第10話 オレンジに光る部屋

ご主人が部屋をノックして、スライドドアをそっと開けて覗き込むように入ってきた。


私とさらの時を邪魔しないように気を遣ってくれているのがその表情でわかる。


私の方が恐縮してしまった。

本当に心配りのできる男性だ。

さらが選ぶ人のはずだ。


さらはその時を待っていたかのように脈が乱れ始めてくる。


心拍数も減ってゆき、同時に血圧も急激に落ちていった。


人工呼吸器は忠実にそのまま作動していたが、もうさらの体は酸素を受け付けないようになっているのだ。


人工呼吸器が作動したままさらは天国の門を潜ることになるのかもしれない。


それはご主人の苦しい決断の後味を薄めてくれるに違いない。


厳粛な時がまもなく訪れる。

避けることは出来ない。

もうどうする事もできない現実が目の前に迫ってきていた。


ご主人がさらの顔に手を当てて、何か話している。


何を言っていたのかわからないが、目に涙を浮かべ泣き出しそうな表情でさらを見つめて話していた。


(なんでこんなことに!)などという神に対する疑問や怒りは微塵も感じられない。


神に対する信仰は何があっても揺るがないんだ。


さらとご主人の魂の会話が聞こえてくるようだ。

さらは眠るように何の動きもないが、夫婦で確かに会話をしている。


確かにさらの声を聞いている。

涙とともに小さく頷く横顔が語っていた。


視線を窓の外に向けると、さらの大好きな夕暮れのオレンジ色が訪れようとしていた。


別の部屋でさらの状況をモニターしていた医師と看護師が部屋に入って来る。


部屋に入ると医師はご主人と目を合わせ、2人同時に軽く頷く。

もう言葉はない。


心拍数の波形の間隔が開いてゆき、脈が乱れて飛び飛びになってきた。

ピッピッという音が少なくなってきている。


覚悟はしていたつもりだが、私は往生際が悪い。

死なないで!死なないで!

と心の中で叫んでしまう。

私はまだ奇跡を期待していた。


その時、ご主人が窓の方に向かって大股で歩いていく。

部屋のカーテンと窓を全開にした。


さらが好きだった夕日のオレンジの光を見せたかったんだと思った。


優しい夕日が部屋半分に差し込んできて、爽やかな風が部屋を吹き抜けていった。

さらの前髪が気持ち良さそうに揺れた。


その時だった!


ピッ...ピッ...の音がピー......

に変わった。

波形も緑色の直線になってしまった。


看護師の女性が急いで心臓マッサージをしようとさらの胸に両手を置く。


するとほぼ同時にご主人が右手でそっと看護師の手を遮ったのだ。


医師も看護師の顔を見て、優しく頷いて軽く眼を閉じた。


看護師も頷き、ゆっくり下を向いてその手を太ももの前ににおさめていった。


沈黙が部屋を支配する。


医師は胸のポケットから細く小さなペンライトを取り出して、さらの瞳孔の反応を見る。

呼吸と鼓動も確認した。


ご主人の顔をしっかり見つめて、

とても柔らかな表情で告げた。


「I confirm the time of death at 5:00 PM.(午後5時0分に死亡を確認しました。)


ご主人は両手で医師の手を握り感謝の声を絞り出す。

その後、看護師の女性にも心からの感謝の言葉を告げていた。


私はご主人の崇高さを見た思いに圧倒されていた。


医師はゆっくりご主人の肩に手をそっと置いて、看護師とともに部屋をあとにする。


さらが天国に行ってしまった。

さらが天国に...


私は全知全能の神が奇跡を起こしてくれなかったことに怒りのようなものはなかったとは思うが、理由を知りたかった。


何故さらが死ななければならなかったのか?


何故癒してくださらなかったのか?

神は何も答えてはくれない。


爽やかな風が部屋の中に入っている。

全開した窓の綺麗なブルーのカーテンが手を振るように揺れていた。


さらと赤ちゃんの魂はもうこの地上にはいないんだ。


私は置き去りにされたような孤独を味わっていた。


奇跡は起こらなかった。


しかし、神に対する不信も不満も全くない。

あるのは何故あの若さで死ななければならなかったのか?

その理由が知りたいだけだった。


奇跡は起こらなかったが、静かな納得のような不思議な気持ちに包まれていた。


さらとの出会いのような体験はこの先もうないような気がする。

私にとってさらはかけがえのない人だった。


さらがこの地上を去り、天国に旅立ったまさにその日、私は神の子供として新しく生まれた。


私はこの日を決して忘れない。

さらから信仰のバトンを渡された気がしていた。


さらが教えてくれた聖書の言葉に、

神のなさることは時にかなって美しいという箇所があるが、美しすぎるの間違いではないかと思った。


人間の命が偶然の産物だなんて絶対思えない。

人がこの世に生まれて死んでゆく。


それを偶然の悪戯だという事は命に対し、その命を創造された神に対して赦されることではないと素直に思う。


私は口が滑ってもそんなことは言わないし、脳が滑ってもそんなことは思わない。 絶対に!





さらが埋葬される。その朝を迎えた。

全然 実感がない。さらの声が、あの優しい声が耳から離れない。


空は雲ひとつない晴天。

日本ではあまり見かけない鳥たちが踊るように空を自由に舞っている。


小鳥のさえずる声はなんと人の心を和ませるのだろう。


上空からは優しい光が降り注ぎ、爽やかな風を地上に運んでくれていた。

私は子供の頃から形式的な事が好きではなかった。


そのために、儀式や慣習などにも少し距離を置いてしまうところがある。

でも、それが自分の短所だとは思ってはいない。


それらを削ぎ落としたところ、その奥にある本当のことを見つめたいという欲求が人よりも少し強いのかもしれない。


アメリカの埋葬の儀式がどんなものかは全く知らなかったが、私の中に拒絶を示す心の動きは全くなかった。


清流が滑らかに流れていくように祈りと埋葬が進められていく。


(こちらから順番にお願いします)というものが一切無い。


私は日本人だからどうしても日本びいきになってしまうが、墓地の爽やかさという点においては悲しくなるくらいの違いを見せつけられた。


アメリカの紙幣には

(in god we trust)

われわれは神を信じると書いてあるらしい。


やはり根底に流れている国家レベルでの死生観が違う。


今日、さらのお父さんはひとりで来られたみたいだった。


お母さんはショックで寝込んでしまい、医師からアメリカまで葬儀に行くのはやめた方が良いとの判断だったそうだ。


さらの親戚らしい人達が話していたのが聞こえた。

お母さんの気持ちを思うと心がえぐられる。


寝込んでしまうほどの痛みの中におられるのだ。

私の何十倍も辛いだろう。


お父さんは私を見つけて、優しい声で

「あなたが映美さんですか?」

と聞いてこられた。


「はい。五十嵐映美と言います。

はじめまして。」


「娘からあなたの話はたくさん聞いてます。


娘はある生徒からお友達になってくださいと言われたことやキリスト教信仰について教えて下さいと言われたことが、嬉しくてたまらないと言っていました。


それは娘の心からの願いだったのです。

ずーっと神様に祈り続けていたことでした。


そのような生徒が現れるように祈ってほしいと私と妻に言っていました。

映美さん、日本に帰る前に連絡先を教えて下さい。


私たちは一年に一度くらいしか会えていなかったので、さらの大学でのことなどいろいろ聞きたいです。」


「もちろんです。私もサラ先生の子供だった頃の話を聞かせてほしいです。」


「娘は天国に帰って行きましたが、神様は私たちが再会できることを約束してくださっています。


今は悲しみの中にいますが、再会の希望を持っています。


神がさらという娘を私と妻に預けて育てさせて下さったことを心から感謝しています。


さらのような娘と過ごせた時はこれ以上ない幸せな季節でした。

世界中に自慢したい娘です。」


話をするお父さんも紳士の雰囲気をまとっている。


どこかさらのご主人に似ていた。

本物の信仰は人を人格者に育てるのは間違いない。


さらは天国に行ったと言わず、天国に帰っていったと表現していた。


天国に行くのではなく帰るという。

とても気になる表現だった。


もう一つ、さらの親戚の人たちが話しているのが聞こえた。


「人生はまばたきだね。」

「ほんとまばたき。」


天国での永遠の世界に比べればこの世に生きている時は一瞬だという意味らしい。


さらがいよいよ土の中に埋葬されるという時お父さんが、

「さらをあなたの御手にゆだねます」


と小さな声で言ったのが聞こえた。

すぐ隣にいたのではっきり聞こえた。


お父さんやお母さんは自分の子供が先に死んでゆくことがどんなに辛かっただろう。


それを思うと胸が潰れるほどだ。

埋葬が牧師の祈りで始まり、祈りで終わった。


この世にはもう私の味方は1人もいなくなったような気がしていた。

さらは私の大部分を占めていたのだ。


さらは赤ちゃんと一緒に天国に帰って行ってしまった。

もうこの地上にはいない。


さらの体は土の中に埋まってしまったが、さらの魂は体から離れて今は天国に帰っていったのだ。


(私を信じるものは死んでも生きるのです)というキリストの言葉が再び私の中に浸透してきた。


さらは今も生きている。


今私はさらを失った悲しみの中にいるのは事実だが、さらがよく言っていた(本当の深い解釈への通過点)という言葉が頭の中を駆け回っている。


誤解や間違った解釈だけが通過点なのではなく、悲しみや苦しみも通過点なんだ。

さらが身をもって教えてくれた。


私はこの通過点から逃げない。

咀嚼してすべて飲み干して私の宝にする。


私の心の中の暗く重たい悲しみという物質が沈澱していくのがわかる。


下の方に悲しみが溜まってきて、少しずつ透明な上澄みが見えてきた。

さらがくれた希望が上の方に現れてくる。


さら、あなたが教えてくれたように、神の子供たちは天国で再会するんだよね。


神から永遠の命が与えられ、悲しみや苦しみから解放されて、天国の住人として喜んで素晴らしい世界で生きることになるんだよね。


私はまったく疑ってないよ。

心の底から信じている。


私はその時までこの地上でさらのような眼差しで神の子供として希望を持って生きていくよ。


ありがとう...さら...。





さらの埋葬が終わりその後、夕食の会が催されたが、私は1人になりたかった。


さらがいつか言ってくれた映美と一緒に祈れる日を願っているというのは実現しなかったが、私は今夜ひとりで祈りというものをやってみるつもりでいる。


大学での祈りは神を信じていない時のもので、あれは祈りとは呼べない。

さらの祈りの言葉を思い出しながら、とにかくやってみる。


さらも言っていた。

形ではない。

心で祈ることが大切だよと。


それなら出来そうだ。

もともと本音を話すのは苦じゃない。


さらはもうこの世にはいない。

あの優しい声をもう聞けないんだ。

この現実を受け入れるにはひとりになってゆっくり過ごす時間が私には必要だ。


夕食会に出ないで一人になりたいとご主人に告げると笑顔で頷いてくれた。


お墓から家まで歩いて40分位の距離。

夕焼けの中を1人で泣きながら歩いた。


途中で何度もしゃがみ込んでしまう。

足に力が入らない。


やっとの思いで、さらの部屋にひとり戻る。

目を瞑りいろんなことを思い出していた。


友人からのいじめ、適応障害、強迫性障害、引きこもり、そしてさらのいる大学に合格したこと...。


さらという心から尊敬できる人と親友になれたのは偶然なんかではない。

神様の導きだったのだと...。


だとすれば神はこれからも私を導いてくれるはずだ。

そんなことを考えていた。


暗くなってきた頃、ご主人が帰ってきた。

さらのお父さんは親戚の人達と一緒に近くのホテルに宿泊するそうだ。





私はひとりさらの部屋で窓の外を眺めていた。


本当にこれは現実なのだろうか?

もうさらがこの世界にいないなんて...


突然ノックする音。

私はまだ体に力が入らず、返事しようとしたら声が喉に詰まってしまった。


もう一度ノックが聞こえた。

かすれた声で小さくイエスとやっと言えた。

ゆっくりドアが開く。


優しく微笑むご主人が手招きをして隣の部屋のドアをゆっくり開けた。

背中を押され部屋に入る。


そこには生まれてくるはずだった赤ちゃんのベビーベッドや可愛いおもちゃ、小さな靴下など赤ちゃんへの愛が詰まった品物が綺麗に整頓されて置かれていた。


さらとご主人はどんなに赤ちゃんを待ち望んでいただろう。

その無念さが突き刺さってくる。


高級そうなクローゼットの扉を開けて中を見せてくれた。

さらのスーツ、シャツ、スカーフやバッグが綺麗に並んでいた。


さらは高級なものは買わない人だったようだ。


ブランドバッグなどは一つもない。

しかし、あまり安いものもなさそうだった。


リーゾナブルで質の良いものを選ぶセンスの持ち主だったということが一目でわかる。


持ち物は意外に少ない。

さらの生き方が垣間みえる。


ご主人が言う。

「欲しいものがあったらなんでも映美にあげます。選んでください。


持って帰るのは大変だから日本に送ります。

残りはさらの両親に送ります。


私はさらがいつもしていた十字架のネックレスがあればそれで充分だから」

と笑顔で話してくれた。


「さらはあなたのことをいつも気にしていたよ。

映美のために何ができるかをいつも考えていました。

映美が使ってくれたら嬉しいはずです。」


その後、クッキーが入っていたような空箱をそっと見せてくれた。

蓋を開けると内側に(映美に届きますように)と書いてある。


中には2、3枚をホッチキスでひとまとめにしてあるルーズリーフが束になって入っていた。


ご主人は日本語がすこし話せるが読むことは出来ないので、何が書いてあるか読んでいないと言っていた。


さらが、貴方に伝えたいことを頭の中で整理するために書いていたものと思いますと聞かされた。


日本まで時間がたっぷりあると思うので機内でゆっくり読んでくださいと渡してくれた。


すぐに読んでみたかったが、言われた通りに帰りの機内で読む事にした。


翌日朝早く目が覚める。

私はひとりで日本に帰ることになった。


考えてみると、私はご主人に一言も慰めの言葉をかけていない。


その必要はないとも感じている。

それより私はご主人と一緒に泣きたい。

一緒に思いっきり泣きたい。


いつかさらが悲しむ者と共に泣くことの重要性が聖書に書いてあると言っていたような気がする。


飛行機は夕方ごろの出発だ。

空港まで車で送ってもらえるだろう。何も言えなくてもいい。


さようならを言う前に時間があれば私はなりふり構わずご主人と一緒に泣きたい。


慰め合っても、心は癒されないと私は思う。


一緒に泣くのはしっかり現実から目を離さずそれを真正面から受け止めることになるはず。


さらもそれを望んでいるように感じる。


一緒に泣く時、私たちは心の解放を味わい、希望に向かっていける。

そんな気がするのだ。


ご主人は男性なので一緒に泣いてくれないかもしれないが...





夕方、時間通りに空港のゲート前に着いた。

搭乗15分前。

ご主人とお別れする時が来た。


もう時間がない。

チャンスがなくなる。

私は躊躇する気持ちをかなぐり捨てて、何も言わずに思い切って自分からご主人の手を握った。


その時私の感情が滝のように流れ出て、大きな声で泣き出してしまった。


ご主人も涙を隠さず顔をくしゃくしゃにして声を出して泣いてくれた。

1分近くふたりで声を出して一緒に泣いた。


泣いている間、悲しみでいっぱいだったが、同時に私は心の解放を味わっていた気がする。


声を出して泣くというのは心をリセットしてくれる。

涙は神が与えてくれた最強の特効薬だ。


しばらくして、ふたりの泣き声が同時にゆっくり止んでゆく。


ご主人は私を軽くハグして背中を優しく撫でてくれた。


その時、ご主人の中に悲しみと同時に安らぎがあることを感じた。


さらは死んでも生きているという聖書の言葉をリアルに感じている。


私もさらは死んでも生きていると信じているが、そのように思い込もうとしているところがある。

信仰のレベルが違う。


そんなことを感じながら別れの時を迎えた。

もうさようならの言葉はいらない。


私は涙を拭いて、できる限りの笑顔を作って手を振りながらゲートに向かう。


胸につかえていたものが綺麗に消滅してることに気がついて、悲しみの中に希望の香りが混在しているように感じていた。





日本へ向かう飛行機の中。

通路を歩いて シート番号を確認すると窓際の席だった。


座席に座るとひとりだけになったことを実感する。

ボストンの夕暮れが涙を通してぼんやり見えていた。


何処にも視点は定まらない。


さらと赤ちゃんの体が眠っているこのボストンの地が私にとって特別なところになっていた。


私が神の子供として新しく生まれた所でもあり、故郷のようにも感じる。

さらにはもちろん言葉にできないほど感謝している。


しかし今はそれだけではない。

さらに巡り合わせてくれた神に心から感謝している。


クリスチャンは神に感謝しますとよく口にするが、こういうことなのだと実感する。

綺麗ごとを言っているわけではなかったのだ。

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