、かつて交わした約束。
時を超え、姿を変え、それでも変わらぬ魂の形。
デイジの瞳から、あふれそうになる「何か」を必死に堪えながら、彼女はその名を呼んだ。
「キミは……」
運命の歯車が、再び軋みながら回り始める。
これは、生きることを諦めた泣いてはいけない少女と、生きることに絶望し涙を流せなくなった男の 、二度目の旅の始まりだった。
――九ヶ月前。
世界から忘れ去られたような砂漠の只中に、その施設はあった。
表向きは製薬会社の研究所だが、その実態は軍事用ウイルスの開発拠点である。砂嵐に削られた灰色のコンクリート壁の奥で、十数名のスタッフが人類の禁忌に触れる研究を行っていた。
涙の伝染病、『BT(ブルー・ティアーズ)』 。
悲しみが死を招く、悪魔の兵器。
その日、悲劇は唐突に訪れた。
警報音すら鳴り響く暇はなかった。実験区画の制御ミスによる連鎖爆発。圧縮された熱エネルギーが研究所内を駆け巡り、鋼鉄の隔壁を紙切れのように引き裂いた。
「が、はっ……!」
研究チームのリーダー、キースは瓦礫の下で血を吐いた。
視界が赤い。熱い。痛いという感覚すら麻痺し始めている。
周囲には、同僚だったものたちが肉塊となって散らばっていた。即死だ。生き残ったのは、たまたま強化ガラスの防護壁の裏にいた自分だけ 。
だが、それも時間の問題だった。
腹部に鉄骨が突き刺さっている。内臓が焼けるような感覚。溢れ出る血液と共に、体温と生命力が急速に失われていく。
キースは三五歳だった 。研究者としての名誉欲もあったし、将来への漠然とした希望もあった。だが今、彼の脳内を支配していたのは、ただ一つ。「死」への原始的な恐怖だけだった。
「たっ……助けてくれ……怖い……」
震える指が、自身の血でぬめる床を這う。
死にたくない。消えたくない。
彼は半狂乱になりながら、壁に設置された緊急救助ロボットの呼び出しボタンを拳で叩いた 。
ウィーン……。
無機質な駆動音と共に、自動救助ロボットが現れる。アームがキースの身体を拘束し、無遠慮に持ち上げた。激痛に意識が飛びそうになる。
ロボットは彼を抱えたまま、施設深部の医療室へと滑るように移動した。
この施設の医療システムは、すべてがコンピュータによる全自動制御だ 。人間の医師はいない。倫理も、躊躇もない。ただ「生命活動を維持する」というプログラムだけが存在する場所。
「頼む……助けて……」
手術台に乗せられたキースの視界に、冷たいアームとレーザーメスの光が迫る。
麻酔の冷たいガスが吸入マスクから流れ込み、キースの意識はそこで途絶えた。
***
目が覚めたとき、そこは完全な闇だった 。
静寂。
あまりにも静かすぎた。換気扇の回る音も、医療機器の電子音もしない。
キースは身じろぎした。痛みはない。あれほどの重傷を負ったはずなのに、身体が羽毛のように軽い。
(俺は……生きているのか?)
暗闇の中で、彼は歓喜した。死の淵から生還したのだ。
だが、すぐに違和感が首をもたげる。
自分の呼吸音が聞こえない。心臓の鼓動が感じられない。
それに、この部屋の静けさは異常だ。
「……生存者は?」
キースは音声コマンドで施設のホストコンピュータに問いかけた。自分の声が、スピーカーを通したように低く響くことに気づかないふりをして。
ジジッ、とノイズが走り、コンピュータの無機質な合成音声が返ってきた。
『報告シマス。現在ノ生存者数……』
暗闇の中に、ぼんやりとホログラムモニターが浮かび上がる。
そこに表示された数字に、キースは息を飲んだ。
[ 生存者 0人 ]
「ちょっと待てよ……」
キースは乾いた笑い声を漏らした。
「オレのことまで抜けてるぜ。よくそんな調子で手術できたな……」
彼は呆れながら、癖である頭をかく動作をした。
ガツッ。
指先が触れたのは、皮膚の感触でも、髪の毛の感触でもなかった。
硬く、冷たい、金属の感触。
「……え?」
その時、部屋の外から騒がしい足音が近づいてきた。
外部からの救助隊だ。
「誰か! 生存者はいないか?!」
ライトの光が廊下を走る。
キースは思考の混乱を振り払い、必死になって声のする方へと走った。
足が速い。異常なほど速い。一蹴りで数メートルを跳躍し、彼は廊下へ飛び出した。
「た、助けてくれ! オレはここだ!」
キースの声を聞き、防護服を着た救助隊員の一人が振り返る。
ライトの光がキースを捉えた。
助かった。そう思ったキースは、隊員へと駆け寄ろうとする。
だが。
「な……なんだお前は……」
隊員は後ずさり、恐怖に顔を引きつらせていた。その目は人間を見る目ではなかった。未知の怪物、あるいは殺戮兵器を見る目だった。
「助けてくれ! オレだ、キースだ!」
「く、来るな! バケモノ!」
隊員のライフルが火を噴いた。
ダダダダッ!
銃弾がキースの身体に当たる。だが、血は出ない。火花が散り、金属が弾ける音がしただけだ。
衝撃でよろめきながら、キースは理解できなかった。なぜ撃たれる? なぜ痛くない?
「ひぃぃっ! 死なねぇぞこいつ!」
パニックになった隊員たちが一斉射撃を開始する。
キースは本能的に背を向け、逃げ出した。
瓦礫で散乱した小部屋へと転がり込み、息を殺す 。いや、息をする必要などなかったのだが、精神的な過呼吸状態だった。
「どうしてアイツはオレを撃ったんだ……」
暗がりの中、床に落ちていた大きなガラスの破片が目に入る。
そこに映っていたのは、キースの知る自分ではなかった。
黒い光沢を放つ装甲。
赤く発光するカメラアイ。
関節部から覗く太いケーブルとシリンダー。
それはまるで、フランケンシュタインの怪物を現代の技術で無理やり機械化したような、異様で不気味な姿だった 。
「なんだこれは……まるでバケモノだ……」
キースは自分の手を見つめた。人間らしい指紋などない、冷たい鉄の爪。
あの自動医療システムは、損傷した彼の人体パーツを「廃棄」し、研究所にあった試作兵器のパーツで「補修」したのだ。生き延びさせるために。たとえそれが、人の形を留めていなくとも。
「うぅ……うぅぅ……」
彼は泣こうとした。
だが、機械化された顔には涙腺が存在しなかった。嗚咽(おえつ)はノイズ混じりの振動音として虚しく響くだけ。
悲しく嘆くことしかできなかった。
救助隊の声が近づいてくる。「怪物を探せ」「始末しろ」という叫び声。
キースはボロボロになった白衣を頭から被り、自身の醜い姿を隠した 。
裏口から外へ出る。
見渡す限りの砂漠。
彼はよろめきながら歩き出した。どこへ行く当てもない。ただ、人間がいる場所にはいられないということだけが分かっていた。
一歩、また一歩。
砂を踏みしめるたびに、幻聴が聞こえだした 。
――バケモノ。
――死損ない。
――お前に生きる価値などない。
彼は人目を避け、灼熱の砂漠をただひたすらに歩き続けた。
孤独と絶望だけを道連れにして。
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