物理距離ゼロの幽霊、幽香さん。~一年前に死んだ初恋の人が、僕にしか見えない守護霊になって帰ってきた~
あおざかな
エピローグ
五月の晴れ渡った空も、校門へと続く新緑の並木道も、僕にとってはただの白黒映画の背景に過ぎない。
コンビニの弁当は砂を噛むように味気なく、イヤホンから流れる音楽は耳を素通りしていく。
教室の、僕の斜め前。
以前、氷室幽香(ひむろ・ゆうか)が座っていたその席には、今は誰の荷物も置かれていない。
クラスメイトたちは、まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、その空白を避けて通り過ぎる。
一度だけ、掃除の時間に誰かがその机を片付けようとしたことがあった。
僕はそれを見ていられなくて、逃げるように教室を飛び出した。
ただの無機質な木の板が、彼女がもうこの世界にいないことを、毎朝僕に無言で突きつけてくる。
あの日、病室のモニターが平坦な音を奏でてから、僕の時間は一秒も進んでいない。
――最近、変な耳鳴りがする。
人混みの中で、あるいは静まり返った自室で、不意に懐かしい響きが耳を掠める。
『悠真(ゆうま)くん』
幻聴だ、と僕は自分に言い聞かせる。
彼女を失ったショックで、僕の脳が都合のいい逃げ場所を作っているだけなのだと。心の中に空いた大きな穴を埋めるために、記憶の底から彼女の声を再生しているに過ぎない。
数学教師の、低く単調な声が遠くで響いている。
窓から差し込む日差しは、春というには少しばかり熱を帯びていて、昼食後の眠気を誘うには十分すぎた。
ノートの罫線をなぞるシャーペンの先がぼやけ、机の冷たさが頬に心地よく馴染んでいく。
……あぁ、意識が遠のく。
このまま深い眠りに落ちて、目覚めた時にはすべてが夢だったらいいのに。
そんな逃避にも似た願いと共に、意識がまどろみの境界線を越えようとした、その時だった。
――ふわりと、花の香りがした。
それは、葬儀の百合の香りでも、病室の消毒液の匂いでもない。
彼女がいつも纏っていた、淡い、けれど凛とした石鹸のようなあの香り。
ひんやりとした何かが、僕の髪を優しくなぞった。
指先のような、けれど質量を持たない、ただの空気の揺らぎのような不思議な感覚。
「……ふふ。悠真くん、また居眠りですか? だらしないですよ」
鼓膜を直接撫でる、優しい鈴が鳴るような声がした。
跳ねるように目を開ける。
そこには、僕の机を覗き込むようにして、一人の少女がいた。
背中まで届く、長く艶やかな黒髪。
差し込む夕陽を吸い込んで、真珠のように滑らかな光沢を放っている。
セーラー服の襟元を正し、少しだけ困ったように眉を下げて、悪戯っぽく微笑んでいる同級生。
「……おはよう、悠真くん」
氷室、幽香。
一ヶ月前、病気でこの世を去ったはずの、僕の初恋相手。
彼女の透き通った瞳の向こうに、黒板を写す他の生徒たちの背中が見える。
教師の声は止まらない。誰も、彼女の存在に気づかない。
死者は笑わないはずなのに、目の前の彼女は、あまりに鮮やかに「彼女」だった。
「春日! 聞いているのか!」
低く、苛立ちを含んだ声が鼓膜を叩いた。
ハッと我に返ると、黒板の前でチョークを手にした数学教師が、眼鏡の奥の目を鋭く光らせてこちらを睨んでいる。
「……あ、はい」
「はい、じゃない。今の問題、そこにある公式を使って解いてみろ」
クラス中の視線が、一斉に僕に突き刺さる。
慌てて黒板を見たが、数式の羅列は暗号にしか見えなかった。
「えっと……それは……」
冷や汗が背中を流れる。周囲からクスクスという小さな失笑が漏れ始めた。
「聞いていなかったのか? 受験も近いんだから脇を引き締めろ。――おい、後ろの酒井、お前が答えろ」
深いため息をつく僕の隣で、幽香さんがクスクスと喉を鳴らした。
僕の耳元に顔を寄せ、彼女は最高に清楚で、最高に意地悪な笑みを浮かべる。
「ふふっ。まだ二年生になったばかりなのに、先生、気が早いですね?」
一ヶ月という時間は、残酷な別れの証のはずだった。
けれど、モノクロだった僕の世界に、いま、ありえない色が混ざり込もうとしていた。
僕と、幽霊の彼女。
二人だけの、歪で、けれど愛おしい日常が、始まる気がする
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