君のコピーと、僕の嘘
火之元 ノヒト
第1話
ボタンを押す指が、微かに震えていた。目の前のモニターには、無機質な明朝体でこう書かれている。
【プロジェクト・オルフェウス 参加同意書】
本プログラムは、故人のデジタル遺産を用いた人格再現AIによる、遺族のグリーフケアを目的とした実証実験です。(期間:14日間)
※依存性の観点から、期間の延長はいかなる理由があっても認められません。
※期間終了後、サーバー上の生成データは復元不可能な状態で完全消去されます。
たった二週間。それが、彼女を買い戻すために支払える対価のすべてだった。
僕は息を止め、マウスをクリックする。画面が暗転し、「セットアップ完了。ARグラスを装着してください」という文字が浮かぶ。
机の上に置いてあった黒いフレームのグラスを手に取る。これをかければ、彩に会える。三ヶ月前、あんなにもあっけなく逝ってしまった彩に。
グラスをかけると、見慣れたワンルームが、薄い電子の膜で覆われたように明度を増した。
視界の中央でローディングの円環が回る。心臓の音がうるさい。吐き気がする。こんなことは間違っていると分かっている。でも、もう限界だった。彩のいない世界の静けさに、僕の鼓膜は耐えられなかった。
『生成完了。同期します』
システム音声と共に、部屋の中央、ローテーブルの向こう側に光の粒子が集まり始める。
足元から、腰、胸、そして顔へ。ノイズが走り、一瞬の後、像が結ばれた。少し色の抜けた栗色の髪。気に入ってよく着ていた淡いブルーのカーディガン。
彩が、そこに立っていた。
「……ん、あれ?」
まるでその場にいるかのように、指向性の音声が鼓膜を震わせる。
彩は眠たげに目をこすり、きょとんとした顔で周囲を見渡した。そして、ソファで硬直している僕と目が合う。
「湊? ……え、ここ、家だよね?」
懐かしい声。最後に聞いた時よりもずっと張りがあって、元気だった頃の声だ。
喉の奥が熱くなり、嗚咽が漏れそうになるのを奥歯で噛み殺す。
プロジェクトの説明によると、AIの記憶は、生前のSNSやログが途絶える少し前で止まっていることが多いらしい。彼女は、自分が死んだことを知らない。
「彩」
呼ぶと、彼女はふわりと笑った。
「どうしたの、そんな怖い顔して。私、いつの間にか寝ちゃってた?」
彩が自分の手のひらを不思議そうに見つめる。
今だ。ここで設定を刷り込まなければならない。僕はあらかじめ用意していたシナリオを、祈るような気持ちで口にした。
「……彩、落ち着いて聞いてくれ」
声が裏返らないように、膝の上で拳を握りしめる。
「彩は今、入院してるんだ」
「え?」
「新種の感染症にかかったんだよ。免疫が極端に落ちてるから、今は完全隔離された集中治療室に入ってる」
彩の目が大きく見開かれる。
「集中治療室……? でも、私、今ここにいるよ?」
「それは、大学病院が導入した最新の技術らしいよ。意識だけをアバターに同期させて、家に飛ばしてるんだって」
荒唐無稽な話だ。けれど、医学に疎かった彩なら、そして何より「生きたい」と願っていた彼女なら、信じるはずだと踏んでいた。
彩はしばらく呆然としていたが、やがて自分の身体を見下ろし、そして僕の方へ一歩近づいた。
「じゃあ、この身体は……偽物?」
「アバターだよ。精巧にできてるけど、実体じゃない。ホログラム……みたいな?」
僕は、震える手を伸ばして、彼女の頬に触れようとする仕草をした。
「ね、触れないでしょ?」
彩はすり抜けた僕の手を見て、少し寂しそうに眉を下げた。けれどすぐに、いつもの明るい笑顔を作る。
「そっか……。私、そんなに重症だったんだ」
彼女は納得したように頷き、自分の胸に手を当てた。
「でも、不思議……。全然、苦しくないんだよね」
「……最新の治療薬が効いてるんだよ」
「そっか。よかったぁ……。私、もうダメなのかと思った」
安堵の息を吐く彼女を見て、胸が張り裂けそうだった。
ダメだったんだよ、彩。君は助からなかった。君の身体はもう、骨と灰になって冷たい石の下にあるんだ。
視界の隅に、ARグラスのシステム表示が出ている。
『残り時間:13日 23時間 55分』
カウントダウンは始まっている。
僕は作り笑いを浮かべた。頬がひきつるのが分かる。
「ああ、よくなってきてるよ。……頑張って、治そうね」
「うん!」
彩が力強く頷く。
誰もいない部屋で、僕はずっとひとり言を喋っている。
この残酷で優しい、二週間の夢が始まった。
次の更新予定
2026年1月2日 16:00 毎日 16:00
君のコピーと、僕の嘘 火之元 ノヒト @tata369
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