第12話 天国からの手紙-2
6つ目のルーズリーフ
(イエスキリストの復活)
映美
今日はイエスキリストの復活について話したいと思っています。
私たち人間の常識では太刀打ちできない領域の話になるのでしっかり落ち着いて読んでね。
多くの人がここでつまづいて引き返してしまう箇所だから細心の注意が必要です。
イエスキリストは十字架で血を流して死んで3日後に蘇られたの。
復活された。
つまり生き返ったということ。
そんな話は信じられないという人はいっぱいいる。
まわりに生き返った人いないもんね。
以前にも話したかもしれないけれど、私は数学も好きだけど天文学にも興味があるの。
ガリレオの地動説とか、ほら図書館で会った時にガリレオの話したよね。
覚えてるよね。
私はこの宇宙や天体のことに思いを馳せるのが好きなの。
人間の理性が置き去りにされる感じ。
思いや考えを置いてけぼりにしてくれ、気持ちいいほど謎に包んでくれるから。
ガリレオが言うように地球は回っているよね。
規則正しく毎日毎日回っている。
こんな奇跡が毎日連続して偶然起きているとは私にはどうしても思えない。
誰かがコントロールしているとしか考えられない。
そんなこと人間にはできない。
全能者としての神しかできるはずがないと思うの。
私はこの宇宙のすべての営みをコントロール出来る神がイエスキリストを復活させることが出来ないとは思えない。
何の疑問も持っていない。
十分信じることが出来る。
神がすべてをコントロールしている。人の命も、生も死も。
いくら神でもそれはできないということがあるとしたら、神は全知全能ではないということになってしまう。
全知全能でないなら神ではない。
私はそう思っているの。
(イエスキリストの復活、不思議だけれど、さらの説明の通りだと思う。
そんなことが起こるはずないといえる根拠がない。
人間が人間を生き返らせるという話ではない。
それなら信じられないと思うけど。
父なる神が神のひとり子を復活させたのだから。
私はイエスキリストの復活を心から信じる。)
*
7つ目のルーズリーフ
(恵みと信仰)
人は恵みと信仰によって救われるということを話したいと思っています。
今日は信仰という言葉について一緒に考えていこうね。
信仰とは簡単にいうと信じるということだよね。
この信じるというのは決して証明されることのない領域にしか存在できないの。
言葉で言うと少しややこしくなるけど例えば、
(私は月や太陽が存在していることを信じます)
とは言えないの。
それはすでに認識の対象になっているからです。
疑うことのできないまでに認知されていることだから。
認識の対象になっていることには信じるという言葉は使えないの。
証明されていない、疑うことができる領域にのみ信仰を働かせることが出来るということ。
疑おうと思えば、いくらでも疑える領域の只中で、私はそれでも神を信じますとそこを飛び出す人を神は天国に導き入れるの。
神がそういう救いの方法を好まれたとしか言えない。
確信を持っている人が信仰のある人だと思う人もいるけど、そうじゃない。
確信を持つことは出来てないけど、それでも私は神を心の底から信じるという決心をする人が本当の信仰を持っている人だと私は思う。
ここが大切。
これは盲目的に信じるということとは全く違うの。
うまく説明できなくてごめんね。
心を開いてこの自然界の様子を見る時、背後に神の存在が浮かび上がってくるのがわかるの。
「神がいるなら証明してみろ!
それが出来るなら信じてやる!」
そういう人がいるけど、もしも数学のように神の存在を証明することが出来るなら、信仰を働かせる領域はなくなってしまう。
信仰を働かせる領域がなければ、救われることもできなくなるの。
神が定めた救いの方法は信仰によってのみ救われるのだから。
聖書に(今は救いの時です)と書かれてあります。
これは今は認識の時ではないという意味でもあるの。
同時にそれは信仰による救いの時が終わってしまうある時点が用意されていることを意味しています。
神が信仰の対象ではなく認識の対象になる時がやがて訪れます。
映美はまだ聞いたことがないかも知れないけれど、再臨と呼ばれています。
イエスキリストが再びこの地上に来られるの。
神がはっきり姿を現される時がくるのです。
その時、信仰の時は終わって救いの門は閉じられてしまう。
すべての人に神は認識されて救いの時は終わりを告げるの。
映美
少し頭を混乱させてしまったかもしれないけど私と一緒に時間をかけてゆっくりいこうね。
焦ることないからね。
(さらがわかりにくい内容をできるだけわかりやすく説明してくれている。真実を話してくれているということはしっかりわかる)
*
8つ目のルーズリーフ
(私が好きな聖書の言葉)
映美
今日は私の好きな聖書の箇所を書いてみます。
(マタイの福音書6:26)
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
[イザヤ書 41:10]
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
[イザヤ書 43:4]
わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。
[マタイの福音書 11:28]
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(私もマタイの空の鳥を見なさい...という箇所が好きだ。人生を難しく考える必要はないんだと空の鳥が教えてくれている。
神はこの世界にメッセンジャーたちをこれでもかというくらい送ってくださっていたのだ)
*
8つ目のルーズリーフ
映美からの質問。
「さら、ひとつ聞いてもいい?
何故クリスチャンは他の人にもキリスト教を伝えようとするの?
それぞれ個人個人信じるものが違ってもいいんじゃないかと思ってしまうの。
そこがまだはっきりわからない。」
映美
聖書にはっきりこう書いてあるの。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き 4:12 )
この聖書の言葉は真実だと思っているからです。
また私が子供の頃の話だけれど、聞いて下さい。
私が小学4年の時、家の前の道路で焦げちゃ色の猫が体を道路に擦りつけるように暴れていたのを見たの。
何をしているのかと思って近づいてみると、車にはねられた直後だったようで暴れていたのではなく、苦しくてのたうち回っていたのがわかったの。
可哀想でたまらなくなって泣いてしまったのをよく覚えている。
その時は父も母もまだ帰っていなくて私ひとりだった。
何とかしなければいけないと思って家からバスタオルを持ってきて、その猫をバスタオルに包んで駅前の動物病院まで走っていったの。
早くしないと死んじゃうと思って必死に走っていった。
ネコの重さと体温が腕に伝わっていたのを今でも覚えている。
動物病院に着いた頃、その猫はもうぐったりしていて動かなかった。
でもまだ息はしていたの。
待合室にはたくさんのお客さんが待っていたけど、先生はその猫を先に診察室まで連れていってくれたの。
私は苦しんでいた猫が可哀想で可哀想で仕方がなかった。
泣きながら死にませんように死にませんようにと心の中で祈っていたのをよく覚えている。
その時、待合室には大きな全身が見れる鏡が置いてあって、鏡に写った自分の顔を見て思ったの。
どこかで見たことのある表情だ...。
近所に住んでいたキリスト教の宣教師が日本の子供たちを集めて聖書の話をしている時にときおり見せるあの表情に似ていると...。
宣教師は自分の国を離れ外国に行って聖書の話をする。
その内側にある思いは、私があの猫を思う気持ちと似ていたように感じたの。
一緒にするのは少し乱暴かもしれないけれど、私は確かにそう思った。
なんとしても救われてほしいという思い。
私はその頃から宣教師という人たちを心の底から尊敬するようになっていったの。
顔に手を当て泣いている私に先生は
「大丈夫。あの猫は助かったよ。命を助けてくれて本当にありがとうと言ってくれた。」
宣教師の人たちも私があの時味わった喜びを体験していたんだと思っていたのをよく覚えている。
そして私も聖書をイエスキリストの救いを伝えるものになりたいと心から思うようになっていったの。
山の頂上へ行くにはいくつもの道がある。
でも今話しているのは山に登る時の話ではないの。
山よりもっともっと上の天の話。
人間が自分の足で歩いていけるようなところの話ではないの。
私が言いたいことわかってもらえる?
何を信じてもいいんじゃない。
山道のいろんなルートの話じゃない。
宣教師は命懸けで外国の人達にその唯一の道、それを伝えに海を渡っている。
命をかける価値を見出していたの。
神が唯一でなければ命を賭ける事は出来ないと私は思います。
嘘や間違いのために自分の命を賭ける事は人間には出来ない。
だからクリスチャンはキリストを伝えるの。
私はそう思っています。
*
9つ目のルーズリーフ
(薄笑いの正体)
映美
この世界にはいろんな人がいるよね。それぞれ意見や信念がちがう。
私はクリスチャンだけど、キリスト教が大嫌いだという人もたくさんいることを知っている。
ミッション系大学の講師の中にもそういう人はいる。
あなたも知っている通りです。
こういう大学の講師だということがあるからかもしれないけれど、学生からもキリスト教のこういうところが好きになれないんですと素直な感想をよく聞かされる。
一番多いのは神は唯一だと聖書が宣言しているところ。
排他的なところがどうしても受け入れられないと。
何故イエスキリストだけが唯一の救い主なのかと。
どうして他の神々を見下しているのかなど。
時々、他の大学の講師の方と話す機会もあるの。
博学と呼ばれている先生方達からも露骨に批判されることがあるのよ。
「聖書だけではなく、量子力学なんかも学んでみてもいいと思いますよ。
数学を教えておられるのですから。
誤解しないでくださいね。
聖書が間違っているなんて言うつもりはありません。
大切なのはバランス感覚だと思うのです」など。
本当にいろんな意見がある。
ある時、聖書を露骨に批判する人々の中にある共通部分を見た思いをしたことがあったの。
その表情の裏に薄笑いが見え隠れしていた。
私はそんな薄笑いを浮かべながらこの人生を歩みたくはない。
人は見下す思いを持ちながら敵対心を隠そうとする時、薄笑いを浮かべてしまうのかもしれない。
神は私たちを薄笑いを浮かべながら見られたことは一度もない。
神の中に薄笑いが宿る領域があるとは思えないの。
神は愛だから。
わたしはそう思っている。
だとすればあのなんとも言えない薄笑いは神からのものではないと思えてしまうの。
映美は薄笑いを浮かべる人を魅力的だと思ったことある?
私は一度もない。
映美にまだ話す内容ではなかったかもしれないけれど、前にも言ったけど私は真正面からあなたに私の思っていること、考えてきたことを話しておきたいの。
混乱させたら許してね。
(さらは生まれながらの立派な信仰者だと思っていたところがあったが、いろんなことを体験し、考え悩み、成長されていったのだと知らされる内容だった。
私の知らないさらの一面を見せてくれたようだった。)
*
10冊目のルーズリーフ
(罪悪感について)
映美
今日は罪悪感について私の感じていることを書いてみたいと思います。
うしろめたさや、肩身の狭さ、自分を赦せない思い、これらを材料にして作られてしまった罪悪感という怪物は私たちを内側から食い尽くしていきます。
こころを切り裂いて大きな痛みを与えて人から生きる力を吸い取っていく。
この罪悪感は神からあなたの罪は赦されましたという宣言を聞かない限り終わらない。
だから神を信じない人は、罪の思いからの本当の解放はとても困難になってしまう。
心の奥にある本心を誤魔化すことは誰にもできないからです。
*
ある牧師がこんな話をしてくれたの。
重大な罪を犯した男が、警察から逃げ続ける犯人の話。
逃げ続けている限り、捕まって捉えられる恐怖に怯えて一日も心が休まらない。
ぐっすり眠れたことは一度もない。
地獄のような毎日を過ごしていた。
しかし、逃げきれなくなってその犯人が警察に捕まってしまったの。
その日の夜その人は冷たい床に身を委ねて、何年かぶりにぐっすり眠ったという話。
罪悪感は隠されている時、心の中で暴れ回るけれど、明るみに出てしまうとその力を失ってしまうの。
罪悪感と言う怪物は暗闇の中でしか生息出来ない。
この暗闇とは、神からは見えていないと本人が思っている状態のことなの。
じゃ、どのようにすればこの罪悪感から解放されると思う?
そう。暗闇から明るいところにこの罪悪感を引きずり出すことなの。
神に自分の言葉で心から正直に自分の罪を告白すること。それだけです。
人が罪悪感で苦しんでしまうのは裏を返せば、
(あなたに罪はない、あなたはすでに赦されている)
という言葉を必要としているということだと思うの。
あなたの罪は許されているという絶対者である神様からの判決の言葉を人の心は渇望しているの。
映美
よく聞いてね。
聖書にこんなことが書いてあります。
[ヨハネの手紙 第一 1:9]
(もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。)
私が映美に伝えたいことはこのことなの。
神はあなたのすべて、あなたが気がついていないことまで含めて、すべてのすべてを知って、わかってくれている。
たった一つの誤解もされない。
その神にあなたの罪悪感、汚れ、嫉妬、恨み、裏切り、ごまかし、もう取り返しのつかない罪、それらのすべてをあなたの言葉で神の前に注ぎ出すの。
暗闇から神の光が当たるところまで引っ張ってくるの。
罪悪感という怪物は光が当たってしまうと生きられない。
神はどんな罪も罪悪感も赦してくれていることをわからせてくれて、あなたを解放してくれるのよ。
神にはどんな罪もどんな汚れも赦す権威があるの。
前に話したけれど、イエスキリストはすべての罪を十字架で死をもって処理してくださったと言ったの覚えてる?
神に話を聞いてもらう。
これがクリスチャンがとても大切にしている祈りというものです。
キリスト教はすぐ人を罪人扱いするから嫌だということを聞いたことあるよね。
でもこの罪悪感がどれだけ人々を苦しめているのか。
どれだけ涙を流してきたか。
罪悪感のために人は自ら命を投げ出してしまうこともある。
罪の問題を避けつづけてはいられない。
私はいつも神様に私の心を注ぎ出している。
何でも話すの。
何でもよ。
祈りは神を信じている人達だけの特別な神とのホットライン、直通電話なの。
神は神の子供達の祈りをひとつも聞き漏らすことはありません。
そのためにはどうしても必要なことがあるの。
そう。
神を信じるという一線を越えなければ、本当の告白はできない。
でも心からの本当の告白ならどんな真っ黒に汚れた罪でも赦して下さるの。
とても、厳粛なこと。
今日は罪悪感についての話だったけど、あなたにどうしても考えてもらいたい内容だったの。
焦らないでね。
私の大切な友だち、映美へ
*
11冊目のルーズリーフ
(神はなぜエデンの園に善悪を知る木をおいたのですか?
食べたら死んでしまうような危険なものを何故置かれたのですか?)
映美
質問ありがとう。
映美のこの質問について私の考えを書いてみます。
私は神学者でもなんでもないので、はっきりしたことはわからない。
ごめんね。
でも私はこう思っているということを話すね。
一言で言うと拒否するためだと思うの。
拒否権のないところに本当の自由はないと思う。
私はこれがしたい。これはしたくない。
そういう自由。
何をしてもいいという世界は自由だと思うかもしれないけれど、拒否権を発動するという領域がない。
私は嫌だ。したくないと言える領域。
これがなければ本当の自由はないように私には思えるの。
自分が生きる道を自分で決めるという自由。
神が善悪を知る木を置いたのは、人間に本当の自由を与えている証拠でもあると思うの。
答えになっているかな?
私に答えられるかどうかわからないけど、映美が聞いてみたいことはどんなことでも私にぶつけてみてね。
全力で答えるから。
(さらはわからないことや確信を持っていないことでも正直に自分が思っていることを隠さずに話してくれる。
質問から話を逸らさないでくれる。私もそんな大人になりたい。
次の更新予定
命終えても @kaoru317
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